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脂肪転移の魔術師 完全なハズレスキルが最強の錬金術スキルでした  作者: レモンティー


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第四十話 ハズレスキルの研究で、王国の常識が崩れ始めました

王立錬金術研究院の地下書庫は、ひんやりとしていた。

棚には古びた写本が並び、壁の魔石灯が淡い光を放っている。

「来たか、マリク」

オルフェンは大きな机の前に立っていた。

その上には、古代写本と、何枚もの図面が広げられている。

「最後のページが見つかったんですか?」

マリクは机上の図面に手を伸ばしかけ、指を止めた。

未知の術式を前にすると、何でもできるような気がしてしまう。

だが、いま彼にできるのは脂肪を移すことだけだ。

その境界を忘れないよう、手を引っ込めた。

「いや。見つかったのは、破られた理由を考える手がかりだ」

「……理由?」

オルフェンは一冊の薄い帳面を差し出した。

『対象の選別に関する研究記録』

マリクは題名を読んだ。

「選別……」

「選択転位の研究者が残した別の記録だ。破れた写本と、同じ研究室の蔵書にあった」

リオが身を乗り出す。

「何が書いてあるの?」

「まず、これを見ろ」

オルフェンが指したのは、二つの器の絵だった。

一方には油。

もう一方には水。

その間を、細い線がつないでいる。

「古代の研究者は、混ざったものの中から特定の成分だけを選ぼうとしていたらしい」

マリクは首を傾げた。

「油と水なら、放っておけば分かれるんじゃ?」

「その通りだ。だが、彼らが試したのは、容器を傾けずに一方だけを移すことだ」

「……なるほど」

「ここには『識別』『保持』『移送』という三つの工程が書かれている」

マリクは目を見開いた。

「俺が脂肪を移すときの感覚に似ています」

オルフェンが頷いた。

「やはりな」

リオが尋ねた。

「じゃあ、マリクも水を移せるの?」

「今は無理だ」

マリクは答えた。

「以前、別の試料でも試したが動かなかった。水を移せるという根拠はない」

「それでよい」

オルフェンが言った。

「分からぬ力を、人間相手に試すなど論外だからな」

研究院の別室には、試作一号の魔道具が置かれていた。

脂肪を一時保存するために作られた器だ。

ただし、前回成功したのは、魔力で作った模擬的な対象を短時間保持するところまで。

人体から取り出した脂肪を保存できたわけではない。

「今日は何をするんです?」

オルフェンは研究室の扉に新しい札を掛けた。

『仮説は成果ではない』。

「少し厳しすぎませんか」とリオが笑う。

「噂は実験結果より速く走る。止める言葉が要るんじゃ」

マリクはその札の下に、小さく書き添えた。

『人に試す前に、安全を確かめる』。

研究室の外で待つ患者たちに、間違った希望を売らないためだった。

マリクが尋ねる。

「術式の識別部分だけを観察する。対象は水と油だ」

「俺の術では選べませんよ」

「選べなくてよい。反応するかを見たい」

オルフェンは透明な器を二つ用意した。

一つには水だけ。

もう一つには、水の上に油が浮いている。

「魔力を流す前に、対象を意識してみろ」

マリクは器に手を近づけた。

脂肪を移すときのように集中する。

だが、何も感じなかった。

「……駄目です」

「では、脂肪を意識するときは何が違う?」

「体の中で、そこにあると分かる感じです」

「視覚ではないのか?」

「はい。目を閉じていても分かります」

オルフェンは記録帳に書いた。

「対象を識別する感覚が、術の鍵かもしれんな」

その後も、いくつかの器で試した。

水。

油。

蝋。

どれも動かなかった。

リオは少し残念そうだった。

「全部失敗?」

「いや」

オルフェンは首を振った。

「動かなかったことも結果だ。何にでも作用する術ではないと確認できた」

マリクも頷いた。

「そうですね」

昼休み、研究院の食堂で三人は簡単な食事を取った。

リオがパンをちぎりながら尋ねる。

「じゃあ、何で脂肪だけは分かるんだろう?」

マリクは答えられなかった。

オルフェンは少し考えた。

