第三十六話 脂肪を保存する魔道具を試作したら、思わぬ壁にぶつかりました
「できたぞ!」
研究院に入った瞬間、オルフェンの声が響いた。
「……何がです?」
マリクが尋ねる。
「器じゃ!」
机には小さな金属製の試作器が置かれていた。
カインが製作に協力した掌ほどの箱には、細かな術式と『生体試験禁止』の文字が刻まれていた。
「完成したのは器だけじゃ。脂肪を保存できるとは、まだ言えんぞ」
オルフェンは先に釘を刺した。
「これが、保存の魔道具?」
リオが覗き込んだ。
「正確には、対象を一時的に保持するための試作器じゃ」
オルフェンは胸を張った。
「名前は『選択保持器・試作一号』!」
「長いですね」
「では『一号』でよい」
「急に短くなった」
マリクは箱を持ち上げた。
思ったより軽い。
「これに脂肪を入れられるんですか?」
「まだ分からん」
「……できたって言いませんでした?」
「器ができたと言ったのじゃ!」
リオが笑った。
「やっぱり研究者の『できた』は信用できない!」
オルフェンは咳払いした。
「まず、器そのものの性能を確かめる。今日は人体には使わん」
机には、小さな魔力結晶が三つ並んでいた。
一つ目は、保持器に魔力を流すためのもの。
二つ目は、内部の状態を測るもの。
三つ目は、異常が起きたときに術式を止めるためのものだった。
「止める仕組みまであるんですね」
「当然じゃ。何かを閉じ込める道具には、開け方と止め方が必要じゃからな」
オルフェンは慎重に魔力を流した。
箱の表面に淡い光が走る。
「……おお」
リオが声を漏らした。
箱の中央に、小さな光の輪が浮かんだ。
輪の内側だけ、空気が揺れて見える。
「これが保持領域じゃ」
「何を入れるんです?」
「まずは魔力で作った目印だけじゃ」
ダリオが小さな光点を発生させた。
光点は保持領域の中へ入り、しばらく浮かんでいた。
一分。
二分。
三分。
「……残っていますね」
マリクが呟く。
「うむ」
五分が経ったところで、光点が揺らぎ始めた。
「魔力が不安定です」
ダリオが言った。
「停止するぞ」
オルフェンが術式を切った。
光点は静かに消えた。
「……成功?」
リオが尋ねる。
「保持領域を作り、予定どおり停止できた。そこまでは成功じゃ」
オルフェンが計測器を確かめると、保持領域に光点の反応は残っていなかった。
「目印を保持しただけで、脂肪を入れたわけではないんだな」
「そうじゃ。脂肪の保存とは別の話だ」
リオは記録用紙に『脂肪の保存には未成功』と記した。
オルフェンは記録帳に書き込んだ。
『試作一号。
魔力目印の保持、約五分。
異常検知後の停止、正常』
マリクは箱を見つめた。
「保持時間は約五分。生体組織に使えるかどうかは、まったく別の検証が必要ですね」
「そうじゃ。今日の成果は、標識の保持と安全停止だけじゃ」
午後は、動物由来の脂肪を使った実験になった。
ただし、マリクの術で動かすのではない。
あらかじめ容器に入れた少量の脂肪を、保持器の内部環境で変化なく保てるかを確かめる。
「……温度が上がっています」
ダリオが報告した。
「魔力を流すと、少し熱を持つのか」
オルフェンは眉をひそめた。
「それでは長時間の保存には向かん」
「冷やす仕組みが必要ですね」
マリクが言った。
「あるいは、魔力の流し方を変えるかじゃ」
一時間後。
脂肪の表面には、わずかな変化が見られた。
「……駄目ですね」
リオが呟く。
「保存に成功したとは言えません」
ダリオも頷いた。
オルフェンは深く息を吐いた。
「今日はここまでじゃ」
「完成したんじゃなかったんですか?」
リオが尋ねる。
「一号は完成した。目的を達成したとは言っておらん!」
リオは頬を膨らませた。
「その言い方、ずるい!」
マリクは笑いながら、記録帳を覗き込んだ。
「でも、何が足りないかは分かりましたね」
「うむ。保持時間、温度、対象の状態。
そして、お前の術との接続じゃ」
オルフェンは指を折った。
「少なくとも四つの課題がある」
「まだ先は長そうですね」
「研究とは、そういうものじゃ」
そのとき、研究室の扉が開いた。
入ってきたのは、エルナだった。
「マリクさん。工房から連絡です」
「何かあったのか?」
「施術を希望するお客様が、予定より早くお越しになったそうです」
「予約は?」
「あります。ただ、体調が優れないとのことです」
マリクはすぐに立ち上がった。
「医師には?」
「すでに連絡しています。施術は保留にしました」
「よくやってくれた」
オルフェンが頷いた。
「行ってこい。研究は逃げん」
「ありがとうございます」
マリクは研究帳の見出しを二つに分けた。
『できたこと』と『まだできないこと』。
その線引きを曖昧にすれば、いずれ誰かの体で間違いを犯す。
工房に戻ると、休憩室には中年の女性が座っていた。
顔色が悪く、リオが水を用意している。
「マリクさん……」
女性が立ち上がろうとした。
「そのままで大丈夫です」
マリクは椅子を引いた。
「今日は施術より、体調を優先しましょう」
「でも、予約をずっと待っていたんです」
「予約は取り直せます。体の方が大事です」
女性は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
やがてハロルドが到着し、診察を始めた。
マリクは診察の邪魔にならないよう、部屋を出た。
リオが隣に立つ。
「研究院、どうだった?」
「器ができた」
「脂肪を保存できたの?」
「まだだ」
「……じゃあ、完成じゃないじゃん!」
マリクは苦笑した。
「俺もそう言った」
二人は笑った。
夕方。
ハロルドから、女性は今日は施術を見送り、体調を整えてから再相談する方針になったと伝えられた。
女性は安心した表情で帰っていった。
マリクは工房の帳簿を閉じた。
研究院には、新しい魔道具がある。
工房には、今すぐ助けを必要とする人がいる。
どちらも大切だった。
だが、研究が進んだからといって、目の前の人間を置き去りにはできない。
その夜、オルフェンから手紙が届いた。
『試作一号の保持領域は安定していた。
明日から改良に入る』
『ただし、脂肪の保存に成功したとは、まだ言わんこと』
マリクは思わず笑った。
「……分かってますよ」
続きには、もう一行あった。
『古代写本の別冊に、器を使わず対象を保持した研究者の記録が見つかった。
だが、その最後のページだけが破られている』
マリクの笑みが消えた。
「……破られている?」
誰が、何のために。
脂肪転移の研究は、単なる便利な魔道具作りでは終わらないのかもしれない。
マリクは手紙を畳み、研究帳の一番上に置いた。
明日も工房を開ける。
客の話を聞く。
必要なら施術を断る。
研究帳の隅には、成功した試験と同じ大きさで、失敗した試験の番号も並んでいた。
マリクはその欄を消さなかった。
うまくいかなかった記録が、次の誰かを危険から遠ざけることもある。
空いた時間には、研究を続ける。
かつて誰にも必要とされなかった力は、今、誰かの暮らしを支えている。
その価値を見失わない限り、どんな秘密が待っていても進んでいける。
「……さて、明日も忙しいぞ」
工房の灯りが、夜の通りを静かに照らしていた。




