第25話 善良な夫の仮面
第25話 善良な夫の仮面
日曜日の朝、和也はカーテンレールに掛けたワイシャツを見上げていた。前夜に干したものは肩の形が崩れ、袖には深いしわが残っている。窓を開けると冷たい風が入り、部屋にこもっていた洗剤と缶ビールの匂いを押し流した。
和也は灰色のスウェットを着たまま、食パンを一枚焼いた。マーガリンを切らしていたため、冷蔵庫に残っていたマヨネーズを塗ったが、酸味が強くて半分も食べられなかった。流しには昨夜洗った皿が伏せてあり、その横で水道の蛇口から雫が一定の間隔で落ちていた。
「静子なら、こんなパンは出さなかったな」
口にしてから、和也は地域広報誌の記事を思い出した。あの記事を読んだ森田は、翌日から和也へ必要な仕事の話しか振らなくなった。休憩室でも同僚たちは妻の弁当や子どもの話を続け、和也が近づくと席を詰めるふりをして会話を終えた。
和也はスマホを取り、昔の知人の連絡先を開いた。離婚してから一度も電話をしていない相手ばかりだったが、自分の事情を知れば味方になってくれると思った。最初に選んだのは、以前住んでいた町の自治会で一緒だった田辺だった。
田辺は、祭りの準備や道路の清掃で何度も顔を合わせた男だった。和也は自治会の集まりへ出るたび、妻を大切にする夫のように振る舞ってきた。帰宅後に静子へ「お前も手伝いに来い」と怒鳴ったことまでは、田辺も知らないはずだった。
「久しぶりだな。元気にしているか?」
電話の向こうで、食器が触れ合う音がした。田辺は朝食の途中らしく、「今、納豆を混ぜていたところだ」と笑った。和也は笑い返したあと、声を少し低くした。
「静子のことで、変な記事が出ただろう」
「講座の記事か。うちの女房も読んだよ」
「あいつ、外ではいい顔をするからな。静子は昔から冷たい女だったんだ」
「冷たい?」
「俺が仕事で疲れていても、小言ばかり言った。挙げ句に鍵まで替えて、俺を家から追い出したんだ」
田辺はすぐには答えなかった。電話の向こうで誰かが「お味噌汁、冷めるわよ」と声をかけ、田辺が短く返事をした。和也は、静子が勝手に離婚を進めたと話し、自分だけが突然捨てられたように説明した。
「でも、お前が若い女性と出ていったと聞いたぞ」
「それは夫婦関係が終わっていたからだ」
「先に出ていくと言ったのは、お前なんだろう?」
「静子が妻らしくしていれば、そんなことにはならなかった」
田辺は長く息を吐いた。食卓から離れたらしく、電話の向こうで引き戸が閉まった。和也はようやく落ち着いて話せると思ったが、田辺の声から笑いは消えていた。
「悪いが、俺にはどうにもできないよ」
「自治会の連中に、本当のことを話してくれればいい」
「どっちが本当か、俺には分からない。それに、お前たちの離婚へ口を出す気もない」
田辺は用事があると言って電話を切った。和也はスマホをテーブルへ置き、冷めたパンをかじった。自治会の仲間なら自分を信じると思っていたため、マヨネーズの酸味がさっきより強く感じられた。
次に電話をかけたのは、以前の本社で同じ部署にいた大橋だった。大橋は数年前に退職したが、年賀状には毎年「また飲みましょう」と書いてきた。和也は、静子が家を自分の名義に変え、計画的に自分を追い出したのだと話した。
「ひどいと思わないか?」
「家を出ると決めたのは、和也さんなんでしょう?」
「一時的なつもりだった。普通の妻なら、夫が戻るまで待つものだ」
「愛人の家へ行った夫をですか?」
「男には、いろいろあるんだよ」
大橋は返事の代わりに咳払いをした。向こうではテレビの音が小さく流れ、野球の試合開始を知らせている。和也がさらに静子の悪口を続けると、大橋は「庭の草むしりがあるから」と電話を終わらせた。
午前中だけで四人へ連絡したが、和也の話に同意する者はいなかった。二人は曖昧な返事をして電話を切り、一人は「離婚した相手の話を広めるのはやめたほうがいい」と忠告した。和也は連絡先を下へ進め、百合子の名前を見つけた。