「生まれつきの適性か、あるいは術式が最初から脂肪に限って組まれているのか」

「どっちなんです?」

「まだ分からん」

「先生でも?」

「先生だからこそ、分からんことは分からんと言う」

リオは笑った。

「マリクと同じだね」


午後、古代写本の解読が進んだ。

破られたページの直前には、不自然に短い文章が残っていた。

『保持に成功した後、対象の所在を確認せよ』

『失われたように見えるものも、消えたとは限らない』

マリクは眉をひそめた。

「……どういう意味でしょう」

オルフェンが答える。

「移したつもりの物質が、どこか別の場所へ行ってしまう危険を示しているのかもしれん」

「それは……怖いですね」

「ああ。だから保持領域を調べている」

マリクは試作魔道具を見た。

もし対象を移したのに、戻せなくなったら。

それは単なる実験の失敗では済まない。

「……人体では試しません」

「当然だ」

オルフェンは頷いた。

「まずは対象の行き先を確実に確認できる方法を作る」

そのとき、研究員が駆け込んできた。

「先生! 書庫の管理台帳が見つかりました!」

オルフェンが顔を上げた。

「何?」

「破れた写本が研究院へ収蔵されたときの記録です!」

三人は急いで書庫へ戻った。

台帳には、写本の受け入れ日と、当時の状態が記されていた。

『最終葉欠損。

収蔵時すでに欠落』

台帳を調べる途中、リオが写本の余白に異なる筆跡の注意書きを見つけた。

『識別を誤れば、移してはならぬものを動かす』

マリクは背筋が冷たくなった。

「成功の記録より、こちらを先に調べたいです」

「力の大きさより、誤りの境界を知りたいのじゃな」

オルフェンは頷いた。

「患者を前にしてから、知らなかったでは済みませんから」

リオは警告を書き写し、写本を元の位置に戻した。

「……つまり、研究院に来る前から破れていた?」

マリクが尋ねる。

「そういうことだ」

オルフェンは台帳をめくった。

さらに、前の所有者の欄があった。

『旧王立第七研究所』

「第七研究所?」

リオが尋ねた。

オルフェンの顔が険しくなった。

「古い王国史に名が出る施設だ。百年以上前に閉鎖されたとされている」

「何を研究していたんです?」

「記録が少ない。だが、物質の移送に関する研究を行っていたという説がある」

マリクは写本を見つめた。

最後のページは、研究院で盗まれたわけではなかった。

さらに古い時代に、失われていた。

「……その研究所は、今もあるんですか?」

オルフェンは首を振った。

「建物は廃墟になったと聞く。所在は王国の古地図に残っているはずだ」

リオの目が輝いた。

「遺跡探検!?」

「まだ行くとは言ってないぞ」

マリクが答える。

オルフェンも頷いた。

「まず、記録を集める。勝手に立ち入ることもできん」

夕方、工房へ戻ったマリクは、研究帳に三つの言葉を書いた。

識別。

保持。

移送。

その下に、もう一つ書き加えた。

『安全に戻せると確認できるまで、人体への新しい試験は行わない』

これがなければ、どれほど強い能力でも使えない。

リオが隣から覗き込む。

「ねえ、マリク」

「何だ?」

「ハズレスキルって、変な名前だよね」

「そうだな」

「まだ誰も全部を知らないのに、外れって決めちゃったんだから」

マリクは笑った。

「本当にな」


翌朝、研究院から古地図の写しが届いた。

そこには、王都の北にある山地の一角が赤く囲まれていた。

『旧王立第七研究所跡』

その下には、小さな注意書きがあった。

『立入禁止。

封鎖理由、記録なし』

マリクは紙を持ったまま、しばらく動かなかった。

失われた研究が、なぜ封鎖されたのか。

答えを知るには、まだ多くの準備が必要だった。

マリクは地図の写しを机に置き、前日に確認した研究上の注意を思い返した。

『選択転位という古代術式との同一性は未確認。

脂肪以外の物質を移せた事実はない』

あの一文を王宮への報告にも残すと、オルフェンは約束してくれた。

封鎖された場所への興味と、研究を急いではならない理由。

マリクはその両方を忘れまいとした。

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