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第26話 戻ってきたスーツケース

第26話 戻ってきたスーツケース


土曜日の朝、静子は庭に面した窓を開け、洗ったシーツを物干し竿へ掛けていた。水色のシャツに生成りのズボンを合わせ、髪は邪魔にならないよう後ろで一つに結んでいる。風に揺れる白い布から洗剤の香りが広がり、花壇では黄色いパンジーが朝露に濡れていた。


台所の鍋には、昨夜作った里芋の煮物が残っていた。静子は煮汁を少し足して弱火にかけ、焦げないよう木べらで鍋底をなぞった。朝食には煮物と納豆、豆腐の味噌汁を用意し、焼き海苔の缶を開けたところで玄関の呼び鈴が鳴った。


「こんなに早く、誰かしら」


時計はまだ八時半だった。百合子が来る予定は午後で、図書館から連絡が入る時間でもない。静子が玄関のモニターを見ると、帽子をかぶった配送業者の男性が、大きな段ボール箱の横に立っていた。


「田村静子さん宛てのお荷物です」


「どちらからですか?」


「田村和也様からです。箱が二つと、スーツケースが一つあります」


静子はすぐにドアを開けず、モニターを見たまま手を止めた。配達員の足元には、引っ越し用の段ボール箱が二つ積まれ、その横に見覚えのある黒いスーツケースが置かれている。和也が出張や社員旅行に使っていた物で、持ち手には赤い革の札が結ばれていた。


「少々お待ちください」


静子は台所へ戻り、火を止めてから玄関の鍵を開けた。朝の冷たい風が入り、味噌汁と里芋の煮物の匂いが外へ流れた。配達員は伝票を差し出したが、品名の欄には「衣類・私物」としか書かれていなかった。


「これは、本人の持ち物ですか?」


「詳しい中身までは分かりません。送り主様から、こちらへ届けるよう依頼されています」


「私は頼んでいません」


「受け取りを拒否なさいますか?」


静子は黒いスーツケースを見下ろした。角には白い擦り傷が増え、ファスナーの隙間から紺色の布が少しはみ出している。離婚の際、和也の私物はすべて本人へ渡し、受け取ったという確認書も弁護士を通して残していた。


「はい。受け取りません」


「開封せず、このまま送り主様へ返送する形になります」


「それでお願いします」


配達員は慣れた手つきで伝票へ「受取辞退」と書いた。箱を荷台へ戻す際、段ボールの底から金属のぶつかる音がした。和也が休日に使っていたゴルフ用品か、趣味で集めていた腕時計の箱かもしれなかったが、静子は確かめようとは思わなかった。


「朝早くから、お手数をおかけしました」


「いえ、こちらで手続きしておきます。念のため、送り主様にもご連絡ください」


「分かりました。ありがとうございます」


配送車が角を曲がるまで見送り、静子は玄関の鍵を閉めた。カチリという音を聞いてから台所へ戻ると、味噌汁の表面には薄い膜ができていた。もう一度温め直し、焼き海苔を一枚ずつちぎってご飯へ載せた。


朝食を食べ終える頃、テーブルの上のスマホが震えた。画面には着信拒否にしてある和也の番号と、留守番電話が一件入ったという表示が出ている。静子は食器を洗ってから再生ボタンを押した。


「荷物を送った。こっちの部屋には置く場所がないんだ。物置にでも入れておいてくれ」


命令する口調は、結婚していた頃と変わっていなかった。お願いしますとも、事前に送ってよいかとも言っていない。静子は濡れた手を花柄の布巾で拭き、スマホを食卓へ置いた。


和也は以前から、自分の物を片づけなかった。居間には読み終えた新聞を積み、寝室の椅子には背広を掛け、使わなくなったゴルフクラブを廊下へ置いた。静子が動かすと、「勝手に触るな」と怒るくせに、必要な物が見つからなければ「どこへしまった」と責めた。


「もう、私が片づける必要はないのよ」


静子は着信拒否を一度だけ解除し、和也の番号を押した。呼び出し音は一度鳴っただけで切れた。和也は電話を待っていたらしく、挨拶もせずに声を上げた。


「どういうつもりだ。荷物が戻されると連絡が来たぞ」


「私が受け取りを断りました」


「なぜ受け取らないんだ。お前の家には物置があるだろう」


「私の物を置くための場所です」


「俺の荷物くらい置ける。ゴルフバッグと冬物の服だけだ」


和也の後ろでは、テレビの音と洗濯機が回る音が重なっていた。静子は昔なら、冬物のコートは防虫剤を入れておかなければならないと考え、渋々受け取っていただろう。しかし今は、和也の都合を自分の予定へ組み込む理由がなかった。


