第28話 静子先生
第28話 静子先生
三回目の暮らし講座が開かれる朝、静子は台所でジャガイモをつぶしていた。昨夜の肉じゃがを取っておき、汁気を切ってから丸め、パン粉をつけて小さなコロッケにするためだった。油で揚げると甘辛い煮汁と香ばしいパン粉の匂いが広がり、窓ガラスが薄く曇った。
静子は揚げたてを一つ割り、湯気の立つ中身へ息を吹きかけた。ジャガイモにはニンジンとタマネギが混じり、少しだけ残った牛肉も入っている。形は不揃いだったが、端を食べると昨夜より味がなじんでいた。
「これなら、講座へ持っていけるわね」
コロッケを二つ弁当箱へ詰め、キャベツの千切りとミニトマトを添えた。朝食には、形の崩れた一つを食パンへ挟み、ソースを少しかけた。薄い水色のブラウスへソースを飛ばさないよう、静子は皿へ顔を近づけて食べた。
食後、静子は講座で使う資料を鞄へ入れた。今日は残り物を別の料理へ変える方法と、冷蔵庫の整理について話す予定だった。冷凍した日付を書いた保存袋や、使いかけの野菜を入れる透明な籠も見本として持っていくため、鞄はいつもより膨らんだ。
図書館の小会議室へ着くと、すでに二人の参加者が入口で待っていた。一人は前回も来た白髪の男性で、今日は茶色のカーディガンを着て、大きな紙袋を抱えている。もう一人は乳母車を押した若い女性で、眠っている赤ん坊へ黄色い毛布を掛けていた。
「静子先生、おはようございます」
白髪の男性に呼ばれ、静子は自分の後ろを振り返った。廊下には返却本を運ぶ小林しかいない。小林は笑いをこらえながら、静子の胸元を指した。
「先生は、田村さんのことですよ」
「私が先生ですか?」
「前回、味噌汁の作り方を教えていただきましたから」
男性は紙袋から小さな保存容器を取り出した。中には大根、ニンジン、油揚げが入った味噌汁があり、蓋を開けるとだしの匂いがした。妻を亡くしてから初めて自分で作ったという。
「少ししょっぱくなりましたけど、鍋いっぱいには作りませんでした」
「お味噌は、あとから足せます。次は半分だけ入れて、味を見てください」
「はい、先生」
「ですから、先生はやめてください。静子さんで結構です」
二人が話している間にも、参加者が次々と集まってきた。買い物袋から長ネギを出して見せる女性や、焦げた鍋の写真をスマホに入れてきた男性もいる。誰かが静子を「静子先生」と呼ぶたび、別の人も同じように呼び始めた。
静子は落ち着かず、胸元の名札を何度も触った。透明なケースには、館長が作ってくれた「講師 田村静子」という紙が入っている。結婚してからは妻や奥さんと呼ばれることが多く、自分の名前の後ろへ先生がつくとは考えたこともなかった。
「それでは、静子先生。今日もお願いします」
佐々木館長にまで呼ばれ、静子は困った顔をした。佐々木は濃紺のスーツに黒い運動靴を履き、いつものようにコーヒーの入ったカップを持っている。静子が小声で抗議すると、佐々木は悪びれずに笑った。
「皆さんが呼びやすいのですから、いいではありませんか」
「資格もないのに、先生だなんて落ち着きません」
「先生とは、知っていることを誰かへ伝える人です。資格欄を首から下げる人ではありませんよ」
講座が始まると、静子は冷蔵庫の中を四つの場所に分ける方法を説明した。早く使う物、作り置き、朝食用、まだ開けていない物に分ければ、奥で食材を腐らせにくくなる。透明な籠を机へ並べると、参加者たちは身を乗り出した。
「うちの冷蔵庫、奥から正月のお餅が出てきました」
一人の女性が言うと、会場に笑いが起きた。静子も、冷凍庫からいつ入れたのか分からない魚の切り身が出てきた話をした。完璧に管理できなかった失敗まで話すと、参加者たちは安心したようにメモを取り始めた。
「忘れることはあります。だから、入れた日を書いておくんです」
「袋に直接書いてもいいですか?」
「ええ。ただし、中身の名前も書いてください。私は煮物の汁をカレーと間違えて解凍したことがあります」
「それは、どうしたんですか?」
「煮物の汁でうどんを作りました。少し甘かったですけれど、食べられましたよ」
