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第21話 返事を出さない返事

第21話 返事を出さない返事


朝の光が台所の小窓から差し込み、白いテーブルの上に細長い四角を作っていた。静子は薄い藤色のカーディガンを羽織り、焼いた食パンに苺ジャムを薄く塗ったが、端を一口かじったところで手を止めた。昨夜、郵便受けに入っていた和也からの手紙が、砂糖壺の横に置かれていたからだ。


封筒には、見慣れた右上がりの文字で静子の名前が書かれていた。結婚したばかりの頃、和也は買い物のメモにも大きな字で「醤油」「煙草」と書き、冷蔵庫へ磁石で留めていた。その文字は三十五年経って少し震えていたが、静子には迷わず読めた。


静子は冷めかけた紅茶を一口飲み、封筒から便箋を取り出した。書かれていたのは、「今まで悪かった」「ありがとう」という短い言葉だけだった。何が悪かったのかも、何に対する礼なのかも書かれておらず、静子は便箋の角を人差し指で一度なぞった。


「これで返事が来ると思っているのかしら」


口に出してみると、台所に置いた古い冷蔵庫が低くうなった。以前なら、和也から何か言われるたびに、静子は相手が望む答えを先回りして考えていた。けれど今は、謝罪を受け取ることと、もう一度関係を結ぶことは別だと分かっていた。


静子は便箋を封筒へ戻し、居間の飾り棚の一番下にある引き出しを開けた。中には使わなくなった眼鏡、旅館でもらった小さな裁縫道具、期限の切れた商店街の福引券が入っていた。和也の手紙をその奥へしまうと、引き出しを閉める音は思っていたよりも軽かった。


「返事は、書かなくていいわね」


誰に確認するでもなくそう言って、静子は残りの食パンを食べた。ジャムの甘さのあとに、少し焦げた耳の苦みが残った。食器を洗って水切り籠へ伏せると、静子は紺色のスカートに着替え、図書館の名札を鞄へ入れた。


外へ出ると、昨夜の雨で濡れた道路から土とアスファルトの匂いが上がっていた。静子は庭先の鉢植えにたまった水を捨て、倒れていた黄色いパンジーを指で起こした。駅へ向かう途中、豆腐屋の前で揚げたての油揚げの匂いがしたので、帰りに一枚買おうと覚えておくことにした。


図書館へ着くと、返却台には料理や家計管理の本が山積みになっていた。節約料理の本には付箋が何枚も挟まれ、表紙の隅に乾いた小麦粉のような白い汚れがついている。静子が柔らかい布で表紙を拭いていると、同僚の小林が返却台を見て肩をすくめた。


「今日は料理の本ばかりですね。皆さん、食費が気になるのかしら」


「野菜も卵も高くなりましたものね。昨日は大根を一本買って、葉まで炒めました」


「葉っぱも食べられるんですか?」


「細かく刻んで、ごま油とお醤油で炒めるんです。少しだけ鰹節を入れると、ご飯に合いますよ」


小林は感心したようにうなずき、急いでメモ用紙を取り出した。静子にとっては、結婚した頃から繰り返してきた普通の工夫だった。給料日前には大根の皮をきんぴらにし、少し硬くなった食パンは牛乳と卵へ浸して焼いたが、和也から褒められた覚えはなかった。


午前十一時を過ぎると、乳母車を押した若い女性が料理書の棚へやって来た。ベージュ色のパーカーの袖には、乾いた米粒が一つ貼りついている。女性は数冊の本を抜いては戻し、献立表が載ったページを困ったように眺めていた。


静子は離れた場所で本を並べながら、声をかけるべきか迷った。図書館の利用者には、静かに本を選びたい人もいる。しかし女性が「またカレーになっちゃう」と小さくつぶやいたので、静子は棚の端から顔を出した。


「何かお探しですか?」


女性は驚いて本を閉じたあと、乳母車の中を確かめた。眠っている赤ん坊からは、ミルクと石鹸の混じった甘い匂いがする。女性は声を落とし、手にしていた『一週間の節約献立』という本を静子へ見せた。


