第27話 一人で洗うシャツ
第27話 一人で洗うシャツ
返送された段ボール箱と黒いスーツケースは、六畳の部屋の半分を塞いでいた。和也は紺色のジャージを着たまま、箱を足で壁際へ押そうとしたが、底に入ったゴルフ用品が畳へ引っかかった。力を入れると腰に痛みが走り、前夜に食べた焼きそばの容器を踏みそうになった。
「少しくらい置かせてもいいだろうが」
和也は誰もいない部屋で声を上げたが、箱は動かなかった。静子なら中身を全部出し、使う物と捨てる物に分け、防虫剤を入れて押し入れへ収めていたはずだ。しかし、このアパートの押し入れには布団と古新聞が詰まり、箱を一つ入れる隙間もなかった。
和也はスーツケースをまたぎ、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。朝食に買っておいたクリームパンは賞味期限を一日過ぎており、袋の中で少し潰れている。冷たい缶コーヒーでパンを流し込むと、舌に甘さがねっとりと残った。
食事を終えて立ち上がったとき、椅子の背に掛けたワイシャツが目に入った。襟は汗で黄ばみ、袖口には昼に食べたカレーうどんの汁が飛んでいる。予備のシャツも二枚しかなく、どちらも洗濯籠の底で丸まっていた。
「クリーニングへ出すか」
財布を開くと、千円札が二枚と小銭しか入っていなかった。給料日までは一週間あり、返送された荷物の送料も支払ったばかりだった。三枚のワイシャツに料金を払うのが惜しくなり、和也は自分で洗うことにした。
洗濯機の前へ行き、洗剤の容器を持ち上げた。裏には水量に合わせた使用量が細かな文字で書かれていたが、老眼鏡は段ボール箱のどこかに入っている。和也は以前と同じように、目分量で液体洗剤を注いだ。
「多いほうが、よく落ちるだろう」
ワイシャツと下着を押し込み、スイッチを入れた。洗濯機が回り始めると、和也はテレビの前に座り、昨夜の残りの缶ビールを開けた。ぬるくなったビールは気が抜けていたが、捨てるのが惜しくて最後まで飲んだ。
しばらくすると、浴室のほうから水の音が聞こえた。最初は洗濯機が動く音だと思ったが、畳の縁まで白い泡が流れてきた。和也は缶を置き、慌てて立ち上がった。
「何だ、これは!」
洗濯機の蓋の隙間から泡が盛り上がり、床へ次々とこぼれていた。和也が停止ボタンを押しても、すぐには水が止まらない。靴下を履いた足で泡を踏み、滑りそうになって壁へ手をついた。
以前なら、和也は静子を呼びつけていた。洗濯機が壊れたのも、床が濡れたのも、すべて静子の管理が悪いと言っただろう。だが今は、怒鳴ったところで洗剤の量が減るわけでも、床の泡が消えるわけでもなかった。
「雑巾はどこだ」
流しの下を開けると、買ったままのゴミ袋と使いかけの殺虫剤が転がっていた。台所の布巾は油で汚れ、床を拭くには小さすぎる。和也は段ボール箱を開け、古いバスタオルを引っ張り出した。
タオルには、社員旅行で行った温泉旅館の名前が印刷されていた。静子から何度も捨てるように言われたが、「まだ使える」と押し入れへ戻させた物だった。和也はそれを床へ広げ、両手で泡と水を吸わせた。
「まだ使えるじゃないか」
口にしたものの、濡れたバスタオルはすぐに重くなった。浴室で絞ろうとすると、水を含んだ布が指へ食い込み、手首まで痛んだ。静子は毎日、布巾や雑巾を固く絞っていたが、和也はその手元を一度も見ようとしなかった。
泡を拭き取り終えた頃には、昼を過ぎていた。和也のジャージの膝は濡れ、洗剤の匂いが鼻の奥に残った。洗濯機の中のワイシャツは泡だらけだったため、洗剤を入れずに二度すすぎ直した。
「洗濯だけで、何時間かかるんだ」
和也は冷蔵庫から冷凍の炒飯を出し、袋のまま電子レンジへ入れた。温めが足りず、中央には冷たい米の塊が残っていたが、もう一度加熱するのも面倒だった。割り箸で塊を崩しながら食べると、洗剤の匂いまで口に入ってくる気がした。
