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第22話 名前のない仕事

第22話 名前のない仕事


翌朝、静子は白いブラウスの上に灰色のカーディガンを羽織り、台所で卵焼きを作っていた。昨夜の味噌汁には薄く切った大根を足し、鍋の底が焦げないように木べらでゆっくり混ぜた。油揚げの残りを入れると、味噌とだしの匂いが立ち上り、曇った眼鏡の向こうで時計の針が八時を指した。


一人分の朝食を作ることにも、ようやく慣れてきた。和也がいた頃は、卵焼きの端が崩れただけで「弁当に入れるな」と言われたが、今は少しくらい形が悪くても気にならない。静子は焦げ目のついた端を口へ入れ、熱さに驚いて麦茶を飲んだ。


「味は同じだものね」


静子は残った卵焼きを弁当箱へ詰め、梅干しのおにぎりと一緒に木綿の袋へ入れた。窓の外では、隣家の物干し竿に掛けられた子どもの靴下が風に揺れていた。雨は降らないだろうと考え、洗濯機を回してから家を出た。


図書館へ着くと、返却口の前で小林が待っていた。今日は水色のシャツに黒いズボンを合わせ、胸元には犬の形をした小さなブローチをつけている。小林は静子の顔を見るなり、持っていた紙袋を差し出した。


「昨日教えてもらった大根の葉、炒めてみました」


「まあ、もう作ったんですか?」


「夫が、おかわりしました。今まで葉っぱは全部捨てていたんですよ」


紙袋の中には、礼として小さなミカンが三つ入っていた。静子が一つ取り出すと、皮から爽やかな香りが広がった。大根の葉を炒めるだけで礼をもらうのは大げさな気がして、静子はミカンを袋へ戻そうとした。


「こんなことをしていただかなくても」


「母の実家から一箱届いたんです。一人では食べ切れないので助けてください」


「では、遠慮なくいただきます」


「その代わり、今度は白菜の使い切り方を教えてくださいね」


二人で笑いながら返却本を運んでいると、館内放送の準備をしていた館長が手招きした。館長の佐々木は六十歳を過ぎた小柄な女性で、今日も濃い茶色のスーツを隙なく着ていた。ただし足元だけは、外反母趾が痛むと言って、黒い運動靴を履いている。


「田村さん、開館前に少しお話しできますか?」


「はい。何か間違いがありましたか?」


「叱る話ではありませんよ。そんなに硬い顔をしないでください」


通された事務室には、昨日飲み残したらしいコーヒーのカップと、封を開けた煎餅の袋が置かれていた。佐々木は机の上の書類を脇へ寄せ、静子に丸椅子を勧めた。椅子が少し低かったので、静子はスカートの裾を膝へ引き寄せて座った。


「実は来月、暮らしに関する小さな講座を開こうと思っています」


「暮らしの講座ですか?」


「食費を抑える献立や、衣類を長持ちさせる方法を紹介する講座です。最近、そういう本を探す方が増えていますから」


佐々木は、利用者へ配る予定の企画書を静子の前へ置いた。そこには「無理なく続ける暮らしの工夫」と仮の題名が印刷されている。定員は十五人、時間は一時間で、図書館の小会議室を使う予定だった。


「講師を、田村さんにお願いできないでしょうか」


静子は企画書から顔を上げた。廊下では返却台を動かす車輪の音が響き、古い暖房機から乾いた風が流れている。自分が人前に立つ姿を想像すると、ブラウスの襟元が急に窮屈になった。


「私には資格なんてありません。栄養士でも、家政婦でもありませんし」


「田村さんには、三十五年の経験があります」


「でも、家事は家の中でしていただけです。人に教えるようなものではありません」


佐々木は企画書の端を指で押さえ、静子の顔をまっすぐ見た。静子は膝の上で両手を組み、ささくれた親指の爪を隠した。和也から「掃除も洗濯も誰にでもできる」と言われた声が、耳の奥へ戻ってきた。


「毎日続けてきた経験は、資格がなければ消えるものですか?」


「消えるとは思いませんけれど……」


「昨日、田村さんと話した利用者さんが、帰りに私へ言ったんです。料理の本より先に、あの人の話を聞けてよかったと」


「昨日の若いお母さんが?」


「ええ。七日分の献立を決められない自分は駄目な主婦だと思っていたそうです」


静子は、米粒のついたパーカーを着ていた女性を思い出した。疲れた顔で乳母車を押しながら、それでも家族の食事を整えようとしていた。あの女性に伝えたいことなら、料理の作り方以外にもいくつかあった。