「あの家は、あなたの倉庫ではありません」


「何を偉そうに言っている。もともとは俺が買った家だぞ」


「離婚したときに確認しましたね。家は私の名義で、あなたの私物はすべてお渡ししました」


「置いておくだけでいいんだ。お前には何の迷惑もかからない」


「箱を受け取り、物置へ運び、湿気や虫を気にしながら保管するのは誰ですか?」


和也は黙った。電話の向こうで洗濯機の終了音が鳴ったが、止めに行く気配はなかった。静子は庭で風に揺れるシーツを眺め、声を荒らげずに続きを待った。


「三十五年も夫婦だったじゃないか」


「だからこそ、もう十分です」


「何が十分なんだ」


「あなたの服を洗うことも、荷物を片づけることも、なくした物を捜すことも、三十五年しました」


「そんな昔の話を持ち出すな」


「昔の話を持ち出したのは、あなたです」


和也は舌打ちをしたあと、今度は声を低くした。地方のアパートは狭く、会社の倉庫も私物を置くことは禁止されたという。美咲の家に預けた物も、関係が終わった際にすべて送り返されたらしい。


「置き場がないんだよ。少しくらい助けてもいいだろう」


「必要な物だけ残して、ご自分で整理してください」


「簡単に言うな。どれも金を出して買った物なんだ」


「買った物を管理するところまで、持ち主の仕事です」


「お前は冷たい女だな」


その言葉を聞いても、静子は言い返さなかった。食卓には洗ったばかりの茶碗が伏せられ、庭では白いシーツが風を受けて大きく膨らんでいる。和也の荷物が戻ってくれば、この静かな朝まで昔の暮らしへ引き戻される気がした。


「ほかに用事がなければ切ります」


「待て。送り返されても、俺は受け取らないからな」


「その場合は配送業者と話してください。私には関係ありません」


「静子、お前――」


静子は通話を切り、もう一度その番号を着信拒否にした。指先は震えていなかったが、口の中が乾いていた。冷蔵庫から麦茶を出して一杯飲むと、冷たさが喉から胸へゆっくり下りていった。


昼過ぎ、百合子が紙袋を抱えて訪ねてきた。白いブラウスの上に緑色のカーディガンを羽織り、袋の中には商店街で買った豆大福が四つ入っている。静子が朝の出来事を話すと、百合子は大福の包みを開ける手を止めた。


「勝手に送りつけてきたの?」


「ええ。置く場所がないから、物置へ入れておけですって」


「静子の家を、まだ自分の家だと思っているのね」


「今までは、片づけるのも保管するのも私の役目だと思っていたのでしょうね」


二人は庭に面した食卓へ座り、豆大福と温かいほうじ茶を口にした。柔らかな餅をかむと、粒あんの甘さが広がった。百合子はシーツがよく乾いていると言い、午後から雨になるという天気予報の話をした。


「それなら、早めに取り込まなくては」


「こういう普通の話ができる家になったのね」


「前は、和也の機嫌の話ばかりしていたものね」


夕方、静子のスマホへ配送会社から連絡が入った。受け取りを辞退した荷物は、送り主の住所へ返送する手続きが済んだという。静子は担当者へ礼を言い、通話を終えた。


その頃、和也のアパートの前では、朝と同じ段ボール箱二つと黒いスーツケースが台車に載せられていた。和也はよれた白いシャツを着たまま、玄関を塞ぐ荷物を見下ろしていた。配達員は伝票を差し出し、送り先が受け取りを辞退したと説明した。


「もう一度、同じ住所へ送れないのか?」


「受け取りを拒否されていますので、お勧めできません」


「俺の家なんだ。妻が意地を張っているだけだ」


「伝票では、送り先は田村静子様のご住所です。こちらへお荷物を戻すよう、正式に依頼されています」


和也は返送代を支払い、荷物を受け取るしかなかった。段ボール箱を一つ動かすだけで、狭い玄関から流しまで塞がった。黒いスーツケースは部屋の中央へ置かれ、乱雑に敷いた布団の端を押し上げた。


箱の中には、着なくなった背広、古いゴルフウェア、社員旅行でもらった置物が詰まっていた。どれも捨てる決心がつかず、かといって使う予定もなかった。和也は蓋を閉めようとしたが、中身が膨らんでガムテープがすぐにはがれた。


「三十五年も置いてあったんだぞ」


誰も答えない部屋で、和也は箱を押さえつけた。三十五年間、増え続ける私物を分類し、埃を払い、押し入れへ収めていたのは静子だった。その静子が手を離した今、黒いスーツケースは和也の暮らす場所を奪うように、六畳の中央へ居座っていた。


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