第五十話 十年後の工房を見せてほしいと言われました
研究会から数日後、王宮の記録官が工房を訪れた。
施術の成果ではなく、工房が十年後にどうなっているかを尋ねたいという。
「十年後の工房ですか?」
マリクは思わず聞き返した。
目の前には、王宮から派遣された記録官が座っていた。
「はい。王国の産業記録に、将来の事業計画も残したいのです」
「そんな先のこと、分かりませんよ」
「予言を求めているわけではありません。何を目指しているのかを伺いたいのです」
記録官は真面目な顔で言った。
マリクは困ってリオを見た。
「十年後、何してると思う?」
「お昼ご飯を食べてる!」
「……十年後のその時間まで決まってるのか」
「ご飯は大事だからね」
記録官が思わず吹き出した。
エルナは咳払いして帳簿を開いた。
「現状から考えると、まず施術者が一人しかいない問題があります」
「そうだな」
「今のままでは、工房を増やしてもマリクさんの負担が増えるだけです」
「分身できればいいんだが」
「研究対象を増やさないでください」
エルナの即答に、リオが笑った。
記録官は筆を動かした。
「では、十年後も施術できる場所は一か所だけに?」
「そうとは限りません」
マリクは答えた。
「相談窓口や医師との連携は、別の町にも作れます」
「施術できなくても?」
「はい。施術しない方がいい人を、早く医師につなぐことにも意味があります」
記録官は目を上げた。
「珍しいお考えですな。普通なら店舗数や売上を目標にするものですが」
「売上も必要です。でも、無理に客を増やすと、事故が起きる」
マリクは窓の外を見た。
工房の前には、予約の案内板が立っている。
以前のような長蛇の列はない。
それでも、相談に訪れる人は絶えなかった。
「……見せたいものがあります」
マリクは記録官を施術室へ案内した。
壁には、新しい確認票が貼られていた。
『本人の意思を確認する』
『健康状態に疑問があれば施術を見送る』
『施術後の変化を記録する』
「十年後にも、これが残っていてほしい」
「技術ではなく、決まりを?」
「両方です」
マリクは頷いた。
「技術が進んでも、断っていい理由を失いたくないんです」
記録官はしばらく黙っていた。
「……それは、記録に残す価値がありますな」
「十年後、あなたがいなくなったら?」
記録官の質問に、マリクは返事を急がなかった。
施術が自分にしかできないのなら、工房の未来を自分一人の魔力で描いてはいけない。
「診察を受ける道筋と、断る自由と、記録の残し方を残したいです」
「それは魔術の事業計画ではありませんね」
「ええ。俺がいなくても困る人が減るなら、その方がいい」
リオが横で笑った。
「じゃあ私たち、師匠のいない日の練習からだね」
リオは十年後の図面に、大きな施術室を描きかけて手を止めた。
「マリクが休んでも、相談できる場所にしたいんだよね」
「ああ。俺の魔術がなくても、医師や職人につながれる場所がいい」
リオは施術室の隣に、同じ大きさの相談室を描いた。
十年後の工房には、今より多くの魔術が必要なのではない。
一人に頼りきらない仕組みが必要なのだ。
午後、工房では小さな騒動が起きていた。
「リオさん、相談票が足りません!」
カインが叫ぶ。
「昨日、追加したばかりなのに!」
ミアが棚を探した。
「こっちにもないよ!」
エルナは帳簿を閉じた。
「印刷所への注文数を見直しましょう」
マリクは苦笑した。
「十年後の話より、明日の紙が足りない方が問題だな」
「それが経営です」
エルナはきっぱり言った。
その日の夕方、領主が工房を訪れた。
セシリアも一緒だった。
「十年後の計画を聞かれたそうだな」
「もう伝わったんですか?」
「記録官が、感心していた」
領主は笑った。
「工房を王国一にしたいとは言わなかったらしいな」
「一番になったら、何かいいことがあるんですか?」
「名誉は得られる」
