第29話 世界一を誓う。俺にはこれくらいしかできなさそうだから
碧とは、小学校からの付き合いで両親とも顔見知りだ。車にも何回も乗せてもらったことがある。この前だって乗せてもらったばかり。
だけど、こうして高槻家に来るのは初めてだった。
なんとなく一戸建てを想像していたけれど、お洒落なマンション住まいだったんだな。
「お邪魔します」
住宅街の中にあるマンションの五階。駅前の様子が一望できる開放的な廊下を通って、碧の家に入る。
「碧ちゃん。セツくんが来てくれたよ」
玄関から入ってすぐ左側にある部屋のドアを、芹佳さんがコンコンコンと優しくノックする。だが、中からの応答はない。
「碧。セツがわざわざ来てくれたんだ。顔くらい見せてくれないか?」
高槻コーチも訴えかけるように声をかけるが、やはり部屋の奥が反応する様子はなかった。
三人して顔を見合わせ、どうしたものかと頭を悩ませる。
「コーチ、芹佳さん。また日を改めますよ。今日はちょっと、タイミングが悪かったってことで」
「それは……せっかくセツくんが来てくれたのに」
「そうね、セツくんに迷惑かけちゃうわ。──碧ちゃん! ごめんね、入るわよ!」
普段は碧に甘い印象の芹佳さんだが、少しだけ怒った口調で強引にドアを開けた。碧のあの頑固で行動力のあるところは、間違いなく芹佳さんの血筋だろう。
ガチャリ、と開いた部屋。
「あれ? 碧ちゃん?」
意外にも女の子らしくて可愛らしいインテリアでまとめられた碧の部屋。
そこに彼女の姿はなかった。
「もしかしたら……セツ──」
高槻コーチが何かを思いついたような声を上げ、俺に、碧が向かいそうな心当たりの場所を教えてくれた。
♢
夕暮れ時の河川敷。
オレンジ色に染まる野球場では、小さな野球少年少女たちが、まだ熱心にノックを受けていた。
『お願いします!』
『へい! 今のいけたよ!』
『さぁこーい!』
お世辞にも上手いとは言えない練習風景。だけど、小さな身体を目一杯に使って元気よく動き回る子供たちの姿を見ていると、なんだかこちらまでエネルギーを分けてもらえるような気がした。
「懐かしいな、碧」
塗装されていない、雑草の生い茂るスロープで体育座りをしていた碧に、後ろから声をかけた。
ピクン、と彼女の身体が跳ねる。
それから、恐る恐るといった様子で、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。
「セツ……」
「俺らもあんな感じだったんだな。やってる時はプロ野球選手みたいな動きをしてるつもりだったけど、客観的に見ると、まだまだ動きがぎこちないや」
あはは、と笑いながら碧の隣に腰を下ろした。
手元には、彼女の両親から託された、卒団証書と記念品の入った紙袋がある。
今、俺と碧の目に映っているのは、かつて俺たちが所属していたリトルリーグのチームだ。もう俺たちの知っている監督やコーチは引退してしまっているから、こうして少し離れた特等席から、後輩たちの練習を眺める形になった。
「あの頃から、セツはプロ野球選手みたいな動きしてたよ」
「怪力の碧ちゃんからお褒めの言葉をいただき、誠にありがとうございます」
「誰が怪力だ、おらぁ」
碧がふてくされたように笑い、いつものように言い合う。
なんだ、案外大丈夫そうじゃないか。
そう一瞬だけ安心した、その直後だった。
碧は夕陽に照らされたグラウンドを見つめたまま、寂しそうにポツリと呟いた。
「私……本当はね、野球なんてしたくなかったんだ」
「──え?」
彼女の口から溢れた初めての本音に、俺は驚きを隠せなかった。
今まで、そんな素振りなんて一ミリも見せたことがなかったからだ。
「セツも知ってると思うけど、ウチのパパ、熱狂的な野球ファンでしょ? 男の子が生まれたら絶対に野球をやらせたいって、ずっと言ってたんだって」
そういえば、高槻コーチが贔屓にしているプロ野球チームの熱い話を、俺もこれまでに何度も聞かされた記憶がある。
