5年後
5年後。
蓮は東京の小さなカフェでコーヒーを飲んでいた。
窓際の席に座り、静かな午後の空気を味わっていると――
カランカラン、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、眼鏡をかけた気難しそうな男性。
しかし蓮が声をかけると、その表情は一瞬で柔らかくなった。
「お久しぶりです、磯川さん」
「やぁ、久しぶりだね」
磯川は蓮の前に腰を下ろし、どこか誇らしげに胸を張る。
「どうだい、僕の研究成果は。なかなか自慢できると思うんだが」
紬が予言していた通りだった。
磯川は施設から持ち出した資料をもとに研究を続け、“ゾンビの脳に作用して即座に息絶える薬品スプレー”を完成させた。
国が大量に買い上げたのはもちろん、今では一般家庭でもスーパーで普通に買える。
まるで虫除けスプレーのように、誰もが気軽に使う時代になった。
日本のゾンビはほぼ壊滅状態にまで追い込まれ、
人々は以前のような生活を取り戻しつつある。
海外ではまだ混乱が続いているが、日本は世界でも回復が最も進んだ国になっていた。
蓮もこうして、気にせずカフェでまったり過ごせるようになったのだ。
磯川は蓮の前に、大きな黒のキャリーケースをゴロゴロと押し出した。
1週間分の荷物は入りそうな大きさだ。
「研究の土台は君だからね。僕だけが裕福になるのは、少し罪悪感があった。だから――お裾分けだよ」
「……これ、全部?」
「うん。全部君のだ。ほんの一部で申し訳ないけど」
パンパンに詰めたから許してくれ、と磯川は照れくさそうに笑った。
この大きさなら、ざっと見積もっても二億は入っているだろう。
ちょうどその時、ウェイトレスが磯川に飲み物を運んできた。
意外にもキャラメルマキアートだ。甘党らしい。
「ところで、あの少年少女は元気か?」
「紬は俺と暮らしてます。キャンピングカーは置いて、1年前から家を借りました。
智春は自立心なのか、あの後すぐに元の家に戻って一人暮らしです」
そう、智春は一緒に住むことを断ってきたのだ。
「あぁ。理由は一つだろうね。君たちに遠慮したんだよ」
紬の恋心を察して、邪魔をしないよう距離を置いたのだろう。
とはいえ、何かあればすぐ連絡してくるし、
こないだなんて「スープのレシピ教えてくれ」なんて電話をかけてきた。
「良い子だね。……もう5年か。少年少女ではなくなってるか」
「中身はそのまんまですよ。今日も“自分も行きたい”って駄々こねてましたし」
「連れてきたら良かったのに。しかし……そうか。1年前から家に住んでる。
なるほどねぇ……連れてこれなかったんだね」
蓮は気まずそうに頭をかいた。
「まだ……もうすぐなんで」
磯川はふふっと笑い、ふと真面目な顔になる。
「残っていた施設は、何者かがあっという間に消し去ったようだ」
「慈善団体とかでしょうか」
「いや……あくまで仮説だが、ゾンビを発生させた組織が証拠隠滅に走っているのではないかな。
あの本部施設も、ただの小物に過ぎない」
「ゾンビを発生させた組織……」
蓮は眉をひそめる。
「今回のゾンビは君との研究で対処できるようになったが……きっとイタチごっこだ。
そのうちまた新しいパンデミックを起こすつもりだろう」
「いったい、何者なんでしょうか」
磯川は腕を組み、首を振った。
「さぁ……知らない方が幸せなこともある」
それにしても、とキャラメルマキアートを啜りながら続ける。
「国からの監視は酷いもんだ。変な陰謀論まである」
虫除けスプレーならぬ“ゾンビ除けスプレー”を開発したことで、
“ゾンビを発生させた張本人では?”という噂まで流れ始めていた。
「噂は聞いています。磯川さんのことは信じてますよ」
蓮の言葉に、磯川は静かに頷く。
「しかし世論って怖いな。こんなに貢献したのに、儲けすぎると排除される」
ゾンビより人間の方がよほど怖い、と磯川はため息をついた。
「隠居というか……そろそろ身を隠そうと思う。最後に会えて良かったよ」
“最後”と、磯川ははっきり言った。
きっともう会えないのだろう。
「そろそろ行くよ」
磯川は席を立つ。
「磯川さん……お元気で」
「君も。……奥さんにもよろしく」
蓮の薬指に光る指輪にも、ちゃんと気づいていたらしい。
蓮は、去っていく磯川の後ろ姿を静かに見送った。




