壱
「ごめんなさい。わたくしがもう一人、男児を産めていれば」
玉緋が物心ついた頃には、それが母の口癖になっていた。
景国名門将軍家、荷一族。
当主は代々将軍職を拝命し、荷家とその旗下にある兵を率いて国のために戦う。景という国が興った時から、荷の人間はそうやって生きてきた。
景では女でも兵になることができる。女でも家督の継承権はある。
だがそれは『建前では可能』という程度の認識で、実際に女で兵になる者も、女で当主になる者もごく少数だった。
ましてや荷家の継嗣は、将として兵を率いて国のために戦う責を帯びている。荷本家の当主に輿入れした嫁の一番の責務は、男児を産むことにあると言っても過言ではないという家だった。
景では家督継承に関する争いを防ぐため、皇帝以外が側室を持つことは禁止されている。有事には血族全員で戦場に立つ性質上、血を残すことに困難が付き物である武官一族もそこに例外はない。
そのため景では、どんなに高名な家であったとしても『子供ができない』という理由で簡単に離縁が行われる。代々武門を継いできた家ほどその傾向が顕著だった。
血筋よりも、家を守る能力よりも。当人達の相性や感情などよりもずっとずっと、『子を成すことができるか』『男児を産むことができるか』という部分に重点が置かれる。家族でありながら情が通わない家など、それこそ国政中枢部では『当たり前』の風景だ。血の繋がりに特別な情を抱く庶民のような感覚を持つ人間の方こそ、むしろ異端だと捉えられる。
そんな風潮のある国が景で、歴史が深い武官一族ほど、それが『常識』だった。
だからきっと、玉緋の家族は『異常』と言われる部類だったのだろう。
母は、父に深く愛され、請われた末に嫁いだ、相思相愛の妻だった。
生まれつき体が弱かった母を娶ることに、父の周囲は強硬に反対したという。言葉を選ばずに言うならば『あんな細くて生っちょろい女に男児が産めるものか』『お前は荷一族の責務を蔑ろにするつもりか』というようなことを散々言われたらしい。
だが父の意志は固かった。『彼女しか娶りたくない』『許されないならば、自分が彼女の家に婿に行く』『荷家は弟が継げばいい』と強行に言い張る父に、最終的に周囲が折れたのだという。
夫婦になってからも、両親の仲は睦まじかった。
母は体こそ弱かったものの、利発で肝の座った人物だった。たおやかな見た目に似合わぬ才気で母は家をよく守り、愛妻を迎えた父は以前にも増して武勲を挙げ続けた。
だがやはり、子供だけはどうにもならなかった。
母は玉緋を産んだ後の肥立ちが悪く、次の子は望めないと医師に告げられた。このまま夫婦であり続けるならば、父の血を継ぐ子は娘である玉緋だけになるだろうと言われたのだ。
当然、周囲は夫婦を責めた。『それ見たことか』と。『そんな嫁とはさっさと離縁して、きちんと男児を産める嫁を娶れ』と、父は再び非難にさらされた。
それでも父は、母の手を離せなかった。そうなってもなお、父は母を愛し、玉緋を愛してくれた。『いっそ手を離した方が彼女達も幸せになれるのではないか』と考えながらも、どうしてもその道だけは選べなかったのだ。
母も母で、自身が身を引けば父に新たな子をもうけさせることができる可能性を理解していながら、父の手を振り解くことができなかった。母が父を深く愛していたということもある。だがそれ以上に、自分と玉緋が父の傍を離れてしまえば、『護国の剣神』とまで謳われた父は駄目になってしまうという確信が母にはあったらしい。
父が『歴代最強の将』と呼ばれる武勲を挙げ続けても、母が賢く家を守り父を支え続けても、周囲は『二人の間に男児がいない』ということを責め続けた。
そうでありながら父が将を退き、ただの『父』として妻子と暮らす道も、周囲は許すことがなかった。
それだけ父の力が景という国には必要だったということもある。そもそも母を娶る時点で父の意見が通ったのも、それが理由だった。
そもそも、離縁に関する周囲の本心は『あわよくば自分こそが次の嫁に』『あわよくば自分の血族こそが類縁に』というものだったらしい。要するに彼らは『今の嫁では男児が産めないから』というのをダシにして二人の仲をとにかく裂きたかった。それが分かっていたからこそ、二人揃ってこの件に首を縦に振ることは決してなかった。
だが玉緋が五歳になっても、その状況が変わることはなかった。この件に関して考える時、玉緋はいつも『むしろ両親の性格を考えた時、よく五年もの間、周囲に危害を加えることなく、大人しくその状況に耐えたものだ』と思う。