「でも、私が生まれてから、パパは一度もそのことを言わなくなったんだって。……パパが大好きな私はね、パパを喜ばせたくて、自分からリトルに入ったの。カイもジンも入ってたから入りやすかったし。そしたらパパ、本当に大喜びしてくれて、チームのコーチにまでなってくれて……」
本当はね……と、碧は自分の小さな手のひらを見つめながら、力弱く呟く。
「本当は、もっと可愛いことがしたかったんだ。ピアノとかさ。あと、フィギュアスケートとかも、衣装がすっごく可愛いから、いいなぁって……ずっと思ってた」
「……やたらと金のかかる習い事が好きだったんだな」
「あはは……。まぁ金銭的なこともあるし、結局は、『パパのために野球をやってあげてる』って感覚のまま、なんとなく続けてたんだ」
でもね、と碧が俺の方に視線を移す。
「そこに、すっごいピッチャーがやって来た。身長は私と同じくらいなのに、もの凄く速い球を投げるの。同学年の男子じゃ誰も打てなくて、中学生の先輩からもバンバン空振りを取っちゃうような、本物の天才ピッチャー」
「……そいつはまた、碧にとって、とんでもないのが現れたんだな」
「うん。私、その子に憧れちゃったんだよね。だからピッチャーをやりたくなった。絶対に追いつく、背中を捕まえてやるって。そう思って、フォームとかも色々試行錯誤して、トルネード投法を試して、必死に練習した。……なのに、その子はどんどん先に行っちゃって、もう、手の届かないところまでいっちゃってた」
「手は、届くんじゃないか。同じマウンドに立ってたんだから」
碧は、遮るように夕陽に向かって細い手を伸ばした。
「届かないよ。全然届かない。──それでもさ、手の届かない存在のくせに、あの夕陽みたいに、いつでも優しかったんだよ。私のこと、ちゃんと対等な仲間だって思ってくれて……」
「当然だろ。碧は、一生俺の仲間だ」
「だからッ!!」
感情を爆発させるように、碧が大きな声を上げた。
その綺麗な瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、夕陽にキラキラと光る。
「憧れのセツがいない間……っ! 私は! セツのマウンドを守らなきゃいけなかったんだよ……!!」
「碧……」
「それなのに……守れなかった……っ! 全国制覇の夢も、果たせなかった……! 私が、私が弱いばっかりに、終わらせちゃったんだよ……!!」
膝に顔をうずめて、子供のように声を上げて泣きじゃくる碧。
この瞬間、彼女をどう元気づけてあげるのが正解なのか、俺には分からなかった。
「そんなことないよ」と優しい言葉をかけるべきか。それとも、泣き止むまで肩を抱いて、頭を撫でてやるべきか。
──いや、違う。
どれもこれも、一過性の慰めにしかならない。
そんなありきたりなつぎはぎの言葉じゃ、命懸けでマウンドを守ろうとした碧の心の傷は、絶対に癒えない。
彼女は、一人の『投手』として、プライドを持って戦って、そして傷ついたんだ。
だったら──。
「なぁ、碧」
「……ひっく……え……?」
俺は立ち上がり、夕陽を背に浴びながら、泣き顔の相棒を見下ろした。
「俺、日本代表になって、世界大会で金メダル持って帰ってくるよ」
「……世界で……金……?」
「日本代表になって、世界の強い奴らを全部ぶっ倒して──碧が弱くないってこと、俺が世界に証明してやる」
碧が俺の背中を追ってくれたように。
今度は俺が、圧倒的な世界一になって、碧の悔しさを全部かっさらっていく。
「それまで卒団式はなしだ。これは俺が預かっておくよ」
そう言って、俺は高槻コーチから手渡してほしいと頼まれていた、碧の卒団証書と記念品の入った紙袋を自分の体に引き寄せた。
これを碧に渡すのは、俺が世界一になって、あいつの悔しさを全部晴らしてやってからだ。それまでは、俺たちのリトルシニアはまだ終わらせない。
これが、碧にとっての正しい治療になるかは分からない。
だけど、今、俺ができる最大にして最高の約束は、これしかなさそうだったから──。