「一週間分の献立って、どうやって考えるんですか? 本の通りに材料を買うと、使い切れないものが出てしまって」


「最初から七日分を決めなくても大丈夫ですよ。冷蔵庫に残っているものから、先に使い道を決めるんです」


「今あるのは、キャベツが半分と、ニンジンが二本です。昨日の豚肉も少し残っています」


「それなら一日目は野菜炒めにして、二日目はキャベツとニンジンのスープにできます。豚肉を少しだけスープへ残しておけば、だしも出ますよ」


女性は本を胸の前で抱え、何度もうなずいた。静子は話しながら、和也の弁当を毎朝作っていた頃を思い出した。夕食の焼き鮭を一切れだけ残し、翌朝は身をほぐして卵焼きへ混ぜると、和也は「昨日と同じ魚か」と不満を言ったが、それでも弁当箱は空になって戻ってきた。


「三日目は、残ったスープにお米を入れてもいいですね。卵があれば雑炊になります」


「でも、家族に手抜きって思われませんか?」


静子は、女性のパーカーについた米粒を見た。赤ん坊を抱いて食事をすれば、服に米粒がつくことも、味噌汁を温め直すうちに煮詰まることもある。毎日違う料理をきれいに並べるより、作る人が倒れないほうが大事だと静子は思った。


「食べる人が元気で、作る人も疲れすぎない。それで十分ですよ」


「そんなふうに言ってもらったの、初めてです」


「余ったキャベツは、塩を振っておくだけでも日持ちします。立派な料理にしなくてもいいんです」


女性の肩から力が抜け、乳母車の取っ手に掛けられていた買い物袋が小さく揺れた。彼女は節約料理の本を二冊選び、貸出カウンターまで持ってきた。静子が貸出処理をしている間、赤ん坊が目を覚まし、毛糸の靴下を履いた足をばたばたさせた。


「静子さん、何でも知っているんですね」


女性は静子の名札を見ながら笑った。静子は返却日を書いた紙を本に挟み、照れ隠しに眼鏡の位置を直した。三十五年間、料理も洗濯も家計のやりくりも、できて当然だと言われ続けてきたため、何でも知っていると言われるとは思わなかった。


「長く暮らしてきただけですよ」


「それがすごいんです。私、また分からなくなったら聞いてもいいですか?」


「ええ。私に分かることでしたら」


女性を見送ったあと、静子は返却台に残った本を一冊ずつ棚へ戻した。窓の外では雲の切れ間から日が差し、濡れた自転車置き場の屋根が白く光っていた。胸元の名札を指で整えると、薄いプラスチック越しに「田村静子」という文字の凹凸が伝わった。


昼休みには、朝作った梅干しのおにぎりと、昨夜の残りの卵焼きを職員室で食べた。少し形の崩れた卵焼きには刻んだネギが入り、冷めてもだしの香りが残っていた。向かいに座った小林が、大根の葉の炒め物についてもう一度尋ねた。


「お醤油は、どのくらい入れるんでしたっけ?」


「最初は少しだけです。足りなければ、あとから足せますから」


「静子さんに、暮らしの相談会を開いてもらいたいくらいです」


「私がですか?」


「料理だけじゃありません。家計簿のつけ方も、服の染み抜きも知っているでしょう。この前、利用者さんの外れたボタンまで直していましたよね」


静子はおにぎりを持ったまま、自分の指を見た。節の太くなった指には、包丁で切った古い傷や、針を刺した小さな跡が残っている。それらは夫の世話をした痕跡だと思っていたが、見方を変えれば、三十五年間かけて覚えた技術の跡でもあった。


午後の仕事を終え、静子は朝の豆腐屋で油揚げを一枚買った。店主から「今日は揚げたてだよ」と渡された袋はまだ温かく、指先に油の匂いが移った。夕食は油揚げを焼いて生姜醤油をかけ、残った大根で味噌汁を作ろうと考えながら、静子は家までの道をゆっくり歩いた。


玄関の鍵を開けると、誰もいない家から洗いたてのカーテンの匂いがした。静子は台所へ鞄を置き、居間の引き出しへ目を向けたが、和也の手紙を取り出そうとは思わなかった。返事を書かないという返事は、もう決めていた。


「私、何もしてこなかったわけじゃないのね」


静子は買ってきた油揚げをまな板へ置き、包丁で食べやすい大きさに切った。長い間、値段のつかなかった知識が、今日初めて誰かの役に立った。フライパンに油揚げを並べると、ぱちぱちという軽い音と香ばしい匂いが、静かな台所いっぱいに広がった。


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