第29話 もう妻ではありません
第29話 もう妻ではありません
二月の終わり、静子は庭の椅子へ座り、芽を出したチューリップの鉢を眺めていた。薄茶色のセーターの上に紺色の割烹着を重ね、膝には図書館の講座で使う資料を載せている。風はまだ冷たかったが、花壇の土からは雨上がりの湿った匂いがした。
次の講座「一人になってからの暮らし」には、定員を超える申し込みがあった。一人分の人食事を無駄なく作る方法、緊急連絡先の置き場所、寝込んだときのために常備するだときのために常備食品などを話す予定だった。静子は資料の余白へ、「体調のよい日に頑張りすぎない」と書き加えた。
「静子先生、お茶が冷めるわよ」
向かいの椅子に座った百合子が、湯飲みを指した。二人の間に置いた小さな台には、ほうじ茶と、百合子が買ってきた桜餅が並んでいる。桜の葉の塩気と餡の甘さが口に広がり、静子は資料を閉じた。
「まだ先生と呼ぶの?」
「講座では、皆さんがそう呼んでいるでしょう」
「百合子にまで呼ばれると、学校の職員室にいるみたいよ」
「それなら田村先生、桜餅をもう一つ召し上がりますか?」
「それはいただきます」
二人が笑ったところで、縁側に置いたスマホが震えた。画面に表示されたのは、以前の自治会で和也と一緒だった田辺の名前だった。静子は指先についた餅の粉を布巾で拭いてから電話に出た。
「お久しぶりです。田村です」
「突然すみません。少し耳に入れておいたほうがいいかと思いまして」
田辺の声はいつもより低かった。和也が勤め先を近く退職するらしいと、以前の同僚から聞いたという。地方支社へ異動してから仕事を休む日が増え、会社と話し合った末、年度末で退職することになったらしい。
「体調も崩しているそうです。血圧が高くて、胃の具合もよくないとか」
「そうですか」
「退職後にどうするのか、本人も決めていないようです」
「知らせてくださって、ありがとうございます」
静子は湯飲みの縁を親指でなぞった。和也が風邪をひけば、枕元へ水と薬を置き、食べやすいように卵がゆを作った。胃が痛いと言えば、油を控えた煮物を用意し、病院の診察券まで鞄へ入れていた。
「送別会も開かれないようです。長く勤めた人ですし、誰か身近な人が顔を出したほうがいいのではないかと思ったのですが」
「私は行きません」
「お見舞いだけでも、と思ったのですが」
「私はもう、身近な人ではありませんから」
田辺は少し黙ったあと、「余計なことを言いました」と謝った。静子は知らせてくれたことには礼を言い、和也の今後について連絡は必要ないと伝えた。電話を切ると、百合子が桜餅の葉を小さく畳みながら静子を見た。
「行くの?」
「行かないわ」
「それでいいと思う」
「以前なら、着替えや薬を持って、すぐに行ったでしょうね」
「以前のあなたは、妻だったから」
静子は冷めかけたほうじ茶を飲んだ。見舞いに行かないと決めても、庭の景色は変わらず、チューリップの芽は風に揺れていた。自分が世話をしなくても、和也は病院へ行き、薬を受け取り、食事を選ばなければならない。
その夜、静子は夕食にカレイの煮つけを作った。新しく買った若草色のエプロンをつけ、生姜を細く切って鍋へ入れると、醤油と砂糖の匂いが台所へ広がった。付け合わせには小松菜のおひたしを作り、豆腐の味噌汁も一人分だけ温めた。
煮汁を魚へかけていると、スマホが鳴った。画面には着信拒否にしたはずの和也の番号が表示されている。先日の荷物の件で一度解除したあと、設定が完全に戻っていなかったらしい。
静子は火を止め、鍋の蓋を閉めた。無視してもよかったが、これで最後にしようと考えて通話ボタンを押した。電話の向こうから聞こえた和也の声は、以前よりかすれていた。
「俺だ」
「分かっています」
「田辺から、何か聞いたか?」
「退職なさるそうですね」
