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下総愛菜子が残しておいたもの

 須分が自殺した事は、D社全体に伝わった。

 皆、驚いているが、紺倉と地園は、信じられない、認めたくない、といった様子だ。

 社長は苦虫を噛み潰したような表情になった。ますます厄介な事になったと思っているのかもしれない。

 菊軽、格樹、鞭岡は真っ青になっている。


「鞭岡さんが、毎日ガミガミ言っていたから、須分君、自殺してしまったじゃないですか!」

 格樹が、青くなって固まっている鞭岡に愚痴るような口調で言った。

「いくらなんでも、やりすぎなんですよ、鞭岡さん。あれでも須分君は、我々にとって、貴重な戦力だったんですよ!」

 青くなっていた鞭岡だが、格樹の声が耳に入る度に赤く変化していく。

 鞭岡は、ゆっくりと立ち上がり、格樹の席に向かう。

「どう責任取ってくれるんですか!? 鞭岡さ……」

 鞭岡は片手で格樹の胸倉を掴んだ。

 そして、もう片方の手で格樹を殴り飛ばした。

 近くに座っていた社員は、慌ててその場を離れた。

 オフィス内の人間は、唖然としながら二人を見ている。

「鞭岡さん! 何するんですか!?」

 尻餅をつきながら格樹が言った。

「うるせえよ。てめえが糞みてえなプロジェクトを立ち上げたからじゃねえか。どんだけ工数を要すると……って!」

 格樹が鞭岡を殴り飛ばした。鞭岡は仰向けに倒れる。

「糞だと……!? 糞だと言ったな……!」

 格樹の口調は荒くなってきている。

「そうだよ! まごうことなき糞だよ!」

 そう言いながら鞭岡は起き上がり、格樹を殴り飛ばした。今度は格樹が仰向けに倒れる。

「そう思うのなら反対すればいいじゃないか!」

 格樹は、そう言いながら鞭岡を殴る。

「反対したところで、強引に進めるつもりだろ! てめえは!」

 鞭岡は、そう言いながら格樹を殴る。

 二人の喧嘩けんかを見た菊軽は受話器を取り、営業部の地園に内線電話をかける。

「もしもし、地園君か。大至急、企画開発部に来てくれ!」


 企画開発部オフィスの扉が開き、地園が入ってきた。

「いかがなさいましたか? 菊軽部長」

「格樹さんと鞭岡君の喧嘩を止めてくれ」

「わかりました」

 そう言うと地園は格樹と鞭岡目掛けて走っていった。


 格樹と鞭岡の喧嘩は、互角である。

 身体能力では格樹の方が上回るが、執念と怒りでは鞭岡の方が上である。

 格樹の事を忌々しく思っていた鞭岡だが、社長の息子である格樹に歯向かうような事は、今までしなかった。

 菊軽ですら頭が上がらない格樹に歯向かおうものなら、どんな制裁を受けるかわかったものではない、と考えていた。

 だが、須分の自殺により、鞭岡は追い込まれた。

 必死な思いが鞭岡を突き動かしている。

 ――()は須分の自殺を俺のせいにするつもりだ。

 ――確かに、俺は須分相手に何度も怒鳴った。

 ――須分の未熟さもあるが、多くはあの無謀なプロジェクトと上からの圧力によるものだ。

 ――プロジェクトを進めるために必要だから鞭を打った(・・・・・)

 ――須分が駄目だと俺が怒られる。

 ――後輩には、ある程度厳しく接する必要がある。成長させるためだ。

 ――俺は悪くない。

 ――全ては奴が、椎尾格樹が悪い!


