第23話 夫のいない家計簿
第23話 夫のいない家計簿
講座当日の朝、静子は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。昨夜は布団へ入ってからも話す順番が気になり、枕元の大学ノートを三度も開いた。そのせいで少し頭が重かったが、台所で湯を沸かし、豆腐とワカメの味噌汁を作ると、だしの匂いでようやく胃が動き始めた。
静子は焼き鮭を半分だけ食べ、残りを昼のおにぎりに入れることにした。白いご飯には黒ごまを振り、昨日漬けたキュウリも小皿へ二切れ並べた。和也がいた頃は朝食に三品なければ手抜きと言われたが、一人なら食べ切れる量でよかった。
「味噌汁も一杯あれば十分ね」
食後、静子は寝室の鏡の前で、紺色のワンピースと灰色のスーツを交互に体へ当てた。紺色は地味すぎる気がし、灰色は和也の退職祝いで親戚と食事をした日に着たものだった。迷った末に、淡い桃色のブラウスと紺色のスカートを選び、百合子からもらった小さな真珠のブローチを襟元へ留めた。
「講演会じゃないんだから、普段どおりでいいのよ」
そう言いながらも、静子はブラウスの襟を二度直した。鞄の中には古い家計簿、大学ノート、配布資料、染み抜きに使う固形石鹸を入れた。念のため老眼鏡も二つ持ち、鮭のおにぎりを包んだ布巾まで確認してから家を出た。
図書館へ着くと、小会議室には二十脚の椅子が並んでいた。窓際の長机には電気ポットと紙コップが置かれ、小林が麦茶のペットボトルを運んでいる。暖房の匂いに、佐々木館長が飲んでいるコーヒーの香りが混じり、静子は急に喉が渇いた。
「田村さん、おはようございます。そのブローチ、すてきですね」
「ありがとうございます。やっぱり服が地味ではありませんか?」
「家計の講座で金色のドレスを着る人はいませんよ」
「それもそうですね」
小林の冗談に笑ったものの、静子の指は配布資料の端を揃え続けていた。紙が少しでもずれると落ち着かず、二十部を右へ寄せては左へ戻した。佐々木はその手元を見て、湯気の立つほうじ茶を差し出した。
「始まる前に飲んでください。手が冷たくなっていますよ」
「人前で話すなんて、学校の授業参観以来です」
「そのときは何を話したんですか?」
「息子の作文を読んだだけです。それでも途中で紙を落としました」
「今日は落としても、私が拾います」
午前十時になると、参加者が次々と入ってきた。乳母車を押した若い母親、買ったばかりらしいノートを持つ一人暮らしの男性、杖をついた高齢の女性もいる。妻を亡くして半年だという白髪の男性は、一番前の席へ座り、配布資料を読む前に静子へ声をかけた。
「味噌汁は、何日くらい食べられますか?」
「できれば翌日までですね。夏はその日のうちが安心です」
「一人だと鍋いっぱい作ってしまうんですよ」
「最初は、お椀に水を入れて量を測るといいですよ。一人分なら一杯より少し多めです」
白髪の男性は、「なるほど」と言ってノートへ大きな字で書き込んだ。その隣では、若い男性がシャツの袖についたボタンを気にしている。静子はさまざまな事情を抱えた人たちを見渡し、完璧な家事を教えてほしいわけではないのだと気づいた。
開始時刻になり、佐々木が静子を紹介した。拍手が起こると、静子は立ち上がった拍子に椅子の脚へ靴をぶつけた。乾いた音が会議室へ響き、参加者の視線が集まったが、白髪の男性が先に笑った。
「私もさっき、杖を倒しましたよ」
「では、お互い一度ずつですね」
静子が答えると、会場の空気が少し緩んだ。静子は大学ノートを開き、最初の挨拶を読もうとしたが、昨夜書いた文字が急に他人の文章のように見えた。そこでノートを閉じ、朝の味噌汁の話から始めることにした。
「今朝、私は豆腐とワカメの味噌汁を作りました。豆腐を半分残したので、今夜は冷ややっこにします」
参加者の何人かがうなずいた。静子は冷蔵庫の中身を先に確認すること、使い切れない食材は早めに分けて冷凍すること、疲れた日には総菜を利用してもよいことを話した。乳母車の女性が、赤ん坊をあやしながら手を挙げた。
「総菜を出すと、夫に家事をさぼったと言われます」
「では、ご主人に買ってきてもらいましょう。売り場を歩いて、値段を見て、家族の人数を考えて選ぶのも家事ですから」
「買うだけでも家事なんですか?」
「献立を考え、在庫を確認し、買い物へ行くところから食事作りは始まっています」
次に、静子は古い家計簿を参加者へ見せた。緑色の表紙には醤油の染みが残り、ページの隅には油が跳ねた跡もある。生活費を食費、日用品、医療費に分け、支払った金額だけでなく、買わずに済ませた物も書いてあると説明した。
「買わなかった物まで書くんですか?」