「年度末で辞める。あんな支社にいても、先がないからな」
和也は自分から辞めるように言ったが、そのあとに咳き込んだ。電話の向こうでは、電子レンジの終了音が何度も鳴っている。止める者がいないため、機械はしばらく同じ音を繰り返した。
「体調もよくないと聞きました」
「大したことじゃない。食生活が少し乱れただけだ」
「病院へは行きましたか?」
「薬はもらった。だが、こっちではまともな物が食えない」
「ご自分で作るか、配食を頼んでください」
静子が答えると、和也はしばらく黙った。鍋の中では余熱で煮汁が小さく鳴り、蓋の隙間から生姜の匂いが漏れている。静子はエプロンのひもが緩んでいることに気づき、片手で結び直した。
「退職したら、そっちへ戻れないか」
和也の声は、今までより小さかった。静子は聞き間違いかと思ったが、確かめる必要はなかった。戻るという言葉の中には、食事、洗濯、掃除、病院の付き添いまで含まれていることが分かっていた。
「戻る場所を、自分で作ってください」
「家は広いだろう。俺一人くらい住める」
「広さの問題ではありません」
「部屋は別でいい。生活費も少しは入れる」
「私は、あなたと暮らすつもりはありません」
和也は息を吐き、電話の向こうで何かを動かした。段ボール箱にぶつかったらしく、硬い物が床へ落ちる音がした。そのあと、電子レンジを開ける音がして、和也は「弁当が冷めた」と小さくつぶやいた。
「俺たちは三十五年も一緒にいたんだぞ」
「私は三十五年間、あなたの妻をしました」
「だったら、今さら放り出すことはないだろう」
「私があなたを放り出したのではありません。あなたがスーツケースを持って、美咲さんのところへ出ていったんです」
「あれは間違いだった。もう終わった話だろう」
「終わったから、私は今の暮らしを始めました」
和也は、昔の家へ戻れば病院にも通いやすく、庭の手入れもしてやれると言った。静子が一人では家の管理も大変だろうと続け、自分が必要とされる理由をいくつも並べた。しかし、どの言葉にも静子が何を望んでいるのかという問いはなかった。
「お前だって、年を取って一人では困るだろう」
「困ったときは、助けを頼める人や制度を探します」
「他人に頼るくらいなら、夫婦で助け合えばいい」
「私たちは、もう夫婦ではありません」
「紙一枚で、三十五年が消えるのか?」
「消えません。だから、同じ三十五年を繰り返したくないんです」
静子はエプロンのひもをもう一度固く結んだ。新しい布地は腰になじみ、洗ったばかりの石鹸の香りがした。食卓には自分で選んだ青い小鉢が置かれ、鍋には自分が食べたい味つけの魚が入っている。
「私は長い間、あなたの妻として暮らしました」
「静子」
「でも、今はもう静子です」
電話の向こうから、電子レンジで温めた弁当の蓋を開ける音がした。和也は何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。静子も続きを促さず、台所の時計が秒を刻む音を聞いていた。
「……そうか」
短い言葉のあと、電話は和也のほうから切れた。静子はスマホを食卓へ置き、今度こそ番号を着信拒否に設定した。画面が暗くなると、そこには若草色のエプロンをつけた自分の姿が薄く映った。
静子は鍋の蓋を開け、冷めかけたカレイを弱火で温め直した。煮汁をかけると魚の表面がつやを取り戻し、生姜と醤油の匂いが再び立ち上がった。味噌汁を椀へよそい、食卓の自分の席へ座ると、静子は両手を合わせた。
「いただきます」
カレイの身は柔らかく、骨からきれいに外れた。静子は急かされずに一口ずつ食べ、途中で少し薄いと感じた味噌汁へ味噌を足すこともしなかった。今夜の味を決めるのも、明日の予定を決めるのも、もう誰かの妻ではない静子自身だった。