 地園は、格樹と鞭岡のそばに着くと、二人を引き離し、二人の頭をそれぞれ両脇に抱え込んだ。

 格樹と鞭岡は、一瞬、ぎょっとしたような顔になった。

 地園は二人の頭を抱え込んだまま、高くジャンプした。

 空中で両足を上げる。地園のみを側面から見ると、レの字に見える。

 地園は分厚くて硬い巨大尻から床に着地した。直下型地震が発生したかのようにオフィスが縦に揺れる。

 菊軽をはじめとした周囲の人間は、顔をしかめる。

 地園は格樹と鞭岡を離した。二人は白目を剥き、その場に倒れている。

 地園は二人の手首を掴みながら「喧嘩を止めました。二人共、脈がありますので、命には別条ありません」と菊軽に言った。

 菊軽は顔を引きつらせている。

 この後、鞭岡は自宅謹慎処分となり、強制的に帰宅させられた。

 会社は、格樹に暴力を振るったとはいえ、企画開発部で重要な役割を果たしてきた鞭岡を、クビにはしなかった。

 格樹と鞭岡にヘッドロックを仕掛けた地園も、クビにはならなかった。



 D社に戻った下総は、総務部に向かって早足で歩いている。

 須分の事で忙しかった彼女は、昼食を取っていない。

 須分の死がショックだったので食事を取る気が起きない、というのもある。

 総務部の方を見ると、そこには見知らぬ男が二人いる。

 一人は中年男性。もう一人は若い男性だ。

 彼らはスーツを着ていて、首にはカードケース付きネックストラップを掛けている。

 カードケースの中には、社員証か職員証と思われるものが、入っている。

「すみません、どちらさまでしょうか」

 下総は彼らに声を掛けた。

「我々は、こういうものです」

 中年男性はカードケースを指でつまみ、突き出すようにして職員証を下総に見せた。

 職員証には「労働基準監督署」と書いてある。

「労働基準監督署の方々ですか?」

「ええ、そうです」

 男は、にこやかな表情で答えた。

「なぜ、いらっしゃったのですか?」

「ここの下請に派遣されていた方々から、残業代を支払っていないという訴えがありまして、派遣会社や下請け会社を追っていましたら、ここに辿り着きました。また、話によると、過重労働や偽装請負まであったそうです」

「はい……」

「それで、ここの社員、特に企画開発部の方々の勤怠が気になりまして、見せていただいたのですが、どうも訴えと食い違っているようで……」

「もしかして、残業が予想よりも少ないという事ですか?」

「はい」

「それでしたら、あなたたちに見ていただきたいものがあります」

 下総は労基署職員達と共に総務部のオフィスに入っていった。


「ただいま戻りました」

 オフィスの扉を開けて入ってきた下総は、自席に向かう。

 下総は今しがた出て行ったはずの労基署職員達を連れて来ている。

 象蓑は目を丸くしている。

 下総は着席し、パソコンの電源を入れる。

 パソコンの起動後、下総はローカルドライブにあるフォルダを開いていき、階層深く突き進める。

 ルートから何階層か下の所に、それら(・・・)はあった。

 労基署職員達が、ディスプレイを凝視する。

「ご覧ください」

 下総はパソコンを操作して、それら(・・・)の内、一つを開いた。

「これは……」

 労基署職員達の口から声が漏れた。

「企画開発部社員の勤怠です」

 下総は落ち着いた口調で労基署職員達に言い放った。

「企画開発部社員の勤怠? さっきのと違うような……」

 中年の職員が疑問を口にした。

「でも、こちらの方は、訴えと一致していますよ」

 若い職員が言った。

「おお、そうだな。確かに一致しているな。すみませんけど、これらのファイルをコピーさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 中年の職員が下総に頼むと、下総は「わかりました。どうぞ」と言って了承した。



 労基署内のオフィス。

 D社に立ち入った職員の内、若い方がデスク上のパソコンを操作している。

 ディスプレイを見ると、表計算ソフトのファイルが複数開かれている。

 複数開かれているファイルは、象蓑と下総から入手した勤務表ファイルである。

 職員は象蓑からのファイルと下総からのファイルを比較し、内容を調べている。

 残業時間は下総からのファイルの方が多い。

 更新日時は下総からのファイルの方が古い。

 最後に編集したユーザー名は、下総からのファイルだと企画開発部社員名になっているが、象蓑からのファイルだと全て象蓑迅となっている。

「あの女性社員からの方が、正しいな」

 職員は、訴えの内容が正しい事と、D社が勤怠を偽っている事を、確信した。

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