第5話 夫、崩壊開始
第5話 夫、崩壊開始
美咲のマンションの朝は、妙に甘ったるい匂いがした。
柔軟剤。香水。コーヒー。女物のシャンプー。
和也はソファで目を覚ました。
首が痛い。
昨夜、美咲と口論になったあと、そのまま寝落ちしたのだ。薄い毛布が床に落ちている。窓の外では車の走る音が絶え間なく響き、カーテンの隙間から白い朝日が差し込んでいた。
和也は顔をしかめながら起き上がる。
「……腰痛ぇ」
その時、キッチンから美咲の声が飛んだ。
「ねえ、和也さん」
「ん?」
「牛乳切れてる」
振り向くと、美咲が冷蔵庫を開けたまま不機嫌そうに立っていた。
「あとコーヒーもないし」
「買えばいいだろ」
「だから誰が?」
和也は眉をひそめた。
「……は?」
「和也さん、昨日もコンビニ行かなかったじゃん」
美咲は面倒くさそうに髪をかき上げる。
「私ばっか買ってるんだけど」
「いや、そんな細かいこと……」
「細かくないよ」
冷たい声だった。
和也は言葉に詰まる。
以前の美咲なら、こんな言い方はしなかった。
『和也さんって頼れるー』
『一緒にいると安心する』
甘えるように笑っていた。
だが今、美咲の目にあるのは苛立ちだった。
「それにさ」
美咲が冷蔵庫を閉める。
「家賃、どうするの?」
「……家賃?」
「今月きついんだけど」
「いや、お前一人で払ってただろ」
「前はね」
美咲はスマホをいじりながら言った。
「でも今は二人じゃん」
和也は黙った。
テーブルの上には、昨夜の出前の空き箱が積まれている。ワインの瓶も転がったままだ。
美咲はそれを見ながらため息をついた。
「なんかさあ」
「……何だよ」
「思ってたのと違うんだけど」
その瞬間、和也の胸の奥で何かがざらりと崩れた。
「違うって何が」
「もっと余裕あると思ってた」
「は?」
「だって会社員でしょ? 奥さんいるくらいなんだから、お金あるのかと思うじゃん」
和也の顔が強張る。
「お前、金目当てかよ」
「そんなこと言ってないし」
「同じだろ!」
「大声出さないでよ」
美咲は露骨に嫌そうな顔をした。
「朝からうるさい」
その態度に、和也は一瞬言葉を失った。
静子はこんな顔をしなかった。
どれだけ怒鳴っても、黙っていた。
黙って朝食を出し、黙って洗濯をしていた。
ふいに、焼き魚の匂いを思い出す。
味噌汁の湯気。
静かな朝。
和也は頭を振った。
「……会社行く」
「ねえ」
「なんだよ」
「今月、いくら入れてくれる?」
和也は答えず、乱暴にスーツを掴んだ。
会社へ向かう車の中でも、胸の中は苛立ちでいっぱいだった。
赤信号で止まる。
バックミラーに映った自分の顔を見て、和也はぎょっとした。
老けている。
目の下には濃い隈ができ、頬もたるんでいた。
「……くそ」
会社に着くと、若い社員たちが小声で話しているのが耳に入った。
「高瀬部長、最近やばくない?」
「なんかミス多いよな」
「顔色悪いし」
和也は舌打ちしながら席に座った。
だがパソコンを開いても、数字が頭に入らない。
昨夜の美咲の顔。
『思ってたのと違う』
その言葉が何度も頭の中で響く。
「部長」
部下の声に顔を上げる。
「先方への資料、日付間違ってます」
「……は?」
「これ、去年のデータです」
和也は慌てて資料を見る。
本当だった。
「す、すまん」
周囲の空気が妙に静かになる。
若い社員たちが気まずそうに目を逸らした。
和也は急に汗が噴き出した。
その頃、静子は静かに喫茶店へ入っていた。
駅前の古い店だった。
コーヒー豆の香ばしい匂いが漂い、クラシック音楽が小さく流れている。
「こちらへどうぞ」
店員に案内され、窓際の席へ座る。
数分後、島崎弁護士が現れた。
「お待たせしました」
「いえ」
黒い革鞄を置き、島崎は静かに資料を広げる。
紙の擦れる音。
コーヒーカップの小さな音。
「改めて確認します」
島崎は低い声で言った。
「離婚で進める、でよろしいですね」
静子は窓の外を見た。
商店街を歩く人々。
買い物袋を提げた主婦。
小さな子ども。
三十五年前、自分もあの中にいた。
夫と並んで歩き、未来を信じていた。
「はい」
静子は静かに答えた。
「離婚で進めましょう」
島崎は頷いた。
「慰謝料請求も可能です。証拠は十分あります」
「そうですか」
「ただ、かなり揉めると思います」
静子は少しだけ笑った。
「もう、揉める元気もない人ですよ」
島崎が静かに静子を見る。
「……高瀬さんは強いですね」
「違います」
静子はコーヒーを口に含んだ。
少し苦かった。
「諦めただけです」
帰宅した頃には夕方になっていた。
西日が玄関を赤く照らしている。
静子は買い物袋を置き、ふと居間を見渡した。
静かだった。
けれど寂しくはない。
むしろ空気が軽い。
その時、固定電話が鳴った。
「はい」
『静子』
和也だった。
声が疲れている。
「何でしょう」
『俺……』
少し間が空く。
『俺、逃げ場ないのか』
静子は黙った。
受話器の向こうから、車の走行音が聞こえる。どうやら外にいるらしい。
『家も入れねえし、会社も居づらいし……』
「そうですか」
『美咲もなんか冷たいし』
その言葉に、静子は小さく目を閉じた。
とうとう言った。
女の名前を。
『俺、どうしたらいいんだよ』
弱々しい声だった。
静子はゆっくり答える。
「知りません」
『静子』
「私は、あなたのお母さんじゃありません」
沈黙。
和也の荒い呼吸だけが聞こえる。
「それと」
『……何だ』
「明日、内容証明が届きます」
『は?』
「弁護士からです」
『お、お前……本気でやる気か?』
「ええ」
静子は静かに言った。
「もう始まっていますから」
電話を切ったあと、静子は窓を開けた。
夕方の風が、カーテンをふわりと揺らす。
遠くでヒグラシが鳴いていた。
一方その頃、和也は車の中で青ざめていた。
ハンドルを握る手が震えている。
「内容証明……?」
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。
もうこれは、夫婦喧嘩ではない。
本当に、終わるのだ。