「名誉で施術室の寝台は修理できませんよ」
領主は声を上げて笑った。
セシリアが柔らかく口を開いた。
「でも、マリクさん。十年後に残したいものは、もう一つあるのでは?」
「何でしょう」
「ここで働く人たちです」
マリクは顔を上げた。
セシリアは続けた。
「技術が進んでも、皆さんが疲れ切っていたら、良い工房とは言えませんもの」
リオが勢いよく頷いた。
「そう! 休みも必要!」
「お前は毎日、昼寝の時間を増やそうとしてるだろ」
「研究のための休息!」
「何の研究だ」
また笑いが起きた。
夜、マリクは研究帳の最後に『十年後』と書いた。
最初に思いついたのは、広い建物だった。
次に、施術室がいくつも並ぶ光景。
だが、筆は止まった。
本当に残したいのは、それだろうか。
マリクは別の紙を取り出した。
『一人の能力に依存しない相談体制』
『施術を受けない自由』
『医師と連携した安全確認』
『働く者が無理をしない仕組み』
最後に一行、書き足した。
『役立たずと言われた人が、自分の役割を見つけられる場所』
書き終えたところへ、リオが温かい飲み物を持ってきた。
「何書いてるの?」
「十年後の計画」
「見せて!」
リオは紙を読み、最後の一行で手を止めた。
「……これ、私も入ってる?」
「もちろん」
「マリクも?」
「ああ」
リオは笑った。
「じゃあ、十年後も一緒に仕事してるんだね」
「そうなるといいな」
マリクは全員の考えを一枚の計画書にまとめた。
実現できなかった項目も隠さず残す。
十年後に責め合うためではなく、次の一歩を決めるためだ。
リオは十年後の工房の絵を描いた。
大きな建物の横に、小さな椅子が一つある。
「これ、何だ?」
「初めて相談に来た人が座る椅子。大きくなっても、なくしたくないから」
マリクはその絵を、計画書の表紙に挟んだ。
「十年後にも、この椅子を置こう」
マリクが言うと、リオは嬉しそうに頷いた。
翌日、記録官が清書した文書を持ってきた。
そこには、壮大な売上目標も、王国一の称号も書かれていなかった。
ただ、工房の理念と、これから解決すべき課題が記されていた。
「この記録は、十年後にも読み返されるでしょう」
記録官が言う。
「そのとき、何が実現しているか楽しみです」
マリクは文書を受け取った。
「十年後に笑われないよう、今日の仕事から始めます」
記録官が帰った後、エルナが新しい封筒を机に置いた。
「地方の診療所から、共同研究の参加希望が三か所届いています」
「あとで内容を確認しよう」
その日の夕方、ミアが工房の壁に貼った十年後の計画を眺めていた。
「わたし、十年後もここで働いているでしょうか」
「それはミアが決めることだよ」
マリクは答えた。
「でも、ここにいたいと思ってもらえる場所にはしたい」
ミアは少し驚いたあと、笑った。
「じゃあ、まずは明日の休憩室をきれいにします」
「十年後の話なのに、明日の掃除か?」
「明日が続かないと、十年後も来ませんから」
その答えに、マリクは一本取られた気がした。
計画書には、大きな目標だけでなく、毎日守る約束も必要だ。
休憩時間の確保、道具の点検、相談を断られた人への案内。
目立たない仕事ほど、なくなったときに困る。
ミアは絵の下に小さく書き足した。
『今日の片づけも、十年後につながっています』
マリクはその言葉の隣に記した。
『十年後に残したいことは、今日から始める』
マリクはエルナから預かった封筒を開いた。
三つの診療所が、それぞれ異なる相談を抱えていた。
十年後は、まだ遠い。
マリクは三つの診療所への返事に、同じ一文を添えた。
『まず半年、相談件数と医師への紹介結果を記録しましょう。
施術件数を増やすことは目標にしません』
十年先の理想を、半年先に確かめられる約束へ変える。
返事を書き終えたマリクは、翌朝の予約帳を開いた。
遠い未来を守る最初の仕事は、明日ここを訪れる一人の相談を丁寧に聞くことだった。




