第30話 開かれた庭
第30話 開かれた庭
あの日、玄関の鍵を替えてから一年が過ぎた。三月の朝、静子は若草色のエプロンをつけ、庭の花壇にしゃがんでいた。赤、黄、白のチューリップが並び、その手前では青いビオラが朝露を載せている。
静子は花の間から伸びた雑草を抜き、土のついた指をエプロンの裾で拭きそうになった。講座で「汚れた手は古布で拭きましょう」と話している自分を思い出し、庭の籠から小さな布を取り出した。土の湿った匂いに混じって、台所の鍋から焼いたリンゴとシナモンの甘い香りが流れてきた。
「先生も、たまには自分の話を忘れるのね」
開いていた庭の扉から、百合子が顔を出した。白いシャツに赤いカーディガンを羽織り、両手には紙袋と花柄の水筒を持っている。静子が庭の時計を確認すると、約束の時間より二十分も早かった。
「まだ椅子も出していないわよ」
「手伝おうと思って、早めに来たの」
「本当は、焼きリンゴの味見がしたかったのでしょう?」
「それもあります」
二人は物置から折り畳み式の椅子を四脚運び、花壇のそばへ並べた。一年前に静子が講座の謝礼で買った木製の椅子は、雨に当たらないよう軒下へ置いてある。座面には少し傷が増えていたが、背もたれに彫られた花の形は、今もはっきり残っていた。
「この椅子、一脚からずいぶん増えたわね」
「講座の皆さんが来るたび、台所の椅子まで運んでいたでしょう。だから折り畳める物を買ったの」
「昔なら、庭へ人を呼ぶなんて考えなかったわね」
「和也が休んでいる日は、物音を立てないようにしていたもの」
静子は言い終えると、庭に並んだ椅子の向きを直した。もう誰かの足音や咳払いを気にして、客を帰す必要はなかった。玄関から庭へ続く扉も朝から開けてあり、白いレースのカーテンが風に揺れている。
午前十時になると、暮らし講座の仲間たちが集まり始めた。妻を亡くしてから味噌汁作りを覚えた山本は、茶色の帽子をかぶり、自分で漬けたキュウリを持ってきた。乳母車を押して講座へ来ていた恵は、歩けるようになった娘と手をつなぎ、庭のチューリップを指した。
「静子先生、赤いのが一番きれいだって言っています」
「黄色も見てちょうだい。今朝、ようやく開いたのよ」
「きいろ、おおきい!」
「摘んでは駄目よ。見るだけにしましょうね」
女の子は伸ばしかけた手を引っ込め、代わりに花の匂いをかいだ。鼻の頭へ花粉をつけた顔を見て、皆が笑った。静子は台所から濡らした布巾を持ってきて、小さな鼻をそっと拭いた。
庭の丸いテーブルには、焼きリンゴ、山本のキュウリ、百合子が買ってきた豆大福が並んだ。恵は水筒から子ども用の麦茶を注ぎ、小林は図書館から借りた園芸の本を持ってきた。食べ物も食器も揃ってはいなかったが、それぞれが持ち寄った物で、テーブルの上はすぐに狭くなった。
「静子先生、この焼きリンゴはお砂糖を使っていますか?」
「少しだけです。リンゴが甘ければ、入れなくても大丈夫ですよ」
「シナモンがないと作れませんか?」
「なくてもリンゴは怒りません。そのまま焼いてください」
「先生、リンゴの気持ちまで分かるんですね」
山本の言葉に笑いが起こった。静子も笑いながら、焼きリンゴを取り分けた。温かな果肉を口へ入れると酸味のあとに甘さが広がり、シナモンの香りが鼻へ抜けた。
庭でのお茶会は、月に一度の習慣になっていた。講座のあとに寄る人もいれば、野菜を持って顔を見せる近所の人もいる。静子は大勢を招くことも、料理を完璧に揃えることもせず、自分が疲れない人数と時間を決めていた。
「今日は三時までですからね」
静子が告げると、百合子が腕時計を確認した。以前なら客へ帰る時間を言うのは失礼だと考え、台所へ何度も立ちながら無理に笑っていただろう。今は自分の暮らしを守るために、できることとできないことを口に出せた。
「はい、先生。三時になったら、ちゃんと帰ります」
「百合子は、いつも三時半までいるでしょう」
「片づけを手伝っているのよ」
「焼きリンゴの残りを待っているのではなくて?」
「両方です」
