第三十九話 工房の今月の施術売上が、大商会の先月の公表額を上回ったそうです
「マリクさん。今月の帳簿がまとまりました」
エルナが分厚い帳面を机に置いた。
「お疲れさま。どうだった?」
「まず、こちらをご覧ください」
エルナは表を二枚用意していた。
一枚は工房の当月の施術収入。
もう一枚は、入手できた範囲で整理した商会施術部門の前月売上だ。
「比較する条件が違うので、優劣を断定する数字ではありません」
先にそう断ってから、彼女は帳面を開いた。
数字が並んでいる。
施術収入。
相談料。
研究院への協力費。
従業員の給与。
設備の維持費。
そして、最後に書かれた合計。
「……これ、桁を間違えてないか?」
「三回確認しました」
「リオが数字を足したとか?」
「ひどい!」
横から抗議の声が飛んだ。
「私だって百までなら間違えないよ!」
「金貨千枚の契約を見たときは、十まで数えるのも怪しかったけどな」
「それは驚いただけ!」
エルナが笑いをこらえながら説明する。
「施術件数は安全上の上限を守っていますが、予約の取りこぼしが減りました。料金の未回収もなくなっています。研究院からの協力費も別に記録してあります」
「つまり、無理に人数を増やしたわけじゃないんだな」
「はい。受付と会計を整えた成果です」
カインが誇らしげに胸を張った。
「施術室の入れ替えも早くなりましたからね」
ミアも頷いた。
「休憩室を整えたので、施術後に落ち着いて帰ってもらえます」
マリクは四人を見渡した。
「……俺一人じゃ、絶対にできなかったな」
リオが得意げに笑った。
「もっと褒めていいよ」
「いつも助かってる」
「……急に真面目に言われると照れる」
そこへ、取引先の商人が訪れた。
「マリクさん、聞きましたよ!」
「何をです?」
「この工房の今月の施術関連売上が、王都美容商会の施術部門の先月の公表売上を超えたそうですね!」
マリクは目を丸くした。
「……誰がそんな数字を?」
「商人組合の集計です。もちろん公開された部門別の数字だけですが」
エルナが即座に補足した。
「工房の研究協力費は除いてあります。比較相手も商会全体ではなく施術部門です。それに、比較した月が違うことも忘れてはいけません」
「そうなのか」
エルナは売上表の横に、施術を断った件数も記した。
「こちらは収入になっていませんが、理由が残っています」
リオが不思議そうに見た。
「売上表に、断った数も載せるの?」
「売上だけ見て、無理に施術を増やすようになったら困るから」
マリクは二つの数字を見比べた。
増やしたいのは金貨の枚数ではなく、安心して相談できる人の数だった。
マリクは肩をすくめた。
「なら、見出しだけ聞いたら誤解するな」
商人は笑った。
「それでも立派なことですよ。追放された冒険者が、大商会の事業部門を上回ったんですから」
その言葉に、マリクは少しだけ黙った。
昔は仕事を断られる側だった。
今は、自分の仕事の成果が商人たちの話題になっている。
「……不思議なもんですね」
「何がです?」
「役立たずと言われた能力で、飯を食えていることが」
商人は笑った。
「役に立つかどうかは、使い方次第でしょう」
商人が帰った後、リオが帳簿を覗き込んだ。
「ねえ、これだけ儲かったなら、みんなでごちそう食べようよ!」
「それはいいな」
「やった!」
「でも、その前に決めることがある」
マリクは帳面を指した。
「設備を直したい。施術室の換気も改善したいし、記録を保管する棚も必要だ」
エルナが頷いた。
「個人情報を守るため、鍵付きの保管庫を購入したいです」
「それから、休憩室の寝台も増やそう」
ミアが嬉しそうに手を挙げた。
「ありがとうございます!」
「従業員の給与も見直したい」
四人が静かになった。
カインが驚いたように尋ねる。
「……俺たちのですか?」