午後になり、ようやく洗濯が終わった。和也はワイシャツを取り出し、両肩を持って一度振っただけでハンガーへ掛けた。三枚をカーテンレールへ並べると、裾から落ちた水が畳へ小さな染みを作った。
翌朝、乾いたワイシャツは深いしわだらけになっていた。和也は白いシャツを床へ広げ、掌で押してみたが、しわは伸びない。マットレスの下へ十分ほど挟めば平らになると思いつき、上から何度も踏んでみた。
「これくらいなら、上着を着れば見えないだろう」
鏡の前で袖を通すと、襟は片方だけ外へ折れ、胸元には縦じわが何本も走っていた。紺色の背広を羽織っても、袖口からしわが見える。和也はネクタイをきつく締め、朝食を取らずに会社へ向かった。
事務室へ入ると、森田が和也の胸元を見た。何も言わずに視線を外したが、その反応がかえって気になった。和也は机へ鞄を置き、背広の前ボタンを留めた。
「何だ。言いたいことがあるなら言え」
「シャツ、乾燥機に入れたんですか?」
「自分で洗ったんだ。少ししわになっただけだ」
「干す前に形を整えると、もう少しましになりますよ」
「そんなことまでしていられるか」
森田は自分の袖口を伸ばしながら、毎朝シャツへアイロンをかけていると話した。子どもが生まれてから、妻と交代で洗濯をするようになったらしい。和也は伝票を机へ並べ、聞こえないふりをした。
昼休み、和也はいつもの幕の内弁当ではなく、値引きされたおにぎりを二つ買った。一つは昆布で、もう一つはツナマヨだった。海苔が歯に張りつき、紙コップの薄いお茶を何度も飲んだ。
森田は弁当箱を片づけながら、朝の話を蒸し返した。今度は責める口調ではなく、生活用品店で安いアイロンが売られていると教えた。和也は爪楊枝で歯の間の海苔を取りながら、顔をしかめた。
「アイロンなんか使ったことがない」
「僕も最初はありませんでした。温度を確認して、端からゆっくりかければ大丈夫ですよ」
「女がやる仕事だろう」
「僕の家では、手の空いているほうがやります」
森田は弁当箱を布で包み、休憩室を出ていった。和也はしわの寄った自分の袖を見下ろした。静子へ戻ってきてもらえない以上、このまま同じシャツを着続けるか、自分で整えるしかなかった。
「……自分でやるしかないか」
仕事帰り、和也は駅前の生活用品店へ入った。店内には洗剤や鍋、物干し用品が並び、柔軟剤の甘い匂いが漂っていた。アイロン売り場には何種類もの商品があり、値札には千九百八十円から一万円を超える物まであった。
和也が箱を裏返して迷っていると、緑色のエプロンを着た女性店員が近づいてきた。店員は初心者なら軽くて温度調節の簡単な物がよいと説明し、アイロン台も必要だと教えた。和也は一番安い商品を棚へ戻し、その隣にあった蒸気の出るアイロンを選んだ。
「シャツ一枚なら、この小さな台でも十分ですよ」
「台まで買わなければ駄目なのか?」
「机に厚手のタオルを敷く方法もあります。ただし、机を傷めないように気をつけてください」
和也はしばらく考え、折り畳み式の小さなアイロン台も買い物籠へ入れた。レジではアイロン、台、霧吹き、替えのハンガーを合わせて五千円近くになった。クリーニング代を惜しんだはずなのに、それ以上の金が消えたことに気づき、和也はレシートを何度も見直した。
アパートへ戻ると、段ボール箱を押しのけてアイロン台を広げた。箱から出したばかりのアイロンはつるりと光り、和也には使い慣れない道具に見えた。説明書を開き、老眼鏡の代わりにスマホの画面を拡大して、一行ずつ読み始めた。
「水を入れて、温度を合わせるのか」
和也はしわだらけのワイシャツを台へ載せた。三十五年間、そのシャツを誰が洗い、誰が襟を整え、誰がアイロンをかけていたのか、今さら尋ねる必要はなかった。電源を入れたアイロンが温まるまで、和也は黙ってシャツの袖を伸ばした。