午後になると、講座へ初めて参加した美奈という女性が庭へやって来た。四十代半ばで、薄い灰色のパーカーとジーンズを着ている。ほかの参加者が笑って話す中でも、美奈は紙コップを両手で包み、何度も玄関のほうを振り返っていた。
静子は無理に事情を聞かず、焼きリンゴの皿を勧めた。美奈は一切れを小さく切り、時間をかけて食べた。庭に残っていた人が帰り支度を始めた頃、ようやく静子へ声をかけた。
「少しだけ、聞いてもいいですか?」
「私に分かることでしたら」
「人生をやり直すには、何から始めればいいですか?」
静子はすぐには答えなかった。美奈のパーカーの袖口は毛玉ができ、右手の爪だけが短く切られていた。何度も言葉をのみ込み、指先をかんできたのかもしれないが、静子は理由を決めつけなかった。
「やり直したいと思ったのは、どうしてですか?」
「家にいても、自分が何をしたいのか分からなくなりました。夫が決めたことに従っていれば、けんかにはなりませんから」
「それで、美奈さんは楽に暮らせていますか?」
「楽なはずなんです。でも、朝起きると、今日も同じ一日が始まると思ってしまいます」
美奈は紙コップの縁を指でつぶした。冷めた紅茶が小さく揺れ、甘いリンゴの香りに混じって土の匂いが立ち上った。静子は一年前、和也の手紙を引き出しへしまい、返事を書かないと決めた朝を思い出した。
「大きなことを、すぐに決めなくてもいいと思います」
「でも、何もしなければ変わりませんよね」
「小さなことなら、今日から決められます」
静子は立ち上がり、玄関から庭へ続く扉を大きく開けた。蝶番がわずかにきしみ、室内へ風が入ってレースのカーテンを持ち上げた。扉の向こうには静子が選んだ食器、書き込みの増えた講座資料、洗って伏せた一人分の朝食の皿が見えた。
「まず、自分で開ける扉を一つ決めることです」
「扉ですか?」
「食べたい物を自分で決めることでも、行きたい場所へ出かけることでもいいんです。嫌なことを一つ断るのでも構いません」
「そんな小さなことで、いいんでしょうか」
「私が最初に決めたのは、玄関の鍵を替えることでした。その次は、自分のために味噌汁を作ることでしたよ」
美奈は開いた扉と静子の顔を交互に見た。すぐに明るい表情にはならなかったが、つぶしていた紙コップをテーブルへ置いた。帰る前に、次の暮らし講座へ申し込む方法を尋ね、自分のスマホへ図書館の電話番号を登録した。
「次の講座にも来ていいですか?」
「もちろんです。ただし、先生の言うことを全部守らなくてもいいですよ」
「それでは、何を守ればいいんですか?」
「自分で決めたことを、一つだけです」
午後三時を過ぎると、最後まで残っていた百合子も帰り支度を始めた。予想どおり焼きリンゴの残りを保存容器へ入れ、山本のキュウリも二本もらっている。静子は呆れながら、玄関まで見送った。
「明日の講座、忘れないでね」
「名札も資料も用意してあります」
「静子先生も忙しくなったわね」
「忙しくする日と、何もしない日を自分で決めているから大丈夫よ」
百合子が門を出ると、静子は玄関の鍵をかけた。カチリという音が、夕方の静かな廊下へ響いた。一年前、和也を家へ入れないために替えた鍵は、今では会いたい人を迎え、自分が戻したくない過去を入れないためのものになっていた。
静子は庭へ戻り、使った紙コップと皿を籠へ集めた。折り畳み椅子を百合子と運んだ物置へ片づけ、木製の椅子だけを軒下へ残した。花壇へ水をまくと、夕日に照らされた土の色が濃くなり、チューリップの葉から水滴が落ちた。
台所には、昼に使ったカップと焼きリンゴの空いた皿が積まれていた。静子はすぐには洗わず、残った紅茶を温め直し、木製の椅子へ腰を下ろした。少し渋くなった紅茶を飲みながら、誰もいなくなった庭をゆっくり眺めた。
日が暮れる前に室内へ戻ると、食卓には明日の講座資料が置かれていた。その上には、透明なケースへ入れた新しい名札がある。静子は名札を手に取り、印刷された文字を指でなぞった。
そこには、妻とも、奥さんとも書かれていなかった。
「生活講座講師 田村静子」
静子は名札を明日のブラウスの上へ置き、開いていた庭の扉を自分の手で閉めた。
――完。




