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第6話 逆ギレの終わり

第6話 逆ギレの終わり


 内容証明が届いた日の夜、美咲のマンションには重たい空気が流れていた。


 テーブルの上には開封された封筒が置かれている。


 白い紙。


 黒々とした文字。


 “慰謝料請求”。


 和也は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「ふざけるな!」


 机を叩いた拍子に、缶ビールが倒れる。泡がテーブルを流れ、美咲が嫌そうに顔をしかめた。


「ちょっと、こぼれてる」


「そんなことどうでもいいだろ!」


 和也は紙を掴んだまま荒い息を吐く。


「なんなんだこれは! 慰謝料!? 請求!? 俺が!?」


 美咲はソファに座ったまま、スマホを見ている。


 その態度が余計に和也を苛立たせた。


「おい、聞いてんのか!」


「聞いてるって」


「俺が被害者だろうが!」


「はいはい」


「静子が勝手に家を締め出したんだぞ!?」


 怒鳴りながらも、和也の背中には冷たい汗が流れていた。


 内容証明には、弁護士の名前と共に、具体的な請求額が書かれていた。


 現実味のある数字だった。


 冗談では済まない。


 和也は慌ててスマホを掴む。


「……くそ」


「どこ行くの?」


「弁護士んとこだよ!」


 翌日。


 空はどんより曇っていた。


 和也は島崎弁護士の事務所へ向かっていた。


 雑居ビルの古びたエレベーターは、油の切れた音を立てながらゆっくり上がる。


 鏡に映った自分の顔は酷かった。


 髪は乱れ、目は赤い。


 ネクタイも曲がっている。


「……くそったれ」


 受付を抜けると、静かな応接室へ通された。


 コーヒーの匂いが薄く漂っている。


 和也は落ち着かずソファに腰を下ろした。


 しばらくして、島崎が入ってくる。


「高瀬和也さんですね」


「ああ」


 島崎は静かに名刺を置いた。


 和也はそれを見るなり、机を叩いた。


「ふざけるな!」


 低い音が部屋に響く。


「慰謝料はそっちだろ!」


 島崎は眉ひとつ動かさなかった。


「理由を伺っても?」


「俺は家を追い出されたんだぞ!」


「ご自身で出ていくと宣言されたそうですね」


「そ、それは……」


「愛人宅へ行く、と」


 和也の顔が引きつる。


「それと、こちらをご覧ください」


 島崎はファイルを開いた。


 紙の擦れる音が静かな部屋に響く。


「不貞の証拠です」


「……」


「ホテル利用履歴。クレジットカード明細。高速道路利用記録。飲食店の領収書」


 次々に並べられる証拠。


 和也の喉がひくりと動く。


「奥様は数年前から記録されていました」


「な……」


「非常に丁寧に」


 和也は絶句した。


 頭の奥がじわじわ熱くなる。


 静子が?


 あの静子が?


 何も言わず、黙っていたあの女が?


「それから」


 島崎はさらに紙をめくる。


「婚姻費用の未払い」


「は?」


「現在、別居状態にありますが、生活費の支払いが確認できません」


「いや、俺だって生活苦しいんだよ!」


「それは奥様には関係ありません」


 淡々とした声だった。


 感情がまるでない。


 だからこそ、余計に冷たく聞こえる。


「請求するのはこちら側です」


 その言葉に、和也は完全に黙った。


 静かな部屋の中で、時計の秒針だけがやけに大きく響いている。


「……嘘だろ」


 かすれた声が漏れる。


「高瀬さん」


 島崎は静かに言った。


「これは夫婦喧嘩ではありません」


「……」


「法的手続きです」


 和也は急に息苦しくなった。


 胸の奥がざわつく。


 まるで、自分だけ知らない場所で全てが進んでいたような感覚だった。


「静子が……こんなこと……」


「奥様は非常に冷静です」


 その言葉が、妙に恐ろしく聞こえた。


 和也は思い出す。


 怒鳴っても泣かなかった静子。


 鍵を替えた日も、表情ひとつ変えなかった静子。


 あれは、感情がないのではなかった。


 もう、とっくに終わっていたのだ。


 和也だけが気づいていなかった。


 事務所を出ると、雨が降っていた。


 細かい雨粒がスーツを濡らす。


 和也はふらつきながら駐車場へ向かった。


 車に乗り込み、ハンドルに額を押しつける。


「……なんなんだよ」


 手が震えていた。


 その時、スマホが鳴った。


 会社からだった。


「はい……」


『高瀬部長、今どちらですか?』


「ああ……ちょっと外だ」


『本日の会議、忘れてます?』


 和也の顔から血の気が引く。


「……え?」


『役員会議です』


「……っ」


 完全に忘れていた。


 会社へ戻ると、空気が妙に重かった。


 会議室の前を通ると、若い社員たちが一瞬黙る。


 その沈黙が痛かった。


「部長」


 後輩の一人が気まずそうに近づいてくる。


「大丈夫ですか」


「何がだ」


「いや……最近」


 言葉を濁す。


 だが目が語っていた。


 噂になっている。


 和也は背筋が冷えた。


 デスクに戻ると、隣の席の社員たちの会話が耳に入る。


「なんか女関係らしいよ」


「奥さんに追い出されたって」


「まじで?」


 笑いを堪えるような声。


 和也は拳を握り締めた。


「……うるせえ」


 だが誰も聞いていなかった。


 誰も。


 もう自分を恐れていない。


 その現実が、じわじわと和也を追い詰めていく。


 一方その頃、静子は自宅で洗濯物を畳んでいた。


 柔軟剤の優しい匂いが部屋に広がる。


 静かな午後だった。


 テレビでは天気予報が流れている。


『今夜は強い雨になるでしょう』


 静子はタオルを綺麗に揃えながら、小さく息を吐いた。


 不思議だった。


 こんなにも穏やかな気持ちでいられるなんて。


 その時、固定電話が鳴った。


「はい」


『静子ぉ……』


 和也だった。


 声が震えている。


『会社で……噂になってる』


「そうですか」


『お前、どこまでやる気なんだ』


 静子は窓の外を見た。


 黒い雲が空を覆い始めている。


「どこまでも、ですよ」


 静かに答えた。


「三十五年分ですから」



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