第24話 夫が読んだ記事
第24話 夫が読んだ記事
地方支社へ異動して三か月が過ぎても、和也は朝の支度に慣れなかった。六畳のアパートには、脱いだままの靴下と読み終えた新聞が散らばり、流しには昨夜食べたカップ麺の容器が残っていた。薄い青色のワイシャツを着ると、左の袖口に小さな染みがあったが、洗い直す時間はなかった。
和也はコンビニで買った鮭のおにぎりをくわえ、紺色のネクタイを締めながら部屋を出た。アパートの階段には昨夜の雨が残り、錆びた手すりを握ると冷たさが掌へ伝わった。以前は玄関を出る前に、静子が曲がったネクタイを直していたことを思い出したが、和也は舌打ちをして駐車場へ急いだ。
「ネクタイくらい、自分でできる」
会社へ着くと、事務室には暖房とインクの匂いがこもっていた。和也の机は窓際の一番端にあり、以前のような役職者用の広い机ではなかった。朝礼が終わっても誰も和也へ相談に来ず、手元には倉庫の備品を確認する書類だけが積まれていた。
昼休みになると、同僚たちは弁当やカップ麺を持って休憩室へ移動した。和也はスーパーで買った三百九十八円の幕の内弁当を電子レンジへ入れ、温めのボタンを二度押した。中では煮物の汁がはね、透明な蓋に茶色い染みが広がった。
「それ、蓋を外したほうがいいですよ」
後ろにいた若い同僚の森田が声をかけた。三十代半ばの森田は、白いシャツの袖を肘までまくり、妻が作ったらしい二段の弁当箱を持っている。和也は慌てて停止ボタンを押し、熱くなった弁当の蓋を指先で外した。
「前は弁当なんか温めなかったからな」
「奥さんの手作りだったんですか?」
「まあ、毎日作っていたな。専業主婦だったから、それくらいは当然だろう」
森田は何も言わず、自分の弁当箱を開いた。中には鶏の照り焼き、卵焼き、ブロッコリーが隙間なく詰められている。森田は写真を一枚撮って妻へ送ったあと、和也の向かいへ座った。
「うちも、妻が朝早く起きて作ってくれています」
「礼なんか言うから、女がつけ上がるんだ」
「僕は自分で作れないので、言いますよ」
森田は照り焼きを一切れ口へ入れ、ゆっくりかんだ。和也は幕の内弁当の焼き魚を箸で崩したが、温めすぎて身が硬くなっていた。静子が作った弁当の鮭には骨が一本も残っていなかったことを思い出し、醤油を多めにかけて口へ押し込んだ。
食事の途中、森田がスマホを見て手を止めた。画面には、和也が以前住んでいた町の地域広報誌が表示されている。森田は最初、同姓同名の女性だと思ったらしく、画面を和也のほうへ向けた。
「この方、田村さんの元の奥さんではありませんか?」
和也は箸を置き、森田のスマホを受け取った。地域広報誌の暮らし欄には、緑色の古い家計簿を手にした静子の写真が載っていた。淡い桃色のブラウスに真珠のブローチをつけ、和也が知らない人たちに囲まれて、穏やかに笑っている。
見出しには、「三十五年の家事経験を地域へ」とあった。その下には、図書館で暮らしの講座を開き、家計管理や作り置きについて紹介したと書かれている。記事の中央には、「見えない仕事は、書けば見えるようになります」という静子の言葉が太い文字で印刷されていた。
「何だ、これは」
「暮らしの講座らしいですね。定員を超える申し込みがあったと書いてあります」
「あいつが講師だと? 大したことなんかしていない」
「記事には、衣類の手入れや食材の保存方法も教えたとありますよ」
和也はスマホを森田へ押し返した。休憩室にいた数人が会話を聞き、こちらを見ていた。笑われたような気がして、和也は弁当の蓋を乱暴に閉めた。
「あいつは俺の稼ぎで暮らしていただけだ」
「でも、家に帰れば食事があって、洗濯も済んでいたんですよね?」
