第24話 きみを守るためならば全てを捨てる覚悟がある(吉田雫ver)
吉田雫side
激怒するという感情が、こういうものだというのを、私は初めて知った。
よく街中やSNSで怒っている人を見かけるけど、私には理解できない感情。
モデルの仕事をしていて理不尽を受けたこともある。最近で言えば、さゆ──井駒さんたちにハブられ、嫌がらせをされたこともある。でも、その時に湧き出る感情は、怒りではなく悲しみだ。悲しくなって、悔しくって涙が出てしまう。
だけど今は違う。
こんな私の側にいてくれる人が……私の特別な人が悲しい目にあって、頭が沸騰しそうなほどに怒りという感情が湧き出る。
──有河くん。
あなたが捨てたのはただの野球道具なんかじゃない。
学校でハブられて、一人寂しい時に手を差し伸ばしてくれた、谷本瀬綱の大切な宝物だ。明日、彼が命を懸けて立つはずだったマウンドへの切符。
あなたはそれを踏みにじった。
チラリと後ろを見ると、私に引っ張られている谷本瀬綱の大きな身体が小さく見える。まるで中学一年生の時みたいに、小さく……小さく……。
許さない。
絶対に許さない。
私のために井駒さんたちを黙らせてくれたように、今度は私があの卑怯者共たちを地獄に叩き落してやる。
♢
勢いよく三年一組のドアを開け放ったら、昼休みの喧騒に包まれていた教室の空気が、一瞬で凍りついた。もうすぐ昼休みも終わりだから、ほとんどのクラスメイトが教室内にいた。そのほとんどの視線が私と谷本へささる。そりゃ、勢いよく入って来た人達が手を繋いで入って来たら、見ちゃうよね。
ただ、そんなことはどうでも良い。
有河くんたちのグループは、教室の後ろで男子数人と机を囲んで談笑していた。
私たちの姿を見て、有河くんがわかりやすくニタついた。
「おーおー、ヤりたがりのカップル様のお出ましじゃん。体育倉庫でたっぷりシてきたんだろ? こいつぁくせぇ。イカくさくてしょーがねーなー」
下品な笑い声が周囲から上がる。
「え、学校でヤッてんの?」
「うそだろ……他でやれよ、きもいな……」
クラスメイトたちも、有河くんの言うことを信じているのか、こちらを白い目で見てくる。
普段の私ならそんな事実無根のことを言い振らされて、泣きそうになっていたことだろう。谷本瀬綱に助けを求めたかもしれない。
だけど、今は、私が谷本瀬綱を助ける番。
そのことが頭にあるからか、私の心は驚くほどに冷静だった。
目の前の存在がひどく矮小で、汚いゴミのように見えてしまう。
「有河くんが谷本グローブを捨てたんだよね?」
私の声は、自分で思うよりもずっと低く、教室の隅々にまで通った。
有河くんは一瞬だけ、その威圧感に気圧されたように目を見開いたが、すぐに虚勢を張って鼻で笑う。
「はぁ? 知らねぇよ。なんで俺がそいつの汚ねぇ物触ると思ってんだ。証拠でもあんの?」
上原くんから全部聞いた。
なんて言うと、明日の彼の立場がどうなるかわかる。正直、彼がどうなってたって構わない。構わないけど、これ以上、谷本瀬綱や、私みたいな存在が増えるのは心地良いとは思わない。
「証拠はない」
そう言うと、ちょっぴり安心したかのような表情のあと、勝利を確信したかのように鼻で笑われてしまう。
「おいおい。証拠もないのに言いがかりつけんなよ。なぁ?」
周囲の同意を求め、頷かせている。
「──でも、谷本に実力で勝てなくて、嫉妬して、こんな陰気臭い卑怯なことしそうなのは有河くんだけだから」
「あ!?」
私の挑発じみたセリフに瞬間沸騰した有河くんは、こちらの胸ぐらを掴んで来た。
「今、なんてったクソビッチ!! ああ!?」
凄い力。身長差はそこまでない。だけど、物凄い力で私は軽く宙に浮く。男女の力の差を見せつけられてしまう。
だけど、不思議と全然怖くなかった。
「男の嫉妬はキモイって言ったんだよ!! くそ陰キャ!!」
「んだと──」
「自分に実力がないからって八つ当たりすんな!! だったら実力で証明しろ!! お前も日本代表になれば良いだろ!! 嫉妬してグローブ捨てるとかキモいことしないで、同じ土俵に立ってみろよ!!」
