第1話 鍵を替えた朝
第1話 鍵を替えた朝
味噌汁の湯気が、朝の薄い光の中でゆっくり揺れていた。
焼いた鮭の匂い。炊きたてのご飯の熱。時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。
静子は食卓の向かい側を見つめた。
夫の和也は、ネクタイも締めず、黒いスーツケースの持ち手を握って立っていた。玄関から運んできたばかりなのだろう。車輪に付いた砂が、床に細く線を引いている。
「……何、その荷物」
静子が聞くと、和也は鼻で笑った。
「見りゃ分かるだろ。出ていくんだよ」
その言い方は、まるで長年勤めた会社を円満退職でもするような気軽さだった。
静子は箸を置いた。
「そう」
「そう、じゃねえよ」
和也は苛立ったように声を荒げた。
「もっと何かあるだろ。泣くとか、止めるとか」
「別に」
「はあ?」
和也は呆れた顔をしたあと、勝ち誇ったように口元を歪めた。
「俺さ、もう限界だったんだよ。お前といても楽しくねえし。女としても終わってるしな」
窓の外で、カラスが一羽鳴いた。
静子は黙って夫を見ていた。
六十八歳。白髪を無理に染めた髪。腹だけが出た体。若い頃は確かに整った顔をしていたが、今は目尻に脂が浮き、どこか薄汚れて見える。
和也はその沈黙を、自分への敗北だと思ったらしい。
「俺にはな、ちゃんと女がいるんだよ。三十八歳。若くて綺麗で、一緒にいて楽しい女だ」
得意げな声だった。
静子は小さく湯呑みに触れた。もう茶は冷めている。
「そう」
「だから、その……離婚とかも考えてる」
「そう」
「……お前さっきからそれしか言わねえな」
和也の顔が引きつった。
静子は視線を夫から外し、壁のカレンダーを見た。六月だった。梅雨入り前の湿った空気が、肌にまとわりつく。
三十五年。
長かった、と静子は思った。
長い長い観察だった。
和也がどんな時に嘘をつくか。どんな顔で見栄を張るか。どんな時に金を使うか。どんな女に弱いか。
全部、知っていた。
知っていて、黙っていた。
「おい、静子」
和也が苛立ったようにテーブルを指で叩く。
「聞いてんのか」
「聞いてますよ」
「だったら何か言えよ」
静子は夫の顔を見た。
「あなた、今日帰ってくるんですか」
「は?」
「もう出ていくんでしょう」
和也は一瞬黙り、それから鼻で笑った。
「まあ、今日は向こう行くけど、荷物とかまだあるしな。しばらくは行ったり来たりだ」
「そうですか」
「それにここ、俺の家だし」
その言葉に、静子はほんの少しだけ目を細めた。
和也は気づかなかった。
「じゃあな」
スーツケースの車輪が、ゴロゴロと玄関へ向かう。
ドアが開き、湿った朝の空気が流れ込んできた。
「せいぜい、一人で寂しく暮らせよ」
最後にそう言い残し、和也は出ていった。
バタン、とドアが閉まる。
家の中が静かになった。
静子はしばらく動かなかった。
味噌汁の表面には薄い膜が張り始めている。
やがて静子は立ち上がると、電話台の上の固定電話を取った。
黒い受話器は少し冷たかった。
「もしもし。鍵の交換をお願いしたいんですが」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「今日中に?」
「はい。なるべく早く」
窓の外では、洗濯物を干す音がしていた。隣家の奥さんの笑い声も聞こえる。いつもと同じ朝だ。
なのに、静子の胸の奥では、長年張りついていた重石が少しずつ剥がれていくようだった。
昼過ぎ、鍵屋が来た。
三十代くらいの男性で、工具箱を抱えながら頭を下げた。
「では交換しますね」
「お願いします」
金属が擦れる乾いた音が、玄関に響く。
ギ、ギ、と古い鍵が外され、新しい鍵が取り付けられていく。
静子はその様子を黙って見ていた。
三十五年使った鍵だった。
和也が酔って深夜に帰ってきた日も、この鍵を回した。女の香水を漂わせながら帰宅した夜も、この鍵を使った。
全部、終わる。
「終わりました」
新しい鍵を受け取った時、静子は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
鍵屋が帰ったあと、静子は玄関の鍵をそっと撫でた。
夕方になった。
西日が廊下を赤く染めている。
その時だった。
ガチャガチャガチャッ、と激しい音が響いた。
「なんだこれ!」
和也の声だった。
「おい! 開かねえぞ!」
静子はゆっくり立ち上がり、玄関へ向かった。
扉の向こうで、和也が苛立っている気配がする。
「静子! いるんだろ!」
「いますよ」
「鍵どうした!?」
「替えました」
「はあ!?」
沈黙。
次の瞬間、ドンッ、と扉が叩かれた。
「ふざけんな! 何勝手なことしてんだ!」
静子は扉越しに目を閉じた。
怒鳴り声。荒い息。聞き慣れた声だった。
でも、もう怖くなかった。
「静子!」
「もう、あなたの家じゃありません」
向こう側で息を呑む気配がした。
「……は?」
「名義、確認したことありました?」
「何言ってんだお前」
「この家は、私の名義です」
和也が黙った。
初めて聞く話だったのだろう。
「借金した時に変えましたよね。覚えてませんか」
「そ、それは……」
「あなた、何も見てなかったんですね」
静子の声は静かだった。
静かすぎて、逆に冷たかった。
扉の向こうで、和也の呼吸が乱れていく。
「おい……待てよ」
「今日はもう、お帰りください」
「静子!」
怒鳴り声が響く。
だがその声の奥に、静子は別の音を聞いた。
焦りだ。
初めて、自分が思い通りにならないという恐怖。
静子は玄関の明かりを消した。
暗くなった廊下に、和也の荒い声だけが残る。
その時、静子はふと思った。
ああ、この人。
本当に、何も知らなかったのだと。
自分が見下していた妻が、三十五年間、何を見ていたのかを。




