第四十六話 王都の貴族が施術の順番を買おうとしてきました
「予約の順番を、一つ売ってくれないか」
男はそう言って、金貨を三枚並べた。
受付にいたエルナは、表情を変えなかった。
「申し訳ありません。予約順の売買は認めておりません」
「三枚で足りないなら、十枚にしよう」
「金額の問題ではありません」
男は上等な手袋を外した。
「私は伯爵家の執事だ。主人の予定を調整するのが、どれほど大変か分かるかね」
「ご事情は伺います。ただし、ほかのお客様の順番を譲っていただくことはできません」
そのやり取りを、奥で聞いていたマリクが顔を出した。
「どうしました?」
男はすぐに向き直った。
「あなたが術師か。
話が早い。
明日の午前に施術を入れてほしい」
「明日は予約で埋まっています」
「なら、一人ずらせばよい」
「ずらす理由がありません」
男は眉を上げた。
「伯爵家の依頼だぞ?」
マリクは頷いた。
「存じています。でも、先に予約した方にも予定があります」
「平民の予定と、伯爵の予定を同列に扱うのか」
マリクは少し考えた。
「予約帳には、爵位を書く欄がありませんから」
リオが後ろで吹き出した。
男の頬が赤くなる。
「……無礼な!」
「施術の安全を守るための制度です」
マリクは落ち着いて答えた。
「急ぎの医療上の相談なら、医療院に連絡します。それ以外なら、空いている日時をご案内します」
男は金貨を掴み、出ていった。
「……今の、怒ってたね」
リオが呟く。
「怒ってたな」
「嫌がらせされないかな」
「それが心配なんだよ」
エルナは帳簿を閉じた。
「念のため、やり取りを記録しておきます」
翌日、工房に一通の抗議文が届いた。
『伯爵家に対する不当な扱いについて、説明を求める』。
マリクはため息をついた。
「……やっぱり来たか」
エルナはすでに返信案を書いていた。
「事実だけを伝えます。予約が埋まっていたこと、金銭による順番変更を断ったこと、代替日を案内したこと」
「余計な言い争いはしないんだな」
「はい。相手の身分については評価しません」
「頼もしい」
貴族の使者は、予約票を見て眉をひそめた。
「金貨を積んでも動かせないのか」
エルナは声を荒らげずに答えた。
「順番は買えません。ただし体調が急変した場合は、施術ではなく医師をご案内します」
「主人が貴族でも?」
「はい。平民の方にも同じ説明をしています」
使者は返す言葉を失い、案内紙だけを受け取って帰った。
ところが、騒ぎはそこで終わらなかった。
昼過ぎ、一人の男性が受付に来た。
服はくたびれ、手には古い帽子を持っている。
「……予約を取り消したいんです」
エルナが顔を上げた。
「明後日の相談枠ですね。ご都合が悪くなりましたか?」
男性は視線を逸らした。
「その……別の方に譲ることになりまして」
マリクは違和感を覚えた。
「誰に?」
「……言わないと駄目ですか」
「無理に聞くつもりはありません。ただ、予約の売買は禁止しています」
男性の肩が震えた。
「……金貨を一枚、渡すって」
リオが息を呑んだ。
「誰が?」
「知らない男です。明後日の予約を譲ってくれれば、金貨をくれるって」
男性は帽子を握りしめた。
「娘の薬代が必要で……」
マリクは黙った。
単に規則を破ろうとしたのではない。
金が必要だった。
「予約を譲らなくても、相談はできます」
「でも、金貨一枚があれば……」
男性の声がかすれた。
「薬代を払えるんです」
エルナが静かに尋ねた。
「お嬢様は、医療院にかかっていますか?」
「はい」
「でしたら、医療院の相談窓口をご案内できます。薬代の支援が使えるか、確認しましょう」
男性は顔を上げた。
「……そんなものが?」
「必ず利用できるとは限りませんが、相談はできます」
マリクが続けた。
「予約は、あなたが必要ならそのまま残します。取り消すかどうかは、支援の話を聞いてから決めてもいい」
男性の目に涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
男性が帰ったあと、リオは腕を組んだ。
「ずるいよ。お金に困ってる人を狙うなんて」
「そうだな」
マリクは頷いた。
「順番を買う側だけじゃなく、売るしかないと思った側も苦しい」
エルナは予約帳を見た。
「予約枠を本人以外に譲渡できないことを、改めて明記しましょう」
「それと、困っている人が相談できる窓口も一緒に書こう」
「はい」
翌朝、掲示板が更新された。
『予約の売買・譲渡は禁止です』。
その下に、もう一行。
『費用や生活上の事情で困っている方は、受付へご相談ください』。
数日後、伯爵家の執事が再び現れた。
今度は金貨を出さなかった。
「……主人が、正式に予約を取りたいそうだ」
エルナは帳簿を開いた。
「ありがとうございます。最短では来月のこの日になります」
男は深いため息をついた。
「……ずいぶん先だな」
「はい。お待ちいただいております」
男はしばらく黙り、やがて頷いた。
「その日で頼む」
リオは驚いた顔をした。
男は帰り際、マリクに小さく頭を下げた。
「先日は失礼した」
「いえ。ご予約をお待ちしています」
男が去ると、リオが笑った。
「ちゃんと順番を守るんだね」
「守れる人もいる。
守れない人には説明する。
それだけだ」
その日の終業後、マリクは予約帳を手に取った。
小さな名前が並んでいる。
貴族も職人も、遠方から来た人もいる。
紙の上では、誰もが一つの枠を持っていた。
マリクは思った。
工房が大きくなるほど、守るべきものも増えていく。
能力の秘密だけではない。
一人ひとりが、安心して順番を待てるという約束もだ。
「……よし」
マリクは帳簿を閉じた。
その夜、エルナは一つの数字を報告した。
「予約を譲るよう持ちかけられたという相談が、ほかにも二件ありました」
「……一人だけじゃなかったのか」
「はい。いずれも同じ服装の男だったそうです」
マリクは眉をひそめた。
「証拠はあるか?」
「今は証言だけです。決めつけず、記録を残します」
「それがいい」
リオは不満そうだった。
「悪い人だって分かってるのに」
「気持ちは分かる。でも、誰がやったかはまだ分からない」
マリクは答えた。
「間違った相手を責めたら、同じことをする側になってしまう」
ミアが頷いた。
「今後は、予約票に本人確認用の印を押しましょう。番号だけ盗まれても使えないように」
「それならできるな」
エルナは早速、受付の手順を書き直した。
守るべき順番があるなら、それを守れる仕組みも必要だった。
リオが鍵を受け取り、入口の灯りを消した。
「順番って、ただ並ぶだけじゃないんだね」
「そうだな。待っている人が、明日もちゃんと来られるようにする約束だ」
「では、私が急病でも順番を守れと言うのか」
執事の声が鋭くなった。
「急病なら、ここで順番を争うより医療院です」
エルナは医療院の紹介票を差し出した。
「必要な診察を受けられるよう、お手伝いします」
男は金貨に目を落とした。
「……金で動かない受付とは、厄介だな」
「お金を払えない方にも、同じご案内をしています」
その答えを聞いた待合室の老人が、そっと肩の力を抜いた。
「じゃあ、守らなきゃ」
「ああ。みんなでな」
明日も、同じ順番で扉を開けよう。
翌朝、エルナは予約票に本人確認の印を追加した。
事情があって来られなくなった人には、再予約の手順も用意する。
「厳しくするだけでは、困る人が増えますから」
「そうだな」
マリクは頷いた。
公平さは、罰則だけでは守れない。