「……んにも、しらねーくせに──」
「お前のことなんか知るか!! 知りたくもない!!」
「ぶっ殺すぞ!!」
「こっちが殺してやるよ!! 私がどうなったってお前を殺してやる!!」
なんとか有河くんの手を払い、周囲の取り巻きたちを睨みつける。
「お前も!! お前も!! 私の全てを使ってでも!! 今までの全部を捨てても!! 殺してやる!!」
「ちっ。うっせーよ!! 死ね!!」
私の言葉じゃ脅しにならなかったみたい。
あーあ、谷本みたいにはいかないな。
あ、殴られる。
顔面にアザが出来たらモデルの仕事ができない。
おじいちゃんおばあちゃんが応援してくれているのに。安藤さんにも迷惑がかかる。
そして、モデルの仕事がなくなったら、クソ両親への復讐が──。
このコンマ一秒の間に脳裏を過る最悪の未来。
でも、いいや。
私は私のためには怒ることができない。でも、大切な人に怒ることができる人間だ。そして、その人のためならば、全てを捨てる覚悟のできる人間。
それがわかっただけでも良い。顔面にアザができても、それは勲章だ。胸を張れ。
──これで、ちょっとは谷本瀬綱に近づけた、かな。
覚悟を決め、ぎゅっと目を瞑った。
バチンッ!!
鈍い嫌な音が教室に響き渡る。
でも、覚悟していた痛みが来ない。
「たにも、と……」
ゆっくりと目を開けた時、私の目の前には大きな背中があった。物理的にも、精神的にも大きい背中。
谷本瀬綱が有河くんのパンチを右手で受け止めてくれていた。
「お前如きが、本物の顔に傷つけて良いはずねぇだろうがっ!!」
「な、んだと……っ、らああああああ!!」
ゴンっと、有河くんは受け止められた反対の手で谷本の顔面を殴った。でも谷本は大したことないって顔で有河くんを睨みつける。
「俺と吉田は本物なんだ。これから先も二人で駆け上がる。上しか見ていない。お前みたいに下で這いつくばって陰気くさい生き方しているやつに構っている暇なんかない」
「うるせぇ……うるせぇうるせぇうるせぇ!! うるせええええええ!──!」
プライドを打ち砕かれ、さらに殴りかかろうとする有河くんの拳。 だけど、谷本はもうそれを許さなかった。空いた手で、その拳を無造作に、完璧に受け止める。
両手を封じられ、圧倒的な筋力でねじ伏せられた有河くんを見て、谷本はチラリとこちらを振り返った。
「俺の右手は世界で戦うためのもの。こんな奴と戦うためじゃない、だろ?」
その微笑んだ顔は、いつもの谷本瀬綱の顔だ。
「なんでだよ……なんでやり返してこねぇ……なんでだよ!!」
「有河……あーりぃ……」
昔のあだ名だろうか。その名を呼ぶ谷本は、なにかを決心したかのように悲しい声を出していた。
「小学校の時、めちゃくちゃ仲良くて、将来は甲子園でバッテリー組もうって言ってたよな」
「は、はあ? いきなりなんの話──」
「俺はさ、本当にバッテリー組めたらって、本当に……思ってた」
「……っ!?」
谷本のセリフを聞いた時、有河くんの顔が劇的に崩壊した。
「──ああああああ!! くそがっ!! 俺だってそうだよ!! 俺だってたにもっちゃんと組みたかった!! バッテリー組みたかった!! でも!! でも!! お前は、俺の何歩も先に行って……追いつけないところまで行って……どうしろってんだ!? なあ!? どうしたら追いつけた!? お前に……っ!?」
有河くんはその場で崩れ落ちた。そして、子供みたいに泣きわめく。そんな彼に同情の余地などない。
「だからって、相手の大切な物まで奪って良い理由にはならない。──最低だよ、あなた」
「くっ……ああああああ!!」
学校のドンとして君臨していたはずの有河くんが、クラスメイトたちの前で、一番見えを張りたかった谷本瀬綱の前で、無様に泣いている姿を見せている。
彼の今後の学校生活がどうなろうが知ったこっちゃない。
今、考えなければならないのは、谷本瀬綱を明日のマウンドへどう繋げるか。それだけだ。




