第五十四話 封鎖された研究所の外で、俺のスキルに似た記録を見つけました
王都の北にある旧鉱山へ向かう朝、リオは荷車に毛布を三枚積み込んだ。
「一枚は私。一枚はマリク。もう一枚は?」
「予備だろ」
「違うよ。怖くなったときに二人でかぶる分」
「怖がる前提なのか」
「古い研究所だよ? 絶対に何か出るって!」
マリクは笑ったが、胸の奥には小さな緊張があった。
旧王立第七研究所。
古い台帳に残っていた『選択転位・生体脂質試験』という文字。
自分の脂肪転移が、そこにつながっているかもしれない。
ただし、今回は宝探しではない。
領主の許可を受けた外周調査であり、崩落の危険がある施設内部には入らない約束だった。
同行するのは錬金術師オルフェン、測定担当のダリオ、坑道の安全確認を請け負った調査隊長グレンとその部下二名。
工房からはマリクとリオ、それに記録係としてエルナが参加した。
「私は留守番でもよかったのでは?」
エルナが言う。
「契約の条件を覚えてるのはエルナだからな」
「覚えているだけではありません。違反があれば止めます」
「頼もしい」
「褒めても立ち入り許可は増えませんよ」
リオが吹き出した。
午前のうちに山裾へ着いた。
黒ずんだ岩壁の前に、古い石造りの建物が半分埋もれている。
扉は落石で塞がれ、壁には三つの輪を重ねた紋章が刻まれていた。
マリクは思わず足を止めた。
「……同じだ」
「台帳の印と一致するな」
オルフェンが指で輪郭をなぞった。
グレンが前へ出る。
「ここから先は、私の指示に従ってください。岩盤に亀裂があります」
「分かりました」
マリクは即答した。
「……もっと食い下がると思っていました」
グレンは少し意外そうだった。
「冒険者だったころなら、無理に入ったかもしれません」
「今は?」
「帰りを待ってる人がいますから」
「それに、危険を承知で踏み込んだ記録を持ち帰っても、工房の患者には胸を張って説明できません」
リオは一瞬黙り、照れ隠しのように荷車を押した。
調査は建物の外側から始まった。
鉱山から戻る途中、リオは何度も背後を振り返った。
「中へ入れば、もっと分かったかもしれないのに」
「そうだな。でも、入って誰かが怪我をしたら、発見した記録を読む人も減る」
グレンは安全縄を巻き直しながら頷いた。
「戻って報告できて、初めて調査は終わりです」
リオは振り返るのをやめ、足元の道を見た。
ダリオが測定器を設置し、オルフェンが壁面の刻印を写し取る。
マリクは手を触れずに観察した。
三つの輪の下に、消えかけた文章があった。
『転位元を確かめよ』
その隣。
『転位先を確かめよ』
最後の一行は土に埋もれている。
「掘りますか?」
リオが尋ねる。
グレンは壁を見た。
「壁の下は掘れません。支えを失う危険があります」
「じゃあ、見られない?」
「今は、な」
オルフェンが答えた。
「読めない記録を無理に読む必要はない」
そのとき、エルナが外壁の反対側で小さな石箱を見つけた。
建物から離れた場所に置かれ、周囲には崩落の跡がない。
グレンが安全を確認し、箱を調べた。
封印はすでに割れていた。
中にあったのは金貨でも魔道具でもない。
油紙に包まれた薄い金属板だった。
『第七研究所 公開安全記録』
エルナが読み上げた。
「公開、ですか?」
「保管台帳とは別に、事故を防ぐため配布した記録かもしれん」
オルフェンが慎重に紙へ写した。
金属板には、短い文章が並んでいた。
『生体組織の転位は、対象の識別を誤れば重大な障害を生む』
『一時保存器の試験は中断』
『人体での対象拡張を禁ず』
そして最後に。
『本術の基礎名は選択転位。
