第四十八話 施術記録が千件を超えたので、思い込みを一つ捨てました
工房の施術記録が千件に達する朝、エルナは分厚い帳面を抱えて研究室に入ってきた。
集計の結果を喜ぶ前に、確かめなければならないことがあった。
「千件です」
エルナの声に、マリクは手を止めた。
「何が?」
「工房で記録を残した施術の件数です。今朝の分で、ちょうど千件になりました」
リオが両手を上げた。
「千人もきれいにしたってこと!?」
「千件だ。同じ人が何度も来ているし、全員が美容目的でもない」
「そこは素直に喜んでよ!」
マリクは笑った。
「もちろん嬉しい。よくここまで続いたな」
エルナが机に三冊の帳面を並べた。
最初の帳面は、まだ二人で工房を回していた頃のものだ。
文字は揃っておらず、余白にはリオが描いた謎の猫までいる。
「これ、猫だったのか?」
「猫だよ! どう見ても!」
「四本足の芋かと思った」
「失礼な!」
笑い声が収まると、エルナは別の紙を広げた。
「千件になったので、施術後の聞き取り結果をまとめてみました。ただし、追跡できなかった方もいます」
「いいな。成功した話だけを数えないようにしよう」
マリクは椅子を寄せた。
満足した客の声はよく届く。
不満のある客は、二度と来ないこともある。
記録に残らない失敗こそ、見落としてはいけなかった。
「最初に見てほしいのは、こちらです」
エルナが示したのは、施術後に体の違和感を訴えた人の一覧だった。
「……思ったより多いな」
「大きな問題になった方は少ないですが、だるさや違和感を報告した方はいます」
「どのくらい移したか、並べてくれ」
リオが記録札を机に並べた。
移動量の多い施術には、訴えが集まっているようにも見えた。
「やっぱり、量が多いほど危ないんだ」
カインが言う。
「そうかもしれない。でも、待て」
マリクは一枚の札を取り上げた。
「この人は少量なのに、翌日まで違和感が続いている」
「本当だ」
「こっちは多めでも、特に変化なし……」
リオが眉を寄せた。
「じゃあ、量だけじゃない?」
「少なくとも、量だけで全部は説明できない」
マリクは帳面をめくった。
そのとき、施術時刻に目が留まった。
「……エルナ。この人たち、施術前に食事を取っていたか分かるか?」
「一部は記録しています」
「睡眠や体調も?」
「後から聞き取ったものなら」
千件目の記録を前に、リオは歓声を上げかけて止まった。
「これって、千人が元気になったって意味じゃないんだよね」
「そう。相談だけで終わった人もいるし、経過が分からない人もいる」
マリクは未確認の欄を指した。
「分からないままの結果を、都合よく成功に数えない」
リオは新しい集計表に『追跡できた件数』の欄を作った。
全員で札を分け直した。
結果は、きれいな答えにならなかった。
空腹でも平気だった人がいる。
食後でも疲れた人がいる。
体調が悪い日に施術を受けた人もいる。
「……つまり、分からないってこと?」
リオが尋ねた。
「今の記録だけでは、な」
マリクは頷いた。
「でも、分からないことが分かった」
「それ、前向きなの?」
「かなり」
マリクは最初の帳面を開いた。
「昔の俺は、少量なら安全だと思っていた」
「違ったの?」
「少量でも体調の変化はあり得る。だから、量だけで安心だと決めつけない」
エルナはすぐに新しい確認票を取り出した。
「施術当日の体調、食事、睡眠、以前の施術後の反応を確認項目に追加します」
「それと、異常があれば中止すること。施術後の連絡先も渡そう」
「承知しました」
昼過ぎ、ハロルドが工房を訪れた。
「千件ですか。立派な蓄積ですな」
「ただ、穴だらけの記録です」
マリクは表を見せた。
「これで安全だと証明できた、とは言えません」
ハロルドは目を細めた。
「その判断を聞けて安心しました」
「褒められることですか?」
「人は、数字が増えると自分の正しさまで証明された気になりがちです」
医師は一枚ずつ表を見た。
「まず、施術を受けなかった人の記録も必要でしょう」
「受けなかった人?」