「そうだ。工房が忙しくなった分、負担も増えてるだろ」
エルナは帳簿を開き直した。
「賞与という形なら、継続的な経営への負担を抑えられます」
「じゃあ、今回は賞与にしよう。今後の給与改定は、売上が安定してからだ」
リオがにやりとした。
「私ももらえる?」
「もちろん」
「じゃあ、お肉を買う!」
「やっぱり食べ物か」
笑い声が工房に広がった。
だが、午後になると、別の問題が持ち上がった。
エルナが持ってきたのは、予約を断られた客からの手紙だった。
『裕福な人しか施術を受けられないのでしょうか』
『遠方から来ましたが、予約が取れませんでした』
『相談だけでも受けたいのです』
マリクは一通ずつ読んだ。
「……売上が増えても、困ってる人は減らないな」
「そうですね」
エルナは答えた。
「現在の人数では、希望者全員に施術することはできません」
「値段を上げれば、予約は減るかもしれない」
「ですが、受けられない人が増えます」
「それは嫌だな」
マリクは考え込んだ。
工房を大きくするだけでは、施術できるのは自分一人だ。
選択転位の研究が進んでも、すぐに別の術師が同じことをできるとは限らない。
「……施術しなくても役立てる方法を増やそう」
エルナが顔を上げた。
「例えば?」
「体型の悩みなら、衣服の仕立て直しや装備の調整で解決する場合もある」
「なるほど」
「健康の相談なら、ハロルド先生たちに案内する。施術が必要ない人もいるはずだ」
エルナは素早く書き留めた。
「相談窓口を分けるんですね」
「そうだ。全部俺の魔術で解決しようとしない」
夕方、マリクは全員を集めた。
マリクは帳簿を閉じ、仲間たちを見渡した。
「今日、祝いたいのは売上の順位じゃない。安全のために断るべき施術を断って、それでも工房を続けられたことだ」
「それなら、お祝いしていいんだね!」
リオが笑うと、カインもミアも頷いた。
「今月の利益の一部を、相談窓口の整備と、費用に困る人のための支援に回したい」
カインが尋ねた。
「無料で施術するんですか?」
「何でも無料にするわけじゃない。医師と相談して、本当に必要な支援を考える」
ミアが頷いた。
「体調の悪い人を無理に施術しないためにも、相談が大事ですね」
「そういうことだ」
数日後、賞与を受け取ったカインが小さな工具箱を持ってきた。
「これ、仕事用に買いました」
「工房の経費で買っていいのに」
「次からはそうします。でも、最初の一つは自分で選びたかったんです」
カインは照れくさそうに笑った。
ミアは休憩室の備品を整え、エルナは施術記録の保管方法を見直した。
リオは肉料理の店を予約していた。
「みんなで食べるんだから、これも仕事のため!」
「……まあ、そういうことにしておこう」
その日の夜、工房は少し早く店じまいした。
五人で小さな食堂へ向かう。
リオは山盛りの肉料理を前に、目を輝かせた。
「これが成功の味……!」
「まだ食べてないだろ」
「気持ちの問題!」
マリクは笑った。
工房が大きくなっても、こうして笑い合える時間を失いたくない。
かつて仲間と呼んだ冒険者たちの前では、いつも役立たずであることを気にしていた。
今は違う。
ここでは、誰かが誰かの役に立っている。
それが嬉しかった。
食事を終えて工房に戻ると、研究院からの使いが待っていた。
「オルフェン先生がお呼びです。古代写本の件で、新しい資料が見つかりました」
マリクは封書を受け取った。
破られた最後のページ。
それに関する手がかりが、ついに現れたらしい。
「……明日は研究院か」
リオが笑った。
「売上が増えても、忙しさは減らないね」
「本当にな」
マリクは苦笑した。
だが、その忙しさは、以前とは違っていた。
誰かに認めてもらうためではなく、自分で選んだ仕事のために忙しい。
それは、悪くない毎日だった。




