第四十五話 王女様が工房で働きたいと言い始めました
王宮から届いた手紙を読んだマリクは、三度読み返した。
「……工房で働きたい?」
リオが身を乗り出した。
「誰が?」
「王女様」
「……ええっ!?」
エルナが手紙を受け取る。
封蝋には王家の紋章。
文面は丁寧だったが、希望ははっきりしていた。
『施術を受けるためではなく、工房の仕事を学ぶため、一日見習いとして参加したい』。
「……断れるのかな」
リオが小声で尋ねる。
「断る理由があれば断る」
マリクは答えた。
「でも、まずは本人の話を聞こう」
数日後、王女は護衛と侍女を伴って工房を訪れた。
以前、体型を変えたいのではなく、自分自身の言葉を聞いてほしいと語ったクラリス王女だった。
「マリク様。お願いがございます」
「手紙は読みました」
「では!」
「どうして働きたいんです?」
王女は一瞬、言葉に詰まった。
「……王宮では、何をするにも人が先回りしてくださいます」
「便利そうですね」
「便利です。でも、わたくしが何も知らなくても、一日が終わってしまうのです」
王女は手を握った。
「以前、こちらでお客様が自分の悩みを話している姿を見ました。わたくしは、誰かの話を最後まで聞くことすら、きちんとできていないと思ったのです」
マリクは頷いた。
「見学だけならできます」
「働きたいのです」
「働くとなると、決まりがありますよ」
「何でもいたします!」
リオが横から口を挟んだ。
「何でも、は危ないよ」
王女は目を丸くした。
「……そうなのですか?」
「できないことは、できないって言わないと」
マリクは思わず笑った。
「そのとおりだ」
エルナが条件を読み上げた。
「患者様の記録には触れないこと。施術室へは許可なく入らないこと。身分を使って予約順を変えないこと」
王女は真剣に頷いた。
「承知いたしました」
「それから、仕事中は特別扱いしません」
「はい!」
「失敗したら、直してもらいます」
「はい!」
リオが笑った。
「じゃあ、最初の仕事は掃除かな」
王女の顔が輝いた。
「お掃除! ぜひ!」
翌朝。
王女は地味な服に着替えて工房へ来た。
護衛は建物の外と控室で待機し、客の通行を妨げない配置にした。
「本日から見習いとしてお世話になります!」
深々と頭を下げる王女。
カインが困った顔をした。
「……こちらこそ」
リオが布巾を渡す。
「まず、待合室の机を拭いて」
「はい!」
王女は力いっぱい机をこすった。
「ちょっと待って!」
リオが慌てて止めた。
「そんなに力を入れなくてもいいよ。布巾はよく絞って」
「……絞る?」
「こう」
リオが実演する。
王女は真似したが、水が床に落ちた。
「あっ!」
「大丈夫。もう一回」
三度目で、ようやくうまくいった。
王女が拭いた机には、まだ水の筋が残っていた。
ミアは布を軽く絞り直して見せた。
「これなら、あとで書類が濡れません」
王女は自分の手元を見つめた。
「私は、きれいになった机しか見たことがありませんでした」
「私も最初はそうでしたよ」
ミアが笑った。
王女はもう一度布を持ち、今度は机の端まで丁寧に拭いた。
王女は嬉しそうに笑った。
「できました!」
「うん。じゃあ、次の机ね」
王女の笑顔が止まった。
「……まだあるのですか?」
「待合室には五つあるよ」
「五つ……!」
リオは声を立てて笑った。
午前中、王女は掃除と備品の整理を手伝った。
昼にはすっかり疲れ切っていた。
「働くとは、こんなに大変なのですね……」
「まだ半日だぞ」
マリクが言うと、王女は真顔になった。
「工房の皆様は、毎日これを?」
「毎日だな」
「……尊敬いたします」
「王宮では、これを誰が片づけていたのでしょう」
王女が尋ねた。
「いつも、決まった誰かが」
リオは答えた。
「その人にも名前があるんだよ」
王女は手を止めた。
「わたくしは、その名前を存じません」
「だったら、帰ったら聞いてみたら?」
王女は静かに頷いた。
午後は受付の補助だった。
ただし、患者の相談内容は聞かず、案内板の説明と番号札の受け渡しだけを担当する。
最初の客は、杖をついた老婦人だった。
「こちらでお待ちください」
王女は椅子を勧めた。
老婦人は笑った。
「ありがとう、お嬢さん」
王女は一瞬、固まった。
王宮では、誰も自分をただの『お嬢さん』とは呼ばない。
「……どういたしまして」
老婦人は何も知らず、席についた。
そのあとも、王女は何度も頭を下げた。
「こちらへどうぞ」
「お待たせいたしました」
「足元にお気をつけください」
初めはぎこちなかった声が、少しずつ自然になっていく。
だが、終業間際に問題が起きた。
王女の正体に気づいた貴族の夫人が、受付に近づいたのだ。
「まあ、殿下ではありませんか!」
王女の肩が跳ねた。
「本日は見習いとして……」
「でしたら、わたくしの予約を早めていただけませんこと?」
夫人は親しげに笑った。
「王宮の茶会でお会いした仲でしょう?」
王女は迷った。
断れば失礼になるかもしれない。
だが、ここでは順番を変えてはいけない。
「……申し訳ございません」
王女は深く頭を下げた。
「予約は、受付の決まりに従っていただきます」
夫人の笑顔が消えた。
「わたくしに、そのようなことを?」
王女は手を握りしめた。
「はい。わたくしも、今日は同じ決まりを守っております」
後ろで聞いていたリオが、小さく頷いた。
夫人は不満そうに去った。
王女はその場にしゃがみ込みそうになった。
「……怖かったです」
「よく言えたね」
リオが肩を叩いた。
「間違ってなかった?」
「うん。工房の約束を守った」
夕方、王女は王宮へ戻る前にマリクへ頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。助かりました」
「わたくし、まだ何もできませんでした」
「机を五つ拭いて、番号札を渡して、順番も守りましたよ」
王女は少し笑った。
「……五つの机が、こんなに遠いとは思いませんでした」
マリクも笑った。
「明日はもっと上手くできます」
「明日も来てよろしいのですか?」
「王宮の許可と、工房の都合が合えば」
王女は顔を輝かせた。
「ぜひ!」
帰りの馬車に乗る前、王女は一度だけ振り返った。
「リオさん」
「何?」
「今日は、わたくしに遠慮せず教えてくださって、ありがとうございました」
リオは首を傾げた。
「だって、机の拭き方を知らなかったでしょ?」
「……はい」
「知らないことは、教わればいいんだよ」
王女は目を細めた。
「王宮では、知らないことを隠してしまうことがあるのです」
「それじゃ、ずっと知らないままだよ」
王女は声を立てて笑った。
「本当に、そのとおりですね」
馬車が動き出す。
窓から手を振る王女に、リオも大きく手を振り返した。
マリクはその光景を見ていた。
その夜、王宮に戻った王女は、侍女が机を拭こうとするのを止めた。
「今日は、わたくしがいたします」
侍女は驚いた。
「殿下?」
「布巾は、よく絞るのですよ」
得意げな王女の手から、水が一滴落ちた。
「……もう少し練習が必要ですね」
侍女は笑いをこらえた。
王女はその一滴を拭き取り、満足そうに頷いた。
数日後、王女から短い礼状が届いた。
『あの日拭いた机の数より、いつも机を拭いてくれる人の数を初めて考えました』
マリクはそれを読み、そっと封筒へ戻した。
一日で世の中が変わるわけではない。
だが、見えなかった仕事に気づくことはできる。




