第四十二話 金貨がなくても施術を受けられる制度を作りました
王都医療院との共同研究が始まって一週間。
マリクの机には、施術の予約帳とは別に、新しい帳簿が積まれていた。
「……この数字、間違ってないか?」
「間違っていません」
エルナは即答した。
「医療院から紹介された方のうち、施術費用を払えないと回答した方が十二名です」
「十二人も?」
「診察代や薬代を優先すると、こちらに回すお金がないそうです」
リオが帳簿を覗いた。
「病気の人ほど、お金がないんだね」
「働けない期間が長い人もいるからな」
マリクは鉛筆を置いた。
「じゃあ、料金を取らなければいい」
エルナは首を横に振った。
「一人ならできます。でも、何十人、何百人となったら?」
「……俺の時間にも限りがある」
「無料にすれば、必要性の低い依頼まで集まります。優先順位を決める人も必要です」
正論だった。
マリクはかつて、金がなくて仕事もなく、空腹のまま王都を歩いた。
助けを求めること自体が恥ずかしいと思った夜もある。
だからこそ、金のない人を入口で追い返したくなかった。
「料金をゼロにするんじゃなく、払えない人の分を誰かが負担する仕組みは?」
エルナの目が動いた。
「施術費補助ですか」
「そう。
工房の利益から一定額を出す。
医療院にも相談する」
「それなら帳簿を分けられます」
リオが勢いよく手を挙げた。
「私も寄付する!」
「リオの給金まで出さなくていい」
「じゃあ、おやつ代の半分!」
「そこは本気で悩むんだな」
三人は笑った。
だが、制度を作るのは笑い話では済まなかった。
翌日、ハロルドとエレナが工房を訪れた。
「無料施術の枠を設けたい?」
ハロルドは慎重な顔をした。
「気持ちはありがたい。ただし、医療行為と混同させてはいけません」
「分かっています。脂肪転移で病気が治るとは宣伝しません」
「医師が診察し、適応を検討する。
本人が説明を受け、断ることもできる。
それが条件です」
エレナが付け加えた。
「補助を受けるために、体の状態を人前で説明させるのも避けましょう」
「……確かに」
支援枠に入れなかった男性が、受付でうつむいた。
「来月まで待てと言われても、仕事を休めません」
エルナは空いている相談日と、医師への紹介先を紙に書いた。
「施術の約束はできませんが、相談まで待っていただく必要はありません」
男性は紙を受け取り、何度も礼を言った。
限られた資金の中でも、何も案内せず帰すことだけは避けたかった。
マリクは思い当たった。
貧しさを証明するために、恥をかかされる制度では意味がない。
エルナが紙に項目を書き始めた。
『医療院による紹介』『本人の同意』『施術の必要性』『費用負担の確認』『記録の非公開』。
「名前はどうします?」
「金欠救済制度?」
リオの案に、エルナが苦笑する。
「もう少し穏やかな名称にしましょう」
結局、『工房施術支援枠』と決まった。
最初の対象者は、仕立て職人の女性だった。
以前、けがの後に体型が変わり、衣服を着ると患部の周囲が擦れて困っているという。
医師は傷が治っていることを確認していたが、施術の有効性はまだ分からない。
「治る保証はありません」
マリクが説明すると、女性は頷いた。
「はい。それでも、試せる方法があるなら相談したかったんです」
「途中でやめても構いません。費用は支援枠から出ます」
女性は戸惑った。
「……私、そんなお金を払えません」
「払わなくていいんです」
「でも、知らない方のお金でしょう?」
マリクは少し考えた。
「今まで施術を受けた人たちが払ってくれたお金の一部です。俺たちも働いて、その中から出します」
女性は唇を噛んだ。
「……いつか、返せるでしょうか」
「返す必要はありません」
「それじゃ、申し訳なくて」
「もし誰かが困っていたら、できる範囲で手を貸してください。それで十分です」
女性は目を伏せ、何度も頷いた。
施術は少量の脂肪を移すだけにとどめた。
痛みや動きやすさが改善するかは、後日確認する。
