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第2話 知らなかったのは夫だけ

第2話 知らなかったのは夫だけ


 翌朝、静子はいつも通り五時半に起きた。


 雨が降っていた。


 細かい雨粒が窓ガラスを濡らし、灰色の空が庭木をぼんやり霞ませている。台所は少し肌寒く、静子は薄いカーディガンを羽織った。


 炊飯器の蓋を開けると、湯気と一緒に甘い米の匂いが立ちのぼる。


 もう二人分を用意する必要はない。


 そう思うと、不思議なくらい気持ちが軽かった。


 静子は味噌汁を小鍋で温めながら、小さく息を吐いた。


 その時だった。


 玄関のチャイムが乱暴に鳴り響いた。


 ピンポン、ピンポン、ピンポン。


 押しっぱなしにしているのか、耳障りな音が長く続く。


 静子は火を止め、ゆっくり玄関へ向かった。


「静子! 開けろ!」


 和也の声だった。


 昨夜よりさらに荒れている。酒でも飲んでいるのか、声が少しかすれていた。


 静子は扉を開けなかった。


「何でしょう」


「何でしょうじゃねえよ! 鍵開けろ!」


「嫌です」


「はあ!?」


 ドアを蹴る音が響く。


 古い木製の下駄箱がびりっと震えた。


「お前、いい加減にしろよ! ここは俺の家だぞ!」


 静子は扉の向こうを見つめたまま、静かに答えた。


「だから、違いますって」


「何が違う!」


「名義、確認したことあります?」


 一瞬、外が静かになった。


 雨音だけが、細く続いている。


「……名義?」


「この家の」


 和也は鼻で笑った。


「そんなもん夫婦なんだから同じだろ」


「違いますよ」


「何言ってんだ」


「この家は、私の名義です」


 しばらく沈黙が続いた。


 その沈黙の向こうで、和也が必死に記憶を探っている気配がした。


「……そんなわけあるか」


「あります」


「俺がローン払ってきたんだぞ」


「途中から払えなくなったでしょう」


 静子は淡々と言った。


「二十年前」


 和也の息が止まる。


 雨の匂いが、隙間からわずかに流れ込んでくる。


「あの時、あなた、株で失敗しましたよね」


「……」


「借金、作りましたよね」


「お前、それ……」


「銀行から言われたんです。このままだと差し押さえになるって」


 静子はあの日を思い出していた。


 真夏だった。


 和也は青ざめた顔で帰宅し、ソファに崩れ落ちた。


『ちょっと失敗しただけだ』


 そう言いながら震える手で煙草を吸っていた。


 結局、“ちょっと”では済まなかった。


 借金は膨らみ、家まで危うくなった。


 だから静子は動いた。


 銀行へ行き、名義変更の手続きをし、家を守った。


 和也は何も理解していなかった。


 いや、理解しようとしなかった。


「……そんな話、聞いてねえぞ」


 和也が低く言った。


 静子は思わず笑いそうになった。


「聞こうとしなかっただけでしょう」


「なんだと?」


「あなた、書類なんか見たことなかったじゃないですか」


 電気代も、保険も、固定資産税も。


 和也はずっと、封筒をテーブルに置くだけだった。


『静子、やっといて』


 いつもそうだった。


 静子は通帳を管理し、引き落としを確認し、足りない分を計算してやりくりしてきた。


 和也は、自分が稼いでいるから家は回っているのだと思い込んでいた。


 でも違う。


 回していたのは静子だ。


「お前、まさか金も隠してるのか」


「隠してません」


「じゃあ通帳出せ」


「嫌です」


「夫婦だろ!」


「もう違いますよね」


 ガンッ、と扉が殴られた。


「ふざけんな!」


 怒鳴り声に混じって、近所の犬が吠え始める。


 静子は眉ひとつ動かさなかった。


「あなた、自分の口で言いましたよね。出ていくって」


「だからって締め出すか普通!」


「愛人のところへ行くんでしょう」


「……っ」


「若くて綺麗な女の人のところへ」


 和也が黙った。


 昨夜、自慢げに話していた言葉だった。


 だが今は、その言葉が自分を追い詰めている。


「……とにかく開けろ。寒いんだよ」


「ホテルへ行けばいいじゃないですか」


「金がかかるだろ!」


 その瞬間、静子は目を細めた。


 和也は気づいていない。


 今、自分が何を言ったのか。


「お金、ないんですか」


「あるわ!」


「じゃあホテルへどうぞ」


「お前なあ!」


 また怒鳴る。


 だがその声は昨夜より弱かった。


 焦りが混じっている。


 静子は扉にもたれ、小さく目を閉じた。


 三十五年。


 ずっと聞いてきた声だ。


 怒鳴り声。命令。ため息。


 でも不思議だった。


 今はもう、胸が痛まない。


 怖くもない。


「静子」


 和也が急に声の調子を変えた。


「……とにかく話そうや」


「話しました」


「いや、そうじゃなくて」


「終わりです」


「お前、本気なのか」


「本気ですよ」


 外で雨が強くなった。


 トタン屋根を叩く音が細かく響く。


「……俺、金そんな持ってないんだぞ」


 ぽつりと和也が言った。


 その声に、静子は初めて“弱さ”を聞いた。


「退職金だってまだ先だし……」


「そうですか」


「保険とか、どうなってるんだ」


「知りませんか?」


「は?」


「あなた、自分の保険内容も知らないんですね」


 静子は小さく息を吐いた。


「全部、私が管理してましたから」


「……」


「光熱費も、保険も、貯蓄も」


 和也は黙った。


 静子には分かった。


 今、初めて和也は気づき始めている。


 自分が“何も知らない”ことに。


 家の金がどこから出て、どこへ消え、何が維持されていたのか。


 全部、妻任せだったことに。


「……嘘だろ」


 和也の声は掠れていた。


「俺は働いてきたんだぞ」


「ええ」


「この家族のために」


「そうですね」


「じゃあなんで……」


 静子は静かに答えた。


「あなたは、お金を入れていただけです」


「……っ」


「生活を守っていたのは、私です」


 その瞬間、扉の向こうが静かになった。


 雨音だけが続く。


 長い、長い沈黙。


 やがて和也は低く吐き捨てた。


「……ふざけるな」


 だがその声には、もう昨日までの勢いはなかった。


 静子は玄関の鍵に触れた。


 冷たい金属の感触が指先に伝わる。


 その時だった。


 和也のスマートフォンから着信音が漏れた。


 女の甘ったるい声が聞こえる。


『ねえ、和也さん? 今日どうするの?』


 和也が慌てて応答する気配がした。


「ち、ちょっと待てって」


『え? まだ家?』


「いや、その……」


『ホテル代とか大丈夫?』


 静子は目を閉じた。


 そして静かに思った。


 始まったのだ。


 和也の、“現実”が。



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― 新着の感想 ―
 似たもの夫婦かな?損切以前に安全を確保できずに株なんてやる夫にそれを切れない妻も同じにしか見えん。金を入れるのも生活もどっちも必要で大事なんだから”生活を”なんて言ってる時点で私は無理かなぁ。
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