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荒野を吹き荒れる風は、生身で受けるとこんなに痛いものなのだと、その日、荷玉緋は初めて知った。
──こういう場所も、こういう場面も、何度も立ち合ってきたはずなのにな。
鎧を脱いだだけでこんなにも変わるものなのかと、玉緋は眼前に広がる景色を眺めながら静かに考える。
そんな玉緋の視界には、砂塵に霞む地平線を覆い尽くすかのように敵兵が整列している様が見えていた。整然と並んだ兵達の前には一挺の輿が用意されている。こんな戦場にどこから持ってきたのかと問いたくなるような、質素ながらも場違いな輿だった。
振り返ってみれば、自分の後ろには同じように整然と並んだ自軍の姿があるはずだ。だがそこには敵軍と違って輿の用意はない。兵の数も少なければ、状態も敵軍に劣るだろう。
その状況を目の当たりにしても、心は思っていたよりも落ち着いていた。すでに知っていたことでもある。鎧を脱いで、この場違いな襦裙に身を包んだ時に、覚悟は固めたつもりだった。
それでも、自軍の最前線に進み出た瞬間に足は止まってしまう。さらに前へ、……両軍が睨み合う空白地帯へ足を踏み入れるためには、もう一度腹を括る必要があった。
その最後の覚悟を決めるために、玉緋は一度視線を伏せてからスッと深く息を吸い込む。
「聯国総大将、劉秀蘖! 貴様に今一度問う!」
玉緋の声は、吹き荒れる風を切り裂くように荒野に広く響き渡った。戦場よりも妓楼にいる方が似合う、細身で麗艶な女が上げたとは思えない圧を纏った声は、居並ぶ全員の耳と言わず全身をビリビリと震わせる。その威圧に、敵と言わず味方までもが身構えるのが空気の変化で分かるような心地がした。
そんな声がこの局面で出せたことに、玉緋は内心で安堵する。
「貴様が約した言葉に、嘘偽りはないだろうなっ!?」
「無論、嘘もなければ偽りもない」
そんな玉緋の声に、間髪を容れずに敵軍から声が返った。
その声だけが、この局面にあって不自然なほどに力みがない。
「我ら聯国軍は、景国軍総大将・荷玉緋の身代を対価に、此度の戦から軍を引く。これは聯国総大将・瀏秀蘖と景国総大将・荷玉緋の間で、しかと締結された停戦条約だ」
どこまでも自然体で軽やかなはずの声は、玉緋の声に負けず劣らず戦場の隅々にまでよく響き渡る。そこに圧はなくとも、その響き方だけで声の主が人を指揮する側の人間であることが分かるような声だった。
「さぁ、あとは貴殿の振る舞い次第」
その声の主が、輿の前に立つ年若い男であると、玉緋は知っている。
両軍が睨み合うこの戦場のど真ん中で、兜を小脇に抱えて不敵に玉緋を見やるこの男こそが、此度の戦場を奇策でかき回し、景国軍に痛手を負わせた当人だということも。
「答えを聞こうか、荷玉緋殿」
その声に、玉緋は一度瞼を落とす。
──私は景国軍総大将、荷玉緋。荷将軍家の名を負う将。
その肩書きを負った時から、いざという時は己の身命を以て敗戦の責を負うという覚悟は決めていた。それがこの戦線で、今この瞬間だったというだけだ。
──たとえこの矜持をいかなる手段で踏みにじられようとも。最期の責務は、必ず果たす。
その覚悟をもう一度胸中で言葉にしてから、玉緋は瞼を押し上げる。
同時に、足はスッと前へ出ていた。
「行こうか、小鈴」
声を上げそうになる副官達を片手を上げることで留めながら、玉緋はただ一人、自分に付き従う腹心に声をかけた。玉緋の侍女であり懐刀である従者は、無言のまま玉緋の後ろに付き従う。
最初の一歩が前へ出れば、後の歩みを躊躇うことはなかった。
装束こそ女物に改めたものの、足元は戦支度の長靴のままだ。将軍としての勇ましさを失わない歩みで両軍が睨み合う中を進めば、玉緋と敵陣の前線との間合いはあっという間に詰まっていく。
腰に愛剣があるとはいえ、今矢を射掛けられれば玉緋はそのまま倒れ伏すしかないだろう。そうでなくとも景国軍総大将が武装を放棄した状態で、『女』として自ら敵陣へ歩み寄っていくのだ。
『景の火剣』とまで称された将が、自ら敵へ降る。
言葉上は『停戦』とされているが、これを『敗戦』と言わずして何と言うか。
「将軍……!」
「荷将軍……!!」
『決して喚くな』と厳命したにもかかわらず、自軍が咽び泣いているのが玉緋には分かった。
だがもう玉緋は振り返らない。……振り返れない。
──私の身代ひとつで、これ以上友軍を傷付けることなく景へ返せる。将の首の使い方として、この上なく正しい。安いものではないか……!
勇ましい足取りを崩すことなく、だが急くこともなくあくまで威厳を保ったまま、玉緋は敵軍の総大将が待ち構える輿へ向かっていく。
そんな玉緋の姿に、玉緋を迎え入れようとする男が目を細めたのが分かったような心地がした。




