第4話 35年の観察
第4話 35年の観察
朝の空気は少し冷えていた。
雨が上がった庭には薄い靄が残り、濡れた紫陽花の葉先から水滴がぽたりと落ちる。静子は縁側に座り、湯呑みを両手で包み込んでいた。
温かい緑茶の湯気が頬をかすめる。
静かな朝だった。
和也がいない家は、こんなにも音が少なかったのかと、静子はぼんやり思う。
怒鳴り声もない。
乱暴に閉められるドアの音もない。
機嫌をうかがう必要もない。
それだけで、呼吸がしやすかった。
居間の時計が七時を知らせる。
静子はゆっくり立ち上がると、仏壇の前へ座った。
線香に火をつける。
煙が細く立ちのぼり、懐かしい香りが部屋に広がった。
「……お義母さん」
小さく呟く。
和也の母は、生前よく言っていた。
『あの子は見栄っ張りだから』
結婚したばかりの頃だった。
まだ若かった静子は、その意味をよく分かっていなかった。
和也は優しかった。
少なくとも最初は。
給料日にはケーキを買って帰り、休日には車で海へ連れて行ってくれた。
『静子、好きなの頼めよ』
レストランで得意げにメニューを差し出す顔を、静子は今でも覚えている。
けれど結婚して数年が過ぎる頃から、少しずつ違和感が増えていった。
『部下に舐められるからさ』
そう言って高い腕時計を買った。
『付き合いなんだよ』
そう言って飲み歩いた。
『男には必要なんだ』
そう言って車を買い替えた。
そのたびに、家計は苦しくなった。
静子は夜中、台所の明かりだけをつけて通帳を見つめた。
まだ幼かった娘の学費。
住宅ローン。
保険。
数字を並べ直しながら、ため息を飲み込む。
和也は何も知らなかった。
『節約しろよ』
簡単に言うだけだった。
ある夜、和也は酔って帰宅した。
スーツから知らない香水の匂いがした。
甘く、鼻につく香り。
静子が黙って上着を受け取ると、和也は不機嫌そうにネクタイを緩めた。
『飯ある?』
『ありますよ』
『先に風呂入る』
その背中を見ながら、静子は静かに息を吐いた。
女だ。
すぐ分かった。
だが問い詰めなかった。
問い詰めたところで、和也は認めない。
逆に怒鳴るだけだ。
『疑うのか!』
『誰のおかげで飯食えてると思ってる!』
過去に何度も聞いた言葉だった。
だから静子は黙った。
騒ぐ代わりに、観察した。
レシートを見る。
ワイシャツの匂いを見る。
財布の中身を見る。
和也が風呂に入っている間、背広のポケットを確認することもあった。
ホテルの会員カード。
高級レストランの領収書。
知らない女の字で書かれたメモ。
全部、静子は捨てずに残した。
古い菓子箱の中に、ひとつずつ。
最初は手が震えた。
胸も苦しかった。
けれど何年も続くうちに、感情は少しずつ薄れていった。
代わりに残ったのは、“確認”だった。
ああ、やっぱり。
またか。
その程度の感情。
静子は居間の押し入れを開けた。
奥から古いノートを取り出す。
茶色い表紙は擦れて角が丸くなっていた。
ページを開く。
『六月三日。帰宅午前一時。香水の匂い』
『九月十二日。カード利用額増加』
『二月二十日。ホテル領収書』
静子は何年も記録していた。
誰にも見せないまま。
「馬鹿みたい」
思わず小さく笑う。
でも、その“馬鹿みたい”な積み重ねが、今の自分を守っている。
昼前、静子は銀行へ向かった。
商店街には湿った風が流れている。
八百屋の前には濡れた段ボールが積まれ、魚屋からは生臭い匂いが漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
銀行員が頭を下げる。
静子は静かに通帳を差し出した。
「定期を分けたいんですが」
「かしこまりました」
窓口で待ちながら、静子はぼんやり外を見た。
和也は知らない。
退職金を見越して、静子が少しずつ資産を整理していたことを。
保険内容を確認し、口座を分け、必要なものを書き出していたことを。
全部、“もしもの時”のためだった。
いや。
本当は違う。
静子はもうずっと前から分かっていた。
いつか終わる、と。
和也は変わらない。
この人は、一生、自分の欲望を優先する。
だから静子は準備した。
静かに。
誰にも言わず。
午後、自宅へ戻ると固定電話が鳴った。
「はい」
『高瀬さんですか』
低く落ち着いた男の声。
島崎弁護士だった。
『資料、確認しました』
「ありがとうございます」
『かなり細かく残されていますね』
「癖なんです」
『助かります』
静子は受話器を握りながら、庭を見つめた。
風で木の枝が揺れている。
『ここまで揃っていれば、十分進められます』
「そうですか」
『正直、驚きました』
島崎は少し間を置いて言った。
『普通は感情的になりますから』
静子は小さく笑った。
「泣いた時期は、もう終わったんです」
受話器の向こうで、島崎が静かに息を吐く。
『長かったんですね』
「三十五年ですから」
電話を切ったあと、静子は居間に座った。
静かな部屋。
冷蔵庫の低い唸り音だけが響いている。
ふと、若い頃の自分を思い出した。
まだ二十代だった頃。
夫に愛されることだけを考えていた頃。
あの頃の自分に教えてあげたいと思った。
あなたは、もっと早く諦めてよかったのだと。
もっと早く、自分を守ってよかったのだと。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
静子が出ると、和也が立っていた。
昨日より顔色が悪い。
無精ひげまで生えている。
「……何ですか」
「ちょっと話がある」
声に勢いがない。
静子は扉を開けなかった。
「短くしてください」
「お前さ……」
和也が唇を湿らせる。
「本当に離婚する気なのか」
「ええ」
「俺たち三十五年だぞ」
「そうですね」
「そんな簡単に終わるのかよ」
静子は少し考え、それから静かに答えた。
「簡単じゃありませんでした」
「……」
「三十五年かかりました」
和也の顔が強張る。
「静子」
「もう準備は終わっています」
その言葉を聞いた瞬間、和也の顔色が変わった。
初めてだった。
夫が、自分の知らない“静子”を見た顔をしたのは。