「立派な献立より、作る人が疲れすぎないほうがいいと思います」


「それを講座で話していただきたいんです」


「私の失敗談ばかりになってしまうかもしれませんよ」


「失敗しない人の話より、役に立ちそうですね」


静子は企画書を持ち帰り、一晩だけ考えさせてもらうことにした。だが午前中の仕事をしながらも、頭の中には講座の内容が浮かんだ。返却された家計簿の本を棚へ戻すと、食費、日用品、医療費を別々の封筒へ分けていた頃のことを思い出した。


昼休み、静子は職員室で弁当箱を開いた。卵焼きの隣には、冷凍しておいたホウレン草のごま和えと、昨夜の油揚げが入っている。小林はコンビニで買ったサンドイッチの袋を開けながら、静子の弁当をのぞき込んだ。


「それ、全部朝に作ったんですか?」


「卵焼きだけです。ホウレン草は安い日にゆでて、小分けにして冷凍しました」


「そういうことを講座で話せばいいんですよ」


「もう館長から聞いたんですか?」


「講座の案を出したのは私ですから」


静子が驚いて箸を止めると、小林は悪びれずに卵のサンドイッチをかじった。昨日の大根の葉だけで講師に推薦されたのかと思うと、引き受けるのがますます心配になった。しかし小林は、静子の弁当箱を指しながら真面目な顔になった。


「私、ホウレン草を買っても、冷蔵庫で黄色くしてしまうんです。冷凍するなんて、考えたこともありませんでした」


「洗って、少し硬めにゆでればいいんです」


「ほら、また一つ教えてくれました」


「こんなの、誰でもできますよ」


「知っている人には簡単でも、知らない人にはできません」


その日の夜、静子は夕食を済ませると、押し入れから古い家計簿を取り出した。緑色の表紙には醤油の染みがつき、背表紙の角は白く擦れている。ページをめくると、「和也、飲み会」「クリーニング」「米十キロ」と細かな文字が並んでいた。


静子は食卓へ大学ノートを広げ、講座で話せそうなことを書き出した。最初のページには「食材を無駄にしない順番」、次のページには「給料日前の献立」と書いた。冷蔵庫の奥に残った野菜から使う、肉や魚は一回分ずつ包む、作り置きには日付を書くといった小さな工夫が、次々に浮かんだ。


「こんなにあったのね」


次に衣類の手入れについて書き始めると、ノートはすぐに半分近く埋まった。泥汚れは乾かしてから落とす、血液の染みには湯を使わない、シャツは襟と袖口を先に洗う。和也の白いワイシャツを毎日洗い、汗で黄ばんだ襟へ固形石鹸を塗り込んできた手が、その順番を覚えていた。


夜の十時を過ぎても、静子は鉛筆を置けなかった。食卓の隅では、夕食に食べたアジの開きの匂いがまだ少し残り、洗った皿から水滴が落ちている。何もしてこなかったと思っていた三十五年間をノートへ書き出すと、そこには暮らしを毎日止めずに回してきた段取りが詰まっていた。


翌朝、静子は図書館へ着くと、大学ノートを佐々木へ見せた。昨夜遅くまで書いたため、目の下には薄く影ができていたが、今日は淡い桃色のブラウスを選んでいた。佐々木は数ページを読み、途中で何度も感心したようにうなずいた。


「一晩で、これだけ書いたんですか?」


「まだ整理できていません。家計簿と作り置きと衣類の手入れが、全部混ざってしまって」


「講座を三回に分けてもよさそうですね」


「三回もですか?」


「まず一回目をやってみましょう。引き受けていただけますね?」


静子はノートの表紙を撫で、ゆっくりとうなずいた。佐々木はすぐに募集案内を印刷し、小林が入口の掲示板へ貼った。定員は十五人で、申し込み開始は翌日の午前九時からと書かれていた。


翌日、静子は落ち着かないまま返却本を整理していた。誰も申し込まなければ安心するような、申し込みがなければ困るような気がした。九時半になると、小林が受付表を持って走ってきた。


「静子さん、大変です」


「何かあったんですか?」


「講座の申し込みが、もう十七人です」


静子は手にしていた料理書を落としかけ、慌てて胸へ抱え直した。受付の電話はその間にも鳴り、佐々木が「申し訳ありません。今はキャンセル待ちになります」と応対している。入口の掲示板には、募集案内を読む人が二人並んでいた。


「定員は十五人でしたよね?」


「会議室の椅子を増やしましょう。二十人までなら入れます」


「そんなに来たら、私、何を話せばいいんでしょう」


「昨夜書いたことを、そのまま話せばいいんです」


静子は胸元の名札を握り、深く息を吸った。資格の名前がなくても、三十五年間続けてきた仕事は消えていなかった。受付表に並ぶ知らない人たちの名前を見つめながら、静子は大学ノートを今までよりも大切に抱え直した。


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