表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/20

第1話 鍵を替えた朝

第1話 鍵を替えた朝


 味噌汁の湯気が、朝の薄い光の中でゆっくり揺れていた。


 焼いた鮭の匂い。炊きたてのご飯の熱。時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。


 静子は食卓の向かい側を見つめた。


 夫の和也は、ネクタイも締めず、黒いスーツケースの持ち手を握って立っていた。玄関から運んできたばかりなのだろう。車輪に付いた砂が、床に細く線を引いている。


「……何、その荷物」


 静子が聞くと、和也は鼻で笑った。


「見りゃ分かるだろ。出ていくんだよ」


 その言い方は、まるで長年勤めた会社を円満退職でもするような気軽さだった。


 静子は箸を置いた。


「そう」


「そう、じゃねえよ」


 和也は苛立ったように声を荒げた。


「もっと何かあるだろ。泣くとか、止めるとか」


「別に」


「はあ?」


 和也は呆れた顔をしたあと、勝ち誇ったように口元を歪めた。


「俺さ、もう限界だったんだよ。お前といても楽しくねえし。女としても終わってるしな」


 窓の外で、カラスが一羽鳴いた。


 静子は黙って夫を見ていた。


 六十八歳。白髪を無理に染めた髪。腹だけが出た体。若い頃は確かに整った顔をしていたが、今は目尻に脂が浮き、どこか薄汚れて見える。


 和也はその沈黙を、自分への敗北だと思ったらしい。


「俺にはな、ちゃんと女がいるんだよ。三十八歳。若くて綺麗で、一緒にいて楽しい女だ」


 得意げな声だった。


 静子は小さく湯呑みに触れた。もう茶は冷めている。


「そう」


「だから、その……離婚とかも考えてる」


「そう」


「……お前さっきからそれしか言わねえな」


 和也の顔が引きつった。


 静子は視線を夫から外し、壁のカレンダーを見た。六月だった。梅雨入り前の湿った空気が、肌にまとわりつく。


 三十五年。


 長かった、と静子は思った。


 長い長い観察だった。


 和也がどんな時に嘘をつくか。どんな顔で見栄を張るか。どんな時に金を使うか。どんな女に弱いか。


 全部、知っていた。


 知っていて、黙っていた。


「おい、静子」


 和也が苛立ったようにテーブルを指で叩く。


「聞いてんのか」


「聞いてますよ」


「だったら何か言えよ」


 静子は夫の顔を見た。


「あなた、今日帰ってくるんですか」


「は?」


「もう出ていくんでしょう」


 和也は一瞬黙り、それから鼻で笑った。


「まあ、今日は向こう行くけど、荷物とかまだあるしな。しばらくは行ったり来たりだ」


「そうですか」


「それにここ、俺の家だし」


 その言葉に、静子はほんの少しだけ目を細めた。


 和也は気づかなかった。


「じゃあな」


 スーツケースの車輪が、ゴロゴロと玄関へ向かう。


 ドアが開き、湿った朝の空気が流れ込んできた。


「せいぜい、一人で寂しく暮らせよ」


 最後にそう言い残し、和也は出ていった。


 バタン、とドアが閉まる。


 家の中が静かになった。


 静子はしばらく動かなかった。


 味噌汁の表面には薄い膜が張り始めている。


 やがて静子は立ち上がると、電話台の上の固定電話を取った。


 黒い受話器は少し冷たかった。


「もしもし。鍵の交換をお願いしたいんですが」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「今日中に?」


「はい。なるべく早く」


 窓の外では、洗濯物を干す音がしていた。隣家の奥さんの笑い声も聞こえる。いつもと同じ朝だ。


 なのに、静子の胸の奥では、長年張りついていた重石が少しずつ剥がれていくようだった。


 昼過ぎ、鍵屋が来た。


 三十代くらいの男性で、工具箱を抱えながら頭を下げた。


「では交換しますね」


「お願いします」


 金属が擦れる乾いた音が、玄関に響く。


 ギ、ギ、と古い鍵が外され、新しい鍵が取り付けられていく。


 静子はその様子を黙って見ていた。


 三十五年使った鍵だった。


 和也が酔って深夜に帰ってきた日も、この鍵を回した。女の香水を漂わせながら帰宅した夜も、この鍵を使った。


 全部、終わる。


「終わりました」


 新しい鍵を受け取った時、静子は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 鍵屋が帰ったあと、静子は玄関の鍵をそっと撫でた。


 夕方になった。


 西日が廊下を赤く染めている。


 その時だった。


 ガチャガチャガチャッ、と激しい音が響いた。


「なんだこれ!」


 和也の声だった。


「おい! 開かねえぞ!」


 静子はゆっくり立ち上がり、玄関へ向かった。


 扉の向こうで、和也が苛立っている気配がする。


「静子! いるんだろ!」


「いますよ」


「鍵どうした!?」


「替えました」


「はあ!?」


 沈黙。


 次の瞬間、ドンッ、と扉が叩かれた。


「ふざけんな! 何勝手なことしてんだ!」


 静子は扉越しに目を閉じた。


 怒鳴り声。荒い息。聞き慣れた声だった。


 でも、もう怖くなかった。


「静子!」


「もう、あなたの家じゃありません」


 向こう側で息を呑む気配がした。


「……は?」


「名義、確認したことありました?」


「何言ってんだお前」


「この家は、私の名義です」


 和也が黙った。


 初めて聞く話だったのだろう。


「借金した時に変えましたよね。覚えてませんか」


「そ、それは……」


「あなた、何も見てなかったんですね」


 静子の声は静かだった。


 静かすぎて、逆に冷たかった。


 扉の向こうで、和也の呼吸が乱れていく。


「おい……待てよ」


「今日はもう、お帰りください」


「静子!」


 怒鳴り声が響く。


 だがその声の奥に、静子は別の音を聞いた。


 焦りだ。


 初めて、自分が思い通りにならないという恐怖。


 静子は玄関の明かりを消した。


 暗くなった廊下に、和也の荒い声だけが残る。


 その時、静子はふと思った。


 ああ、この人。


 本当に、何も知らなかったのだと。


 自分が見下していた妻が、三十五年間、何を見ていたのかを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