次に、肉じゃがから作ったコロッケの写真を見せた。参加者から試食したいという声が上がったが、手作りの食品を配るには決まりがあるため、今日は写真だけだった。静子は弁当箱へ入れてきたことを話し、昼に自分で味を確かめると言った。
「静子先生のお昼、見てみたいです」
「そんなに立派なお弁当ではありませんよ」
「残り物をどう詰めるかが知りたいんです」
「では、講座が終わったら少しだけお見せします」
予定していた一時間は、質問を受けているうちにすぐ終わった。参加者たちは机を拭き、使った椅子を自分たちで元へ戻した。静子が一人で片づけようとすると、乳母車の女性が透明な籠を鞄へ入れるのを手伝った。
「家事は一人で背負わないんですよね、静子先生」
「私が教えたことを、私が忘れるところでした」
「先生でも忘れるんですね」
「毎日、いろいろ忘れていますよ」
講座後、静子は職員室で弁当箱を開いた。小林と佐々木がコロッケを見に来たため、静子は一つを三等分して味見してもらった。冷めた衣は少し柔らかくなっていたが、中のジャガイモには肉じゃがの味が残っていた。
「これが残り物だなんて、分かりませんね」
「もとの肉じゃがが少なすぎると作れませんけれどね」
「次は、残す量の決め方も講座で話してください」
「また話すことが増えてしまいました」
食事を終えた頃、佐々木が白い封筒を持ってきた。表には「暮らし講座謝礼」と印刷され、静子の名前が書かれている。静子は封筒を受け取ったものの、すぐには開けずに両手で持った。
「前回までの謝礼です。金額を確認してください」
「お金をいただけるんですか?」
「最初に説明したでしょう」
「交通費くらいだと思っていました」
封筒の中には、一万円札と明細書が入っていた。図書館のパート代とは別に、自分が三十五年間で覚えたことを話して得た初めての収入だった。静子は札の端をそっと揃え、もう一度封筒へ戻した。
帰宅すると、静子は古い家計簿を開いた。食費や日用品の欄とは別に、新しいページを作り、「講座謝礼 一万円」と書いた。鉛筆を持つ指が止まり、同じ文字を二度読み返した。
「私の経験で、いただいたお金なのね」
翌日、百合子と商店街へ買い物に出た。静子は薄紫色のセーターに黒いズボンを合わせ、歩きやすい茶色の靴を履いていた。二人で八百屋のミカンや魚屋のアジを眺めたあと、生活用品店の前に置かれた木製の椅子が目に留まった。
椅子は一人掛けで、背もたれに花の形の小さな飾りが彫られていた。庭に置けば、洗濯物を取り込んだあとに腰を下ろせる。値札には八千八百円と書かれており、静子は手を伸ばしかけて引っ込めた。
「欲しいの?」
「庭に一つあればいいと思って。でも、なくても困らない物ですから」
「講座のお金で買えるじゃない」
「残しておいたほうがいいかしら」
「誰の許可を待っているの?」
静子は値札を見たまま、和也の顔を思い出した。以前なら、椅子を置きたいと相談しても、「邪魔だ」「金の無駄だ」と言われただろう。自分で貯めた金があっても、大きな物を買うときには必ず和也の機嫌を確かめていた。
「昔のあなたなら、ご主人に聞いてから買っていたわね」
百合子が笑うと、静子も口元を緩めた。店先には木の匂いが漂い、椅子の座面は冬の日差しで温かくなっている。静子はもう一度座り、足が床へきちんと届くことを確かめた。
「今は私が、私に許可を出すの」
静子は自分の財布から代金を払い、椅子を庭まで配達してもらった。数日後、黄色いパンジーのそばへ椅子を置き、温かい紅茶を持って腰を下ろした。木の座面は少し硬かったが、背中を預けると空と洗濯物の両方がよく見えた。
次の講座の打ち合わせで、静子は佐々木へ一枚の企画書を渡した。題名は「一人になってからの暮らし」で、食事の量、家計の見直し、体調を崩したときの備えについて項目が並んでいる。配偶者を亡くした人、離婚した人、初めて一人暮らしをする人が、無理なく生活を続けるための講座だった。
「田村さんご自身の経験も入れるのですか?」
「話せる範囲で入れようと思います。私も、一人分の味噌汁を作るところから始めましたから」
「では、来月の講座にしましょう」
静子は胸元の名札へ触れ、今度はすぐに手を離した。「静子先生」と呼ばれることには、まだ少し照れが残っている。それでも企画書の講師欄へ、静子は自分の名前を迷わず書いた。