生体脂質への限定適用を脂質転位と呼ぶ』
マリクの喉が鳴った。
「……俺のスキルは、脂質転位」
「そう記されている」
オルフェンが答えた。
「ただし、今の能力と古い術が完全に同じかは、まだ分からん」
「分かってます」
マリクは頷いた。
「でも、名前があったんですね」
かつて冒険者ギルドで告げられた、ハズレスキルという判定。
使い道がないと笑われた、あの言葉。
その力と似たものを、昔の研究者たちは危険を承知で調べていた。
何も価値がない力ではなかった。
それだけで、胸の奥に沈んでいた石が少し軽くなった。
「マリク」
リオが呼んだ。
「嬉しい?」
「ああ」
「じゃあ、笑っていいんだよ」
「……そうだな」
マリクはようやく笑った。
午後、グレンが壁の亀裂の広がりを確認し、調査の終了を宣言した。
「これ以上は危険です。撤収します」
「まだ入口の向こうを見ていないのに?」
リオが惜しそうに言う。
「見ないで帰ることも、調査の仕事です」
グレンはきっぱり答えた。
その言葉を聞き、マリクは頷いた。
「帰りましょう」
荷車を引き始めたとき、オルフェンが金属板の裏面に気づいた。
薄い刻印が残っている。
『最終事故報告は王都記録庫へ移管』
「……事故報告?」
マリクは足を止めた。
「研究所が閉鎖された理由が、そこにあるかもしれん」
オルフェンは答えた。
「王都に戻って調べよう。ここで無理をする必要はない」
夕方、山道を下りながら、リオが尋ねた。
「結局、宝物はなかったね」
「そうだな」
「でも、マリクのスキルに名前があった」
「ああ」
「それって、宝物よりすごくない?」
マリクは金属板の写しを胸元にしまった。
「……そうかもしれない」
だが、名前が見つかっただけでは終われない。
なぜ研究が中断されたのか。
なぜ危険な記録が残されたのか。
そして、同じ過ちを繰り返さずに済むのか。
答えは、王都に戻った先に待っていた。
帰りの荷車では、エルナが写しを二部に分けて封筒へ入れていた。
「一部は王国の記録庫へ。もう一部は工房で保管します」
「同じものを二つ?」
リオが尋ねる。
「片方が失われても、内容を確かめられるようにです」
「古代の台帳みたいに、破れたら困るもんね」
「そういうことです」
マリクは封筒を見た。
研究所の人々も、何かを残そうとしたのだろう。
成功だけでなく、危険を知らせるために。
「俺たちの記録も、いつか誰かが読むのかな」
「読むかもしれません」
エルナが答えた。
「そのとき、何が確かで、何が推測だったのか、区別できるようにしておきましょう」
「……そうだな」
マリクは研究帳に一行書いた。
『同一性は未確認。
資料は安全記録として扱う』
発見した興奮に流されて、都合のいい結論へ飛びつかない。
それもまた、今の自分たちの仕事だった。
工房へ帰ったら、まず全員に今日のことを話そう。
危険だった場所も、見つけた記録も、分からなかったことも。
自分だけが秘密を抱えて強くなるより、その方がいい。
マリクは揺れる荷車の上で、山を振り返った。
古い建物はもう木々の向こうに隠れている。
それでも、あの場所に残された言葉は、確かに自分たちへ届いたのだった。
王都へ戻った翌日、グレンから正式な調査報告が届いた。
『施設内部への立ち入りなし。
外周の安全確認と記録の採取のみ』
その一行に、マリクは安堵した。
報告の末尾には、前日に外周で確認した警告板の文字も写し取られていた。
何を守ろうとして、研究所は閉ざされたのか。
答えはまだ分からない。
だからこそ、次に開くべきものは扉ではなく、当時の記録だ。
マリクは調査報告を封筒に戻し、王都記録庫へ照会する準備を始めた。