百合子は静子の古い友人で、結婚当初から田村家へ出入りしていた。和也には口うるさい女に見えたが、静子を説得できるのは百合子かもしれない。電話をかけると、百合子は何度目かの呼び出し音のあとで出た。
「田村です。少し話がある」
「どちらの田村さんですか?」
「和也だ。分かっているだろう」
「ああ、元ご主人でしたか」
百合子はわざと「元」を強く言った。和也は眉間を押さえ、声を荒らげないように息を整えた。まずは静子が地域広報誌へ載った話を出し、昔から人前では善良そうに振る舞っていたと説明した。
「静子は昔から冷たい女だった。俺が苦労して働いても、感謝したことなんかない」
「静子さんは毎朝五時半に起きて、お弁当を作っていましたね」
「専業主婦なら当然だ」
「熱を出した日も、あなたに休ませてもらえなかったそうです」
「夫婦のことに口を出すな」
「では、静子さんの評判にも口を出さないでください」
和也は唇をかみ、テーブルの上にあった空き缶を指で押した。缶は倒れ、底に残っていたビールが新聞へこぼれた。百合子は、和也が言い返す前に静かな声で続けた。
「あなたが愛人のところへ行ったのでしょう」
「静子から何を聞いた」
「日記も見せてもらいました。あなたの帰宅時間、カードの支払い、怒鳴った言葉まで、日付と一緒に残っています」
「あいつ、夫を監視していたのか」
「自分を守るために記録していたんです。あなたが事実を変えて話す人だと分かっていたからでしょうね」
「静子に、俺を悪者にするなと伝えろ」
「静子さんは、あなたの話を広めていません。講座でも、名前を一度も出していませんよ」
和也は口を閉じた。地域広報誌の記事にも、夫の不貞や離婚の事情は書かれていなかった。家事を続けてきた期間が三十五年とあるだけで、和也を責める言葉は一つもなかった。
「それでも、あの記事を読めば俺が悪く見える」
「あなたがそう感じるのは、静子さんの責任ではありません」
「俺は悪い夫じゃなかった。三十五年も家族を養ったんだ」
「養っていたのではなく、二人で家庭を支えていたんでしょう。静子さんは、もうそれに気づいています」
電話が切れたあと、和也はしばらくスマホを握ったまま動かなかった。新聞へこぼれたビールが広報誌の記事の見出しのような四角い染みを作り、床へ一滴落ちた。雑巾を探したが見つからず、仕方なく着古したタオルで拭いた。
昼を過ぎると、田辺から短いメッセージが届いた。「静子さんのことを私たちに話すのは、もうやめてくれ」と書かれていた。その直後、大橋からも「今後、夫婦の問題については連絡しないでください」と届いた。
和也は腹を立て、昔の飲み仲間が集まる連絡用のグループへ文章を打ち込んだ。静子が家と財産を奪い、自分を地方へ追いやったと書いた。しかし送信する前に、グループから一人、また一人と名前が消えていった。
「何だよ。みんな、あいつの味方か」
夕方になっても、和也へ電話をかけ直す者はいなかった。冷蔵庫には食べる物がなく、和也はスーパーでアジの開きと小さな総菜を買った。魚焼きグリルの使い方が分からず、フライパンで焼いたところ、皮が張りついて身が崩れた。
焦げた魚の煙が部屋へ広がり、火災報知器が短く鳴った。和也は窓を開け、新聞を丸めて天井へ向かって振った。外から入る冷たい風に煙が流される間、スマホの画面には誰からの着信も表示されなかった。
昔は、和也が飲み会で家族の話をすると、知人たちは「いい奥さんだ」「幸せな家庭だ」と言った。和也も笑いながら、自分は妻を養う善良な夫だと話していた。その仮面を支えていたのが、黙って料理を作り、服を洗い、来客に笑顔で茶を出していた静子だったことを、和也は考えようとしなかった。
焦げたアジの身を箸で集め、冷えたご飯と一緒に口へ運んだ。皮は苦く、骨が喉に触れたが、取り除いてくれる人はいない。和也は誰にも相手にされなくなった連絡先を閉じ、暗くなった窓へ映る自分の顔を見た。




