第四十三話 脂肪を増やせば病気が治ると思っていた医師が謝罪しました
「脂肪さえ増やせば、体力は戻るはずです」
王都医療院の会議室で、若い医師がそう言い切った。
マリクは顔を上げた。
「……本当に?」
「ええ。痩せている患者には脂肪が足りない。ならば補えばよいでしょう」
医師の名はレナード。
地方の診療所から研究会に参加したばかりだった。
「それは、少し違うと思います」
エレナが静かに口を挟んだ。
「食事を取れない原因が病気なら、脂肪だけ移しても原因は残ります」
「ですが、蓄えが増えれば……」
「増えた脂肪を体がどう利用するかも、十分には分かっていません」
マリクも頷いた。
「俺の術は、脂肪を動かすだけです。栄養を作り出すわけじゃありません」
レナードは納得しない顔だった。
「では、なぜあなたは医療院と共同研究を?」
「できることと、できないことを調べるためです」
会議室が静かになった。
研究が始まってから、マリクの名前は医療関係者にも広まっていた。
一部では、脂肪転移が衰弱した患者を救う万能の術だと噂されている。
それが気になっていた。
「実際に診察した少女の例があります」
エレナが記録を開いた。
「食事量が落ち、体重も減っていました。原因を調べたところ、胃腸の不調と食事への不安が重なっていました」
マリクは少女の顔を思い出した。
『わたし、元気になれる?』
そう尋ねた、小さな声。
彼は約束しなかった。
医師と相談し、食事と休養を整えることから始めた。
「少女には、脂肪転移を行っていません」
エレナが告げる。
レナードは目を見開いた。
「……行っていない?」
「はい。今は食事が少しずつ取れるようになり、体調も改善しています」
「それでは、術の効果を証明できないではありませんか」
「必要のない施術をしないことも、大切な結果です」
ハロルドの声が会議室に響いた。
「研究のために患者を危険にさらしてはならん」
レナードは黙り込んだ。
その日の午後、医療院の受付に騒ぎが起きた。
「先生! お願いします!」
若い父親が子どもを抱えて駆け込んできた。
子どもはぐったりしている。
「息子が昨日からほとんど食べなくて……!」
レナードは謝罪の後、診察室の古い説明板を外した。
『脂肪を増やせば健康になる』という、かつて自分が書いた言葉だった。
「患者に間違った期待を持たせました」
エレナは新しい紙を渡した。
「今度は、食事と診察の必要性を先に書きましょう」
レナードは筆を取り、誰に読まれても誤解されない言葉を選び直した。
レナードが真っ先に駆け寄った。
「痩せていますね。脂肪転移術師を呼びましょう」
マリクは立ち止まった。
「先に診察を」
「ですが、急いで体力を……」
「原因が分からないまま施術できません」
ハロルドが子どもの様子を確認した。
「熱が高い。まず診察室へ」
医師たちが動き出した。
水分が取れているか、いつから熱があるか、意識ははっきりしているか。
父親から話を聞き、必要な処置を始める。
マリクにできることはなかった。
それが悔しかった。
だが、何かをするためだけに術を使うわけにはいかない。
「……俺、邪魔なら外に出ます」
「いや、ここで待っていてくれ」
ハロルドが答えた。
「君の判断は正しかった。必要なのは施術ではなく診察だ」
しばらくして、子どもの容体は落ち着いた。
医師は原因を調べ、治療方針を立てた。
父親は椅子に座り込み、顔を覆った。
「……助かったんですね」
「まだ経過を見る必要がありますが、今は落ち着いています」
エレナが答えた。
その様子を見ていたレナードは、廊下でマリクを呼び止めた。
「……先ほどは、すみませんでした」
「何がです?」
「あなたの術があれば、何でも解決できると思っていました」
レナードは視線を落とした。
「便利な力が目の前にあると、使うことばかり考えてしまう」
マリクは苦笑した。
「俺も同じです」
「……え?」
「助けたい相手がいると、何かしたくなる。でも、俺にできないことの方が多い」
レナードは黙った。
「だから、医師の力が必要なんです」
マリクが続けると、レナードは深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「謝る相手は俺じゃないでしょう」
レナードは顔を上げた。
「患者に、根拠のない期待を抱かせないことです」
「……はい」
翌週、研究会に新しい説明書が配られた。
『脂肪転移でできること』『できないこと』『分かっていないこと』。
三つの見出しだけは、誰が読んでも理解できる言葉にした。
レナードはその文案づくりに参加した。
「この部分、もっと強く書きませんか」
彼は紙を指した。
『痩せていること自体を病気と決めつけない』。
「いいですね」
エレナが頷いた。
マリクは少し笑った。
「医師の方が、説明は上手いな」
「あなたに教わりました」
レナードは照れくさそうに答えた。
夕方、少女と母親が医療院に来た。
経過を確かめるための診察だった。
少女は前よりも顔色がよく、小さな布袋を抱えていた。
「お兄ちゃん!」
マリクに気づき、駆け寄ってくる。
「今日は歩いて来られたのか?」
「うん。途中で休んだけど」
「それはよかった」
少女は布袋から小さな焼き菓子を取り出した。
「お母さんと作ったの。あげる」
「……俺に?」
「うん。お兄ちゃん、魔法を使わなかったでしょ」
マリクは言葉を失った。
「でも、お医者さんを呼んでくれたから」
少女は笑った。
「ありがとう」
マリクは菓子を受け取った。
「……こちらこそ」
その日の夜、工房でリオに話すと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「よかったじゃん!」
「ああ」
「マリク、何もしてないわけじゃなかったね」
「そうだな」
マリクは研究帳に書き込んだ。
『術を使わない判断も、術師の仕事』。
その一文を見たエルナが頷く。
「工房の規則にも加えましょう」
「頼む」
マリクは窓の外を見た。
魔術の可能性が広がるほど、使わない勇気も必要になる。
翌日、レナードは研究会の冒頭で自ら発言した。
「昨日までの私は、脂肪が少ない患者には転移を勧めるべきだと考えていました」
参加者たちが顔を上げた。
「その考えを改めます。施術を選ばない理由も、記録に残すべきです」
ハロルドは頷いた。
「よろしい。では、紹介票の様式も変えよう」
マリクは紙の余白に一行を足した。
『今回、施術しないと判断した理由』。
結果が出なかった研究も、次に同じ間違いをしないための資料になる。
レナードはそれを見て言った。
レナードは少女の母親に、深く頭を下げた。
「私が先に答えを決めてしまいました。必要な食事と診察を、後回しにしかけたんです」
母親はしばらく黙っていた。
「先生。謝るより、次の子には間違えないでください」
「……はい」
レナードは顔を上げた。
その返事を聞いて、マリクは胸の奥が少し軽くなった。
間違いを認めることは、魔術の敗北ではない。
患者を守るための、医療の一歩だった。
「魔術を使わなかった日も、無駄ではないんですね」
「ええ」
マリクは笑った。
「俺にとっては、そういう日の方が勉強になります」
診察の後、レナードは少女の経過記録を見直し、脂肪転移の欄に『実施なし』と記した。
「よくなった理由を、都合よく魔術のおかげにしてはいけませんね」
エレナが頷く。
「ええ。本人と家族の努力も、治療も、正しく見なければ」
レナードは『実施なし』の文字を指でなぞり、記録帳を閉じた。
誰かを救ったことにしたい誘惑より、何が実際に役立ったかを見極める責任の方が重い。
そのことを、マリクも改めて胸に刻んだ。




