第五十六話 王国一の研究契約を結んでも、俺は工房を手放しません
王宮から届いた新しい契約書は、前のものよりずっと厚かった。
「……読むだけで一日終わりそうだ」
マリクが言うと、エルナは涼しい顔で答えた。
「私は三日かけて確認しました」
「三日?」
「ええ。まだ直したい箇所があります」
リオが書類の束を持ち上げた。
「これ全部、マリクが働くための約束?」
「そうだ」
「働くより大変そう」
「否定できないな」
新しい契約は、研究成果の買い取りではなく、王国と工房による共同研究を定めるものだった。
安全情報の共有。
個人情報の保護。
試験の中止権。
成果を軍事目的に使う場合の別途審査。
そして、工房の独立した経営を守る条項。
エルナは最後の頁を指さした。
「ここです。研究資金の停止があっても、工房の建物や既存の施術記録は王国へ移りません」
「助かる」
「まだ安心しないでください。相手が合意するまでは案です」
マリクは頷いた。
数日後、王宮の会議室で最終協議が始まった。
医療行政の官吏、研究局の役人、ハロルド、オルフェン、エルナ、そしてマリク。
少し離れた席には、利用者の代表として招かれた女性が座っていた。
以前、工房で施術を受けた人だ。
「私がここにいて、よいのでしょうか」
女性が小声で尋ねる。
「もちろんです」
マリクは答えた。
「施術を受ける側の意見が必要なんです」
女性は少し緊張した顔で頷いた。
議論は長かった。
研究局は機密の扱いを重視した。
医師たちは安全情報の共有を求めた。
エルナは費用と責任の分担を一つずつ確認した。
マリクは、分からない言葉が出るたびに質問した。
「その『例外的運用』って、誰が決めるんです?」
「研究局です」
「なら、工房と医師の確認が必要だと書いてください」
役人はため息をついた。
「あなたは本当に細かい」
「以前、細かいところを読まずに困ったことがあるので」
「商会との契約ですか?」
「契約する前に断れたから、まだよかったです」
契約書に最後の署名が入る前、エルナが一か所を指した。
「研究を止めた場合、患者の診療はどうなりますか」
王国側の担当者は条文を読み返し、別紙を追加した。
『研究の中止は、通常の診療を中止する理由としない』。
マリクはようやく筆を取った。
守りたかったのは研究の権利だけではなく、その先にいる人たちの日常だった。
役人は苦笑した。
昼過ぎ、利用者代表の女性が口を開いた。
「一つ、お願いがあります」
全員が彼女を見た。
「施術を受けないという選択も、尊重していただきたいんです」
女性は膝の上で手を握った。
「私は以前、自分の体を変えないと価値がないと思っていました」
マリクは静かに聞いていた。
「でも、相談しているうちに、変えなくてもいいと思えるようになりました。施術を受けるかどうか、自分で選べたことが嬉しかったんです」
彼女は顔を上げた。
「研究が進んでも、受けない人を劣っているように扱わないでください」
ハロルドが深く頷いた。
「その考えは、医療の場でも守るべきです」
官吏が書き留める。
「説明と同意の条項に、明記しましょう」
マリクは女性に頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は小さく笑った。
「こちらこそ。私の話が役に立つなら」
夕方、ようやく契約がまとまった。
研究局の役人が署名を終え、マリクに羽根ペンを渡した。
「これで、あなたの研究は王国の支援を受けます」
マリクは書面を確認し、名前を書いた。
「よろしくお願いします」
「一つ、聞いても?」
役人が言った。
「何でしょう」
「これだけの研究費があれば、王宮に研究室を構えることもできます。なぜ工房にこだわるのです?」
マリクは少し考えた。
「俺が初めて、自分の仕事を見つけた場所だからです」
「思い出のためですか?」
「それもあります」
マリクは続けた。
「でも、それだけじゃありません。
あそこには、相談に来る人がいます。
研究のためだけの研究にならないように、俺はあそこにいたいんです」
役人は静かに頷いた。
王宮を出ると、門の前でリオが待っていた。
「どうだった!?」
「契約できた」
「やった!」
リオは飛び跳ねた。
「じゃあ、王宮に引っ越すの?」
「しない」
「王様の食堂でご飯食べ放題とか?」
「ないと思うぞ」
「残念!」
マリクは笑った。
「帰ろう。工房でみんなが待ってる」
マリクは契約書の写しを胸元へしまった。
王国から得たのは、何でも試せる権利ではない。
危険だと思ったときに、止まれる約束だった。
帰り道、王都の広場で小さな男の子が転んだ。
母親が駆け寄り、膝についた土を払う。
男の子は泣きそうな顔で立ち上がった。
マリクはその光景を見て、ふと思った。
自分が目指しているのは、何でも治せる魔法ではない。
必要なときに助けを求められ、助けられないときにも別の道を探せる場所だ。
工房へ戻ると、カインが入口の看板を磨いていた。
ミアは休憩室の椅子を並べ、エルナは新しい予約帳を用意している。
リオが勢いよく扉を開けた。
「ただいまー! 契約できたよ!」
歓声が上がった。
マリクは少し照れながら頭を下げた。
「みんなのおかげだ」
「じゃあ、今日はごちそう?」
リオが聞く。
「そうだな」
「お肉?」
「好きなものを頼め」
「言ったね!?」
その夜、工房の食卓には普段より少し豪華な料理が並んだ。
署名した契約書は、エルナが二部を照合してから金庫にしまった。
だが、マリクにとって一番大切なものは、金庫の中にはなかった。
目の前で笑っている仲間たち。
明日も開けられる工房の扉。
そして、自分で選んだ仕事。
それが守れたことが、何より嬉しかった。
宴が終わるころ、ハロルドが工房へ顔を出した。
「契約がまとまったと聞きました」
「はい。おかげさまで」
「これからが本番ですよ」
「分かっています」
ハロルドは研究帳を見た。
「成果を急がないと言っても、患者さんは待ってくれないことがあります」
マリクは頷いた。
「だから、今できる施術は今までどおり続けます。研究が必要なことは、無理に引き受けません」
「それでいい」
医師は微笑んだ。
「助けたい気持ちが強いほど、できないことを認めるのは難しいものです」
マリクは以前、痩せた少女が工房を訪れた日のことを思い出した。
脂肪を移せば助かると思いかけた。
だが、必要だったのは、医師による診察と、時間をかけた支援だった。
「……あの子、最近どうしています?」
「食事と休養を続けています。すぐに元気になるわけではありませんが、少しずつ外を歩けるようになりました」
「そうですか」
マリクは胸を撫で下ろした。
何もしなかったわけではない。
施術しないと決めたことも、一つの仕事だった。
リオは契約書の写しを見て、目を丸くした。
「難しい字ばっかり!」
「読めない約束は守れないからな。あとで一緒に確認しよう」
エルナが笑った。
「まずは、誰が研究を止められるかから説明しますね」
リオが空になった皿を持ち上げた。
「明日も忙しいよ!」
「分かってる」
「じゃあ、早く寝よう!」
「お前が一番遅くまで食べてたんだろ」
笑い声が、夜の工房に広がった。