そんな二人にとっての転機が訪れたのは、玉緋の五歳の生誕を祝う宴が開かれた晚のことだろう。
宴と言っても『荷の望まれない姫』の宴に客も親族も来ることはなく、両親と玉緋で着飾り、玉緋の好物を食べるという、玉緋にとっては心地よいが細やかな宴の席だった。
その時、父に言われた言葉を、玉緋は今もはっきりと覚えている。
「なぁ、玉緋。父様と母様と一緒に、遠い国に行って、静かに暮らさないか」
今から思えば、五歳の子供を相手に随分難しいことを言ったなと思う。裏を返せば当時の父は、それだけ精神的に追い詰められていたということだろう。
「今のように、大きな屋敷で暮らすことも、綺麗な装束を着ることも、腹いっぱい食べることもできなくなってしまうかもしれない。だが、お前も、母様も、父様も、『家族』でいることに後ろ指を差されることはなくなる」
きっと父はあの時、すでに国も責務も擲つ覚悟ができていたのだろう。玉緋が頷きさえすれば、あの晚のうちに玉緋達家族は密かに国外へ逃れていたはずだ。父も母もあの瞬間、『そうなる』と覚悟して玉緋の返事を待っていたはずだ。
「それは玉緋が、『女』であるからですか?」
だが玉緋は、そうは答えなかった。
「お父様も、お母様も、皆が言うように、玉緋が『男』であれば良かったと、思っていらっしゃるのですか?」
今でも玉緋ははっきりと覚えている。
父に問いかけられた瞬間、内で弾けた怒りを。五歳の子供が口にしたとは思えない、固い決意を。
「違いますよね? お父様も、お母様も、一度も玉緋に『男であれば』とも『男児が産まれていれば』とも、言ったことはありません。そんなうるさいことを言うのは、いつも『家族』ではない人間です」
玉緋の言葉に、父も母も目を瞠っていた。同時にその目が涙で潤んでいたことに、玉緋は気付いていた。
「なぜ立派に責務を果たしていらっしゃるお父様が、この国から逃げるような真似をしなければならないのですか? 子が男に産まれるか、女に産まれるかは、神様だけが決められることだと書物には書いてありました。だというのになぜ、お母様が悪いように言われなければならないのですか?」
クシャリと顔を歪めながらも、玉緋がうつむくことはなかった。涙で声を詰まらせながらも、言葉を飲み込むことはなかった。
自分が纏った襦裙の布地をシワが寄るくらい握りしめながら、それでも玉緋は自分と視線を合わせるために床に膝をついた父から視線を逸らすことをしなかった。
「お父様にも、お母様にも、瑕疵など一切ございません。だというのに逃げるなんて、……こちらが悪いことを認めるようなことをするなんて、玉緋は悔しいです……っ!!」
弾けた怒りが向かう先は、両親ではなかった。
自分達家族を引き裂こうとする部外者達に、玉緋は齢五つですでに激しい怒りを燃やしていた。
「お父様、お母様、どうか玉緋に時間をください」
大きな屋敷にも、綺麗な衣にも、美味しい食事にも未練はなかった。父と母と一緒に、笑い合って生きていければそれで良かった。
だが命をかけて戦い続ける父と、父を支え家を守り続ける母を、『男児をもうけることができなかった』ということだけで非難し続ける輩をのさばらせたまま逃げ出すということに、我慢がならなかった。
なぜ父が築き上げた戦功を、そんなつまらぬことで他人に譲ってやらねばならないのか。なぜ想い合う父と母を引き離そうとするのか。ただ『女に生まれた』というだけで、二人に愛されて生きている玉緋が、なぜ二人の人生の汚点のように言われなければならないのか。
きっと父の言葉に素直に頷いていれば、両親も玉緋ももっと楽に、平穏に生きることができたのだろう。才気に恵まれた父母のことだ。国と地位を捨ててどこへ行こうとも、上手く生きていけたに違いない。
だが玉緋はその怒りの全てを飲み込んで、遠くに逃げるという道を、……周囲の圧に負けるという道を、どうしても選べなかった。
あんな輩を相手に、何を恥じることもない自分達が引くことなど、決してあってはならないと思った。
「この玉緋が、お二人が何も悪くないことを、立派に証明してみせます。女であっても立派に荷家の責務を果たせると、我が身を以て証明してやります……っ!!」
齢五つで、玉緋は吠えた。
つまらぬ『常識』やら『責務』やらで玉緋達家族の幸せを奪う世間に向かって。何よりも大好きな両親の顔に憂いを広げさせる輩どもに向かって。
「私が荷家の将軍になって、必ず世間の目を変えてやるっ!!」
それが後に『景の火剣』とまで呼ばれることになる、歴代屈指の猛将の始まりだった。