一人暮らしの若い男性が尋ねた。彼の紺色のパーカーには、白い糸くずがいくつもついている。静子は家計簿の一ページを開き、「ワイシャツ三枚、買い替えず」と書かれた箇所を指した。
「襟の黄ばみを落として、ボタンをつけ直しました。買えば六千円ほどかかるところを、石鹸と糸だけで済ませたという記録です」
「それなら、節約した六千円も家事の成果ですね」
「そういうことになりますね。当時は、そんなふうに考えませんでしたけれど」
和也からは、家の中にいるのだから時間があって当然だと言われていた。だが洗濯機を回している間に米を研ぎ、煮物を火にかけている間にシャツのボタンをつけ、特売日と冷蔵庫の中身を照らし合わせてきた。静子がその手順を黒板へ書くと、会場から小さなどよめきが起きた。
「一度に、こんなにやっているんですか?」
「毎日ではありません。でも、家事はいくつもの作業が重なっています」
「うちは母親が全部やっています。帰ったら飯が出てくるのが普通だと思っていました」
「今夜は、お皿だけでも洗ってみてください。洗剤を使いすぎると、すすぐのが大変ですよ」
参加者から笑いが起こり、若い男性は耳を赤くしながらメモを取った。静子も笑ったが、胸の奥に長く引っかかっていたものが、少しずつほどけていく気がした。料理、洗濯、掃除、家計管理は、それぞれ別の仕事であり、誰か一人が黙って行うのが当然ではなかった。
「家事は、誰か一人が黙って背負うものではありません」
会場が静かになった。乳母車の車輪が小さくきしみ、電気ポットのお湯が沸く音まで聞こえた。静子は自分の声が震えなかったことを確かめ、参加者の顔を一人ずつ見た。
「できる人が、できるときに分ければいいんです。できない日があれば、休んでもいいと思います」
白髪の男性が眼鏡を外し、ハンカチでゆっくり拭いた。亡くなった妻は、三十年以上、一度も家事を休まなかったという。彼は家計簿のページを見つめたまま、低い声で口を開いた。
「妻に、ありがとうと言った覚えがないんです」
「今から家事を覚えることも、奥様へのお礼になるのではありませんか」
「味噌汁一杯から、やってみます」
一時間の講座は、予定を十分ほど過ぎて終わった。参加者が帰ったあと、机の上には空の紙コップ、鉛筆の削りかす、赤ん坊が落とした小さなガーゼが残っていた。静子がガーゼを拾って受付へ届けようとすると、三十代くらいの女性が声をかけてきた。
「少しだけ、お話ししてもいいですか?」
女性は薄茶色のセーターを着ており、袖口には毛玉ができていた。指先で何度もバッグの持ち手をねじり、ほかの参加者が出ていくのを待っている。静子が椅子を勧めると、女性は座らずに口を開いた。
「私も、夫に何もしていないと言われています」
「毎日、何をなさっていますか?」
「朝食を作って、子どもを保育園へ送って、パートへ行きます。帰ったら買い物をして、夕飯を作って、お風呂へ入れて……でも夫は、自分のほうが稼いでいると言います」
女性の目は赤くなっていたが、涙は落ちなかった。代わりに、バッグの持ち手を握る指が白くなっている。静子は机に置いていた古い家計簿を開き、何も書かれていない後ろのページを女性へ見せた。
「まず、一日にしたことを書いてみませんか?」
「使ったお金ではなくて、したことをですか?」
「食事を作った、子どもを送った、洗濯物を畳んだ。十分単位でも構いません」
静子は鉛筆を取り、空白のページに見本を書いた。朝食作り三十分、洗濯十五分、保育園の送迎四十分と並べると、それだけで一時間を超えた。女性はその数字を見つめ、バッグから自分の手を離した。
「見えない仕事は、書けば見えるようになります」
「私にも、こんなにあるんでしょうか」
「今日したことから書いてみましょう。何もしていない一日ではなかったと分かりますよ」
女性は受付でもらった資料を胸へ抱え、何度も頭を下げて帰っていった。片づけをしていた佐々木は、少し離れた場所でそのやり取りを聞いていた。静子が古い家計簿を鞄へ戻すと、佐々木が温くなったほうじ茶を新しいものへ替えてくれた。
「田村さん、今の言葉を地域広報誌に載せてもいいですか?」
「今の言葉ですか?」
「見えない仕事は、書けば見えるようになる。今日の講座を一番よく表していると思います」
翌月、地域広報誌の暮らし欄に講座の記事が掲載された。写真には、醤油の染みがついた家計簿を持ち、参加者へ話しかける静子が写っていた。その下には、太い文字で「見えない仕事は、書けば見えるようになります」と印刷されていた。
静子は食卓で広報誌を読みながら、朝の残りの味噌汁を温めた。鍋から豆腐をすくい、刻みネギを散らすと、味噌の香りが台所へ広がった。夫の名前を書かなくなった新しい家計簿の余白へ、静子は「暮らしの講座、無事終了」と丁寧に書き加えた。




