第四十一話 王国の病院から正式な依頼が届きました
「マリクさん。王都の病院から書状です」
エルナが差し出した封筒には、医療院の紋章が押されていた。
マリクは封を切った。
『脂肪転移術師マリク殿』
『これまでの施術記録と共同調査の結果を踏まえ、正式な研究協力をお願いしたい』
依頼状には研究費の額より先に、患者の同意を得ること、診療と研究を切り離すことが記されていた。
マリクはその順番を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
差出人は、ハロルドが所属する王都医療院の院長だった。
「……病院から正式に?」
リオが目を輝かせた。
「ああ。今度は個人の相談じゃないらしい」
「すごいじゃん!」
「まだ何を頼まれるか分からないけどな」
マリクは書状を読み進めた。
研究対象は、脂肪転移の施術前後に起こる変化。
安全な適用範囲。
施術を避けるべき状態。
そして、医師と術師の役割分担。
最後には、こう書かれていた。
『患者の治療を魔術だけに委ねないことを、協力の前提とする』
マリクは思わず笑った。
「……ハロルド先生らしいな」
翌日、マリクはリオとエルナを連れて医療院を訪れた。
院長室には、ハロルドとエレナ、そして院長が待っていた。
院長は白髪の落ち着いた男性だった。
「ようこそ。噂の脂肪転移術師に会えて光栄です」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
マリクは頭を下げた。
「早速ですが、お願いがあります」
院長は机の上に数冊の記録を並べた。
「医療院には、さまざまな事情で体の状態が変わった患者が来ます」
「はい」
「その中には、あなたの能力が役立つ可能性のある人もいるでしょう」
マリクは頷いた。
「ただ、俺は病気を治せません」
「承知しています」
院長は即答した。
「だからこそ、医師と一緒に調べたいのです」
エレナが続けた。
「例えば、体の一部に脂肪が偏っていることで、衣服や装具が合わず困っている人がいます」
「なるほど」
「ですが、病気による腫れや、脂肪ではない組織の変化を見誤れば危険です」
「確かに」
「そこで、診察で原因を確認したうえで、本人が希望する場合に限り、相談をお願いしたいのです」
マリクは少し考えた。
「医師が判断して、俺ができる範囲を説明する。そういう形ですか?」
「その通りです」
説明書を読み終えた患者は、署名欄の前で手を止めた。
「今日は決められません」
ハロルドは紙を引き寄せず、頷いた。
「では、次の診察でまたお話ししましょう」
患者が退出した後、リオは空白の署名欄を見た。
「断られても、ちゃんと診てもらえるんですね」
「それを守れなければ、共同研究とは呼べないよ」とマリクは答えた。
ハロルドが頷いた。
「そして、施術しないという選択肢も常に残します」
マリクは静かに笑った。
「それなら、協力できます」
エルナが手を挙げた。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
院長が頷く。
「どうぞ」
「患者様の記録は、どちらが管理しますか?」
「医療情報は医療院で管理します」
「工房には、施術の実施日と必要最小限の情報だけを残す形でよろしいでしょうか」
「ええ。それがよいでしょう」
「費用負担についても、事前に決めたいです」
院長は感心したようにエルナを見た。
「実務をよく考えておられますな」
「工房を守るのが仕事ですから」
エルナは微笑んだ。
会議の後、ハロルドが病棟を案内してくれた。
廊下には、松葉杖をついた人や、家族に付き添われた患者がいた。
リオは声を落とした。
「……こんなにたくさん、具合の悪い人がいるんだね」
「ああ」
マリクも静かに答えた。
そのとき、一人の少女が廊下の椅子に座っているのが見えた。
以前、母親に連れられて工房を訪れた、痩せた少女だった。
「……あ!」
少女がマリクを見つけた。
「お兄ちゃん!」
「元気そうだな」
マリクは膝を折った。