「診察で見送った理由です。どんな状態の人に施術していないかが分からなければ、結果を比べられません」
マリクは思わず膝を打った。
「なるほど!」
「また、体重だけでは脂肪の位置は分かりません。測り方も揃えましょう」
「先生、手厳しいですね」
「研究相手には遠慮しません」
ハロルドは笑った。
その日の夕方、工房に年配の女性がやってきた。
以前、腰回りの脂肪を少し移した客だった。
「先生、前より服が着やすくなったよ」
「それはよかったです」
「でも、あのとき二日くらい、妙に疲れてね。言いそびれていたんだ」
マリクは表情を引き締めた。
「教えてくれてありがとうございます。今は大丈夫ですか?」
「ああ、元気だよ」
「記録に追加してもいいですか?」
「もちろん。ほかの人の役に立つなら」
女性が帰ると、リオがぽつりと言った。
「言いに来てくれてよかったね」
「ああ。黙っていたら、俺たちは成功例だと思い込んでいた」
マリクは千件目の記録に印をつけた。
記念の赤い丸ではない。
確認を続けるための、小さな黒い点だった。
翌朝、工房の壁に新しい案内が掲げられた。
『施術後の体調変化は、小さなことでもお知らせください』
『ご報告は、今後の安全確認に役立てます』
その後、エルナは古い記録の束を持ち出した。
「もう一つ、気になる点があります」
「何だ?」
「施術後の連絡がない方を、問題なしとして集計していました」
マリクは目を閉じた。
「……それは駄目だな」
「はい。連絡がないことと、問題がないことは違います」
リオが顔を上げた。
「じゃあ、どうする?」
「追跡できた人と、できなかった人を分けよう」
エルナはすぐに表を書き直した。
千件という数字は変わらない。
だが、そこから分かることは少なくなった。
「数字が減ったみたいで、ちょっと寂しいね」
「最初から持っていなかった確かさを、持っているふりしない方がいい」
マリクは答えた。
ミアが受付から戻ってきた。
「お客さんに、施術後の連絡をお願いしたら、嫌がられませんか?」
「嫌がる人もいるだろう。強制はしない」
「じゃあ、協力してくれる人だけ?」
「そうだ。ただし、協力しないからといって施術の扱いを変えない」
エルナはその言葉も確認票に加えた。
研究のために人を集めるのではない。
人のために研究するのだ。
マリクはその順番を忘れないよう、帳面の表紙に小さく書き込んだ。
「千件で事故が少なかった。だから安全だ、と書きたかったんです」
エルナは集計表の一行に横線を引いた。
「でも、来院しなくなった人のその後は分かりません。軽い症状の方ばかり選んでいた可能性もあります」
マリクは頷いた。
「分からない人を、問題がなかった人に数えるな」
リオが尋ねる。
「じゃあ千件って、すごくないの?」
「すごいよ。千回、記録を残した。でも千回分の記録が、千人の安心を証明するわけじゃない」
三人は『確認できない』という欄を、新しく作った。
エルナは千件の記録を、施術を受けた人だけの数字だと注記した。
「相談して施術しなかった人は含まれていません」
「それなら、全員に当てはまる結論にはできないな」
マリクは頷いた。
都合のいい数字ほど、何が抜けているかを確かめる必要がある。
それを読んだ客が、不思議そうに尋ねた。
「悪い話まで集めるんですか?」
マリクは答えた。
「はい。いい話だけ集めても、人は守れませんから」
客はしばらく考え、頷いた。
「……それなら、安心して相談できます」
その言葉を聞いて、マリクは初めて千件という数字を誇らしく思った。
千回成功した証ではない。
千回、人の体を預かったという重みだ。
その重みを、次の千件にも持っていこう。
そう決めたところへ、王都医療院から封書が届いた。
差出人はハロルド。
『第一回、脂肪転移共同研究会を開催したい』
招待状の末尾には、こう書かれていた。
『異論のある者も歓迎する』
マリクは苦笑した。
「……荒れそうだな」
リオは胸を張った。
「大丈夫! 質問されたら私も答える!」
「まず猫と芋の違いを説明できるようになってからな」
「まだ言う!?」
工房に、いつもの笑い声が響いた。