森田の声は静かだったが、休憩室の中から電子レンジの音が消えた。誰かが開けた即席味噌汁から、ワカメとだしの匂いが漂っている。和也は紙コップの水を飲み、喉に引っかかった魚の身を流し込んだ。
「専業主婦なら、家事をするのは当たり前だ」
「田村さんも、給料をもらうために会社へ来ていたんですよね?」
「それがどうした」
「会社へ来るのが当たり前でも、働いたことには変わりません。家事も同じではないですか?」
和也は答えず、残った弁当をビニール袋へ入れた。煮物の汁が容器から漏れ、指先に甘い醤油の匂いがついた。以前なら静子が弁当箱を洗い、翌朝には乾いた状態で食器棚へ戻していた。
午後、和也は倉庫で備品の数を調べた。軍手、蛍光灯、コピー用紙を一つずつ数え、表へ数字を書き込むだけの仕事だった。途中でワイシャツの袖口を見下ろすと、朝に気づいた染みが茶色く浮き上がっていた。
帰宅したのは午後七時を過ぎてからだった。ドアを開けると、締め切った部屋から生ぬるい空気が流れてきた。その中に、湿った布と汗が混じったような臭いがあり、和也は思わず鼻を覆った。
「何だ、この臭いは」
流しのカップ麺を持ち上げてみたが、原因はそこではなかった。浴室の前へ行くと、洗濯機の蓋が閉まっている。和也は二日前の夜に洗濯機を回し、そのまま忘れていたことを思い出した。
蓋を開けた瞬間、酸っぱい臭いが顔へ押し寄せた。ワイシャツや下着は絡み合い、灰色の塊になっている。和也は一枚を引っ張り出したが、湿った袖が腕へまとわりつき、すぐに洗濯槽へ落とした。
「洗ったのに、どうして臭うんだ」
仕方なく、もう一度洗剤を入れて洗濯機を回した。量を確かめずに注いだため、透明な蓋の下で白い泡が膨らんでいく。洗濯機が動き始めると、和也は床へ座り込み、壁にもたれた。
腹が減っていたが、冷蔵庫には賞味期限の切れた豆腐と、開封したまま乾いたハムしかなかった。静子なら豆腐の期限を確かめ、古くなる前に味噌汁へ入れていた。ハムも一枚ずつ包み、冷凍庫へ移していただろう。
「そんなことまで、いちいち考えていたのか」
和也は近所のコンビニへ行き、割引シールの貼られた焼きそばと缶ビールを買った。帰宅すると洗濯機は止まっていたが、衣類を干す場所が足りなかった。ワイシャツをカーテンレールへ掛け、靴下を椅子の背へ並べると、狭い部屋は湿った洗濯物で埋まった。
焼きそばを食べながら、和也はスマホで地域広報誌を検索した。静子の記事をもう一度開き、写真を指で大きくした。写真の中の静子は、和也と暮らしていた頃には見せなかった顔で笑っていた。
記事には、食費を抑えながら栄養を考え、衣類を長く使う工夫を三十五年間続けてきたと書かれていた。和也は、自分が毎月渡していた生活費の額を思い出した。足りないと訴えられるたびに、「やりくりが下手だ」と怒鳴ったが、食卓から肉や魚がなくなったことは一度もなかった。
「俺が稼いだ金だった。それは間違っていない」
口に出してみても、部屋の中では洗濯物から水が落ちる音がするだけだった。稼いだ金を食事へ変え、清潔な服へ変え、風呂や寝床を整えていたのは静子だった。和也が仕事だけをしていられたのは、そのほかの仕事を静子が引き受けていたからだ。
缶ビールはまだ半分残っていたが、ぬるくなっていた。和也は焼きそばの容器を流しへ運び、昨日から残っていたカップ麺の容器も一緒に洗った。油のついた容器は水だけではきれいにならず、洗剤を何度も足したため、スポンジから泡があふれた。
「俺一人の金で、家が動いていたわけじゃなかったのか」
和也は誰もいない流しの前で、ようやく口にした。認めたところで、静子が帰ってくるわけではない。湿ったワイシャツに囲まれながら、和也は広報誌に載った静子の笑顔を、もう一度だけ見つめた。