少女は小さく頷いた。
「前より、ごはんが食べられるようになったの」
「それはよかった」
母親が深く頭を下げた。
「エレナ先生に診ていただいて、少しずつ食事の取り方を変えているんです」
「そうでしたか」
「まだ時間はかかるそうですが、家でも笑うようになりました」
マリクは胸が温かくなった。
あの日、自分は少女に脂肪を移さなかった。
できないことを、できるとは言わなかった。
その判断が、今の笑顔につながっている。
「ねえ、お兄ちゃん」
少女が尋ねた。
「魔法、まだ使ってないよね?」
「ああ」
「じゃあ、わたし、魔法なしで元気になるの?」
マリクは笑った。
「今は、お医者さんと一緒に元気になる途中だよ」
少女は嬉しそうに頷いた。
「うん!」
病棟を出た後、リオが言った。
「……マリク、嬉しそうだったね」
「そりゃあな」
「魔法を使わなくても、役に立てるんだね」
マリクは少し考えた。
「……そうだな」
それは、冒険者時代には想像もしなかったことだった。
役立たずと言われた自分が、今は能力を使わない判断によって誰かを助けている。
午後、院長室に戻ると、正式な協力契約が用意されていた。
エルナが一項目ずつ確認する。
「研究への参加は、患者様の同意がある場合のみ」
「はい」
「工房の通常業務を妨げない範囲で、日程を調整」
「もちろんです」
「危険が疑われる場合、マリクさんの判断で施術を中止できる」
院長は力強く頷いた。
説明を受けた患者の一人が、用紙を握りしめた。
「断ったら、先生たちをがっかりさせますか」ハロルドは即座に首を振った。
「いいえ。断ることも、あなたの大切な判断です。診療はこれまでどおり続けます」マリクはそこで初めて、同意書の意味が腹に落ちた。
署名を集めるための紙ではない。
断っても居場所がなくならないと、患者に伝えるための約束なのだ。
「その権限は必要です」
マリクは署名した。
こうして、工房と王都医療院の共同研究が正式に始まった。
帰り道、リオが尋ねた。
「ねえ、これでマリクはお医者さんになるの?」
「ならないよ」
「じゃあ、何になるの?」
マリクは少し考えた。
「……今までどおり、脂肪転移術師かな」
「えー、もっと格好いい名前ないの?」
「別に名前は何でもいいだろ」
リオは不満そうに頬を膨らませた。
工房に戻ると、オルフェンから手紙が届いていた。
『旧王立第七研究所に関する閲覧許可を申請した。
結果が出るまで現地へ向かうな』
マリクは手紙を畳んだ。
医療院との研究が始まった。
古代錬金術の謎も、少しずつ近づいている。
だが、焦る必要はない。
今、目の前にある仕事を、一つずつ進めればいい。
リオが受付から呼んだ。
「マリク! 明日の予約、確認して!」
「ああ、今行く!」
マリクは研究帳を閉じ、立ち上がった。
ハズレスキルと呼ばれた力は、まだ世界を変えてはいない。
けれど、誰かの明日を少しだけ良くすることなら、もう始められていた。
契約書の控えを受け取ったエルナは、帰りの馬車で最後まで読み返していた。
「まだ何か問題があるのか?」
マリクが尋ねる。
「いえ。
条件は整っています。
ただ、研究に参加する患者様への説明文を、もっと分かりやすくしたいんです」
「難しい言葉が多かったか?」
「はい。
『選択的組織移送』などと言われても、初めて聞く方には伝わりません」
リオが笑った。
「私にも分からない!」
「俺にも、すぐには分からないな」
エルナは帳簿の余白に書いた。
『何をするか。
何が分からないか。
途中でやめられるか』
「この三つを、必ず説明したいです」
マリクは頷いた。
「それなら、俺も安心して協力できる」
リオは文字を指で追った。
「難しい研究ほど、簡単に説明しないといけないんだね」
「そういうことだ」
打ち合わせの終わりに、ハロルドは一枚の説明用紙を差し出した。
そこには、施術を受けなくても診療を続けられることが明記されていた。
「断った人が、病院に来づらくなるのは避けたいのです」
マリクは深く頷いた。
その配慮こそ、共同研究の土台だと思った。