その日は、結果を急がなかった。
数日後、女性から手紙が届いた。
『仕事着が以前より擦れにくくなりました。
まだ長時間は働けませんが、少し希望が持てました』
マリクは手紙を読み、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
「一件目は順調ですね」
エルナが言った。
「でも、これだけで成功とは言えないな」
「はい。経過観察は続けます」
その日の午後、思わぬ客が現れた。
領主の使者だった。
「支援制度の話を耳にしました。領主様から、こちらを預かっています」
机に置かれたのは、封のされた小箱。
中には金貨が入っていた。
「……こんなに?」
「領主様は、これを最初の寄付とお考えです」
使者は続けた。
「ただし、寄付を理由に施術の順番を優遇しないでほしい、と」
マリクは思わず笑った。
「分かってる人だな」
エルナはすぐに寄付台帳を用意した。
受け取った金額、支出先、残高。
ただし、患者の名前は公開しない。
使途だけをまとめ、後援者には報告する。
「これなら不正も防げます」
「よし。始めよう」
夕方、工房の掲示板に新しい案内が貼られた。
『費用の事情で施術相談を諦めている方へ。
医療院と連携した支援枠があります。
詳しくは受付まで』
翌朝、最初に掲示板を見たのは、年配の男性だった。
長いこと文字を眺めていた男は、受付へ来て尋ねた。
「……本当に、金がなくても相談できるのかね」
エルナは頷いた。
「はい。まずはお話を伺います」
男は帽子を胸に抱えた。
「……それなら、妻のことを聞いてもらいたい」
マリクは奥からその声を聞いていた。
金貨を積み上げることより、ずっと難しい仕事が始まった。
誰を助けられるのか。
何を助けられないのか。
その境界を曖昧にせず、それでも扉を閉ざさない。
マリクは新しい帳簿の表紙に、自分で一行書き加えた。
『支援とは、施術を約束することではない。
必要な相談を受けられるようにすること』。
リオが横から覗いた。
「なんだか難しいね」
「そうだな」
「でも、いい言葉だと思う」
マリクは笑った。
「じゃあ、今日は受付を手伝ってくれ」
「任せて!」
工房の扉が開く。
その日の閉店後、エルナは支援枠の収支をもう一度確認した。
「一つだけ、決めておきたいことがあります」
「何だ?」
「寄付が尽きた場合の対応です。約束した施術を途中で取り消すことになれば、信頼を失います」
マリクは頷いた。
「先の予約まで無理に埋めない。毎月、使える額を確定してから受け付けよう」
「それなら続けられます」
リオは少し考えた。
「お金が足りなくなったら、私たちの給金を減らすの?」
「それはしない」
マリクははっきり答えた。
「誰かを助けるために、ここで働く人を困らせたくない」
エルナが小さく笑った。
「では、寄付は寄付、工房の経費は経費。混ぜずに管理します」
マリクは新しい帳簿を二冊並べた。
「今日、払えない人を断ったら、もう来てくれないかもしれない」
リオの声は小さかった。
「そうだな」
マリクは帳簿を閉じた。
「だから断り方まで、俺たちの仕事だ。医療院の相談窓口につなぐ。緊急性は医師に確かめてもらう。支援枠が空いたら、こちらから知らせる」
「……待っている間も、一人にしないんだね」
「金貨がないからって、相談する権利までなくなるわけじゃない」
エルナは新しい欄を引いた。
『施術できなかった人への案内先』。
その欄を空白にしないことも、制度の約束になった。
助けたい気持ちだけでは制度は続かない。
続けるための計算もまた、誰かを助ける仕事なのだ。
そこには、金貨を持たない人にも座れる椅子が、一つ増えていた。
一か月後。
初月の支援枠は、予定した人数に達したところで締め切った。
リオは残念そうだったが、エルナは説明した。
「今月で資金を使い切れば、来月困る人を助けられません」
「……続けるために、待ってもらうんだね」
マリクは頷いた。




