第3話 愛人の正体
第3話 愛人の正体
雨は夜になっても降り続いていた。
ワイパーがフロントガラスを擦るたび、白く滲んだ街灯がゆらゆら揺れる。
和也はハンドルを握りながら、苛立ったように舌打ちした。
「くそっ……」
湿ったワイシャツが肌に張りついて気持ち悪い。朝からろくなことがなかった。静子に締め出され、昼はネットカフェで時間を潰し、今は愛人の美咲のマンションへ向かっている。
だが、不思議と気分は晴れなかった。
本来なら自由になったはずなのだ。
面倒な妻から解放され、若い女と新しい人生を始める。そう思っていた。
なのに胸の奥に、じっとりとした不安が貼りついて離れない。
信号待ちでスマートフォンを見る。
静子からの連絡は一件もない。
追いかけてもこない。
泣きついてもこない。
和也は眉をしかめた。
「……なんなんだ、あいつ」
マンションに着くと、美咲がオートロックを開けた。
「和也さんー」
甘ったるい声。
ドアを開けた美咲は、ふわりと甘い香水の匂いを漂わせて抱きついてきた。茶色く巻いた髪。艶のある唇。胸元の開いた薄い部屋着。
和也は少しだけ安心する。
そうだ。
俺には美咲がいる。
「大変だったねえ」
「ほんとだよ。あいつ、頭おかしくなっててさ」
「えー、怖ぁい」
美咲は大げさに肩をすくめた。
部屋の中は暖房が効いていて、甘いディフューザーの匂いが充満している。白いソファ、ガラスのテーブル、大きなテレビ。どこも生活感が薄く、まるでモデルルームみたいだった。
「とりあえずシャワー浴びる?」
「ああ」
「ご飯まだ?」
「食ってない」
「じゃあ出前頼もっか」
美咲は笑いながらスマホを操作する。
和也はソファに深く腰を下ろした。
柔らかい。
静子の家の古いソファとは全然違う。
そう思った瞬間、なぜか胸の奥がざらついた。
シャワーを浴びたあと、二人でテーブルを囲んだ。
ピザとワイン。
テレビではバラエティ番組が騒がしく流れている。
「ねえ和也さん」
「ん?」
「これからどうするの?」
「どうするって?」
「奥さんと」
和也はワインを飲みながら鼻で笑った。
「そのうち離婚だろ。あいつ、専業主婦だし。一人じゃ生きてけねえよ」
「ふーん」
「まあ最初だけだよ。強がってんの」
そう言った時だった。
美咲がさらりと言った。
「生活費、入れてくれるよね?」
和也の手が止まった。
「……は?」
「だって一緒に住むんでしょ?」
「まあ、しばらくは」
「じゃあ家賃とかあるし」
美咲は当然のように言った。
「食費も増えるし、水道代とか電気代とかさ」
「いや……」
「半分でいいよ?」
にこりと笑う。
だが目は笑っていなかった。
和也は急に喉が渇いた。
「お前、俺が今大変なの分かってる?」
「分かってるよ?」
「だったら」
「だからこそじゃない?」
美咲はピザをつまみながら続けた。
「和也さん、奥さんと別れるんでしょ? だったらちゃんとしなきゃ」
「ちゃんとって……」
「男として」
その言葉に、和也は妙に苛立いた。
男として。
最近、その言葉ばかり聞く。
会社でも、家でも、女の前でも。
「……金ならある」
「ほんと?」
「ああ」
「よかったぁ」
美咲は笑った。
だが和也は気づいてしまった。
この女は、自分自身ではなく、“金を持っている男”を見ているのだと。
静子とは違う。
いや、違いすぎる。
静子は金の話をしなかった。
家計が苦しくても、電気代が上がっても、黙ってやりくりしていた。
和也は急にワインがまずく感じた。
一方その頃、静子は居間のテーブルに通帳を並べていた。
窓の外では雨が庭石を濡らしている。
古い蛍光灯の白い光の下、静子は老眼鏡をかけ、静かにページをめくっていた。
紙の匂い。
インクの匂い。
数字が並ぶ細かな文字列。
三年前。
ホテル利用、一万八千円。
二年前。
ブランドショップ、九万二千円。
一年前。
平日の深夜、高速道路料金。
静子はペン先で静かに印をつける。
「……やっぱり」
全部繋がっていた。
違和感はずっと前からあった。
急に増えた残業。
不自然な香水の匂い。
スマホを伏せて置く癖。
風呂場へまで持っていくようになったスマホ。
和也は隠しているつもりだった。
だが隠し方が雑だった。
静子は引き出しから透明なファイルを取り出した。
中にはレシート、利用明細、メモが綺麗に整理されている。
年月ごとに。
店名ごとに。
静子は元々、整理するのが好きだった。
冷蔵庫の中も、戸棚も、帳簿も。
きちんと並んでいないと落ち着かなかった。
だから夫の嘘も、少しずつ並べていった。
すると見えてくる。
浮気の形が。
「馬鹿な人……」
ぽつりと呟く。
怒りではなかった。
呆れに近い。
和也は、自分が賢く騙しているつもりだったのだろう。
でも実際は違う。
静子が黙っていただけだ。
静子はファイルの最後のページを開いた。
そこには弁護士事務所の名刺が挟まっていた。
島崎恒一。
無料相談で初めて会ったのは、もう二年前になる。
『証拠は残してください』
低く落ち着いた声だった。
『感情ではなく、記録です』
静子はその言葉を守った。
泣く前に記録した。
問い詰める前に保存した。
怒る代わりに整理した。
静子は静かにファイルを閉じる。
パタン、という乾いた音が部屋に響いた。
その時、固定電話が鳴った。
静子は受話器を取る。
「はい」
『静子ぉ……』
和也だった。
後ろでテレビの騒がしい音が聞こえる。
「何でしょう」
『あのさ……』
妙に歯切れが悪い。
『ちょっと金、下ろしたいんだけど』
「どこのお金をですか」
『いや、生活費用の口座』
「あれは私が管理しています」
『だから下ろせって言ってんだよ』
「何に使うんですか」
『はあ?』
「必要なら明細を書いてください」
沈黙。
向こうで美咲の笑い声が聞こえた。
『和也さん、アイス食べるー?』
和也が小声で何か答える。
静子は静かに目を閉じた。
もう分かっていた。
この男は、自分が思っている以上に何も持っていない。
金も。
生活力も。
覚悟も。
「静子」
和也が苛立った声を出す。
『夫婦だろ』
「もう違いますよね」
『……っ』
「あなた、自分の口で言いましたよ」
静子は静かに言った。
「出ていくって」
受話器の向こうで、和也の呼吸が荒くなる。
その音を聞きながら、静子は確信していた。
もう準備は終わっている。
あとは、この男が自分で崩れるのを待つだけだった。




