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脂肪転移の魔術師 完全なハズレスキルが最強の錬金術スキルでした  作者: レモンティー


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第五十五話 古代錬金術の最後の実験は、失敗ではなく警告でした

王都記録庫の地下には、古い書類の匂いが満ちていた。

「くしゃみしたら、全部崩れそう」

リオが小声で言う。

「声も少し小さくしてくれ」

マリクが答える。

「今の、十分小さかったよ?」

「二人とも静かに」

エルナに注意され、二人は同時に口を閉じた。

案内役の記録官は、奥の棚から封蝋の残る箱を運んできた。

『旧王立第七研究所 事故調査』

箱を開ける前に、エルナが閲覧許可の文面を確認する。

「写しは安全に関する部分のみ。個人情報は持ち出し禁止、ですね」

「承知しています」

マリクは頷いた。

記録官は鍵を回した。

箱の中には、黄ばんだ報告書と、実験を中止する命令書が入っていた。

オルフェンが最初の頁を読んだ。

「……転位先の誤指定」

ダリオが顔を上げる。

「対象ではなく、転位先ですか?」

「ああ。術式が指定した場所と、実際の移動先が一致しなかったらしい」

記録には、容器を使った試験が書かれていた。

人体を使わない試験で、油脂を密閉容器へ移そうとした。

最初は成功したように見えた。

だが、保存したはずの物質の一部が、別の試験槽に現れた。

その後、原因を特定できないまま研究が進められ、装置が破損した。

研究員が負傷し、施設の一部が崩れた。

「……保存器が完成したわけじゃなかったんだ」

マリクは呟いた。

オルフェンは頷いた。

「われわれの試作品も、同じ危険を持つ可能性がある」

「なら、使いません」

マリクは即答した。

ダリオが記録をめくる。

「ここに、研究主任の意見書があります」

そこには、何度も書き直した跡があった。

『本術の可能性は大きい。

しかし、可能性は安全の証明ではない』

『結果を急ぐ命令が、検証の手順を奪った』

『術式の公開を急ぐ前に、失敗条件を明らかにすべきである』

リオがぽつりと言った。

「……昔の人も、急がされたんだね」

マリクは第五十三話の王宮での交渉を思い出した。

国は成果を欲しがった。

研究者も期待に応えたかった。

誰も最初から事故を望んでいたわけではない。

それでも、事故は起きた。

「この主任は、その後どうなったんです?」

マリクが尋ねる。

記録官は別の書類を取り出した。

「研究中止を求め、責任者を辞任しています」

「処罰されたんですか?」

「記録上は、辞任後に医療機関の助言役を務めています」

オルフェンは小さく息を吐いた。

「失敗した研究を捨てず、教訓を残したわけか」

マリクは報告書の最後を読んだ。

『後世の研究者へ。

できることを増やす前に、してはならないことを確かめよ』

長い沈黙が落ちた。

「……これ、工房の壁に貼りたいです」

マリクが言う。

「壁に?」

リオが首を傾げる。

「毎日、目に入る場所にな」

「じゃあ、受付の横!」

「客が怖がるだろ」

「研究室にしなさい」

エルナの一言で決まった。


午後、王宮で研究契約の再協議が開かれた。

研究局の役人は、記録を見て渋い顔をした。

「古代の事故と、現在の研究は別でしょう」

「別です」

マリクは答えた。

「だからこそ、同じ事故を起こさない条件が必要なんです」

「王国は研究を妨げたいわけではない」

「それも分かっています」

マリクは机の上に、修正した契約案を置いた。

「成果の報告はします。

資金の使い道も明らかにします。

でも、人体での新しい術式試験を、国の命令で急がせることは認められません」

役人が眉を寄せた。

「研究の進捗が遅くなります」

「遅くなるでしょうね」

「それでよいと?」

「取り返しのつかない失敗より、ずっといいです」

医療行政の官吏が口を開いた。

「研究の中止を判断するのは、誰ですか?」

「医師、錬金術師、工房の代表、それから利用者側の代表です」

エルナが答えた。

「全員の意見を記録し、重大な安全上の懸念があれば一時停止できる仕組みにします」

「利用者側?」

「施術を受ける人にとって、何が負担になるかを考えるためです」

リオが少し緊張しながら手を挙げた。

「私、専門家じゃないけど……」

一同の視線が集まる。

「難しい言葉ばかりだと、受ける人は断れないと思うんです」

リオは続けた。

「分からないまま『はい』って言わせるのは、ちゃんと選んでもらったことにならないです」

会議室が静かになった。

官吏がゆっくり頷いた。

「……その指摘は重要です」

役人は長い時間をかけて書類を読み直した。

そして、ようやく言った。

「無条件の譲渡は取り下げます。共同研究契約として、条項を再検討しましょう」

マリクは息を吐いた。

勝ったわけではない。

まだ署名もしていない。

だが、話は前に進んだ。

工房へ戻ると、カインが試作保存器を運んできた。

「これ、どうします?」

マリクはしばらく眺めた。

かつては、これが能力の未来を開く鍵だと思っていた。

今は違う。

「分解して、構造の記録だけ残そう」

「もったいなくないですか?」

「危ないものを完成品として置いておく方が、もったいない」

カインは頷いた。

リオが言った。

「じゃあ、古代の人が残した一番すごいものって、魔道具じゃないんだ」

「何だと思う?」

「……やめる勇気?」

マリクは笑った。

「それもあるな」

その夜、研究室の壁に一枚の紙が貼られた。

『できることを増やす前に、してはならないことを確かめよ』

マリクはその下に、自分の言葉を一行加えた。

『一人で決めず、必要な人と考える』

二つの文章は、不思議なほど自然に並んでいた。


翌朝、オルフェンは破損した装置の図面に封印の印を押した。

「再現実験は、原因を理解するまで認めん」

「異議なしです」

マリクは答えた。

百年前の警告を読んだ日に、同じ失敗を始めるわけにはいかなかった。

図面を封じたオルフェンは、研究帳を閉じる前にもう一度だけ確かめた。

「これで研究をやめるわけではない。危険な手順をやめるんじゃ」


翌日、エルナは研究院と工房で保管する報告書の表紙を揃えた。

「失敗した研究を、成功例より小さく扱わないようにしましょう」

「どうして?」

リオが尋ねる。

「成功例だけを読んだ人が、同じ危険な試験を始めるかもしれないからです」

マリクは頷いた。

「古代の研究者が最後に残したのは、誰かを止めるための記録だった」

オルフェンは机の上に封印した図面を置いた。

「わしらが次に作るのは、もっと強い装置ではない。まず、危険を見抜く手順じゃ」

「それなら、俺にも手伝えます」

カインが答えた。

リオは二人を見比べて笑った。

「みんな、やることが増えたね」

「そうだな。でも、急がなくていいことまで急ぐつもりはない」

マリクは台帳の最初の頁に署名した。

続いてオルフェンも名を記す。

「分からないことを、分からないまま使わないために」

その言葉を、二人の共通の約束にした。

エルナは新しい台帳を開いた。

表紙には『中止・保留した試験』と書かれていた。

成功したことだけを集めるのではない。

やらなかったことにも、理由を残す。

マリクはその台帳を、完成した成果の記録と同じ棚へ置いた。

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