第三十五話 王国最高の錬金術師が、俺の能力を再検査しました
「今日は爆発しませんよね?」
研究院の門をくぐるなり、リオが尋ねた。
「失礼なことを言うな!」
オルフェンが胸を張る。
「今日は火を使わん!」
研究室の入口には、前回の事故以来つけられたという避難経路の図が貼ってあった。
リオが図を確かめると、オルフェンは咳払いした。
「失敗から学ぶのも研究じゃ」
「だったら今日は、失敗する前に止めてくださいね」
「火を使わなければ安全なんですか?」
「それも含めて確認する。だから、今日は人体には触れん」
マリクはため息をついた。
研究室には、前回と違う器具が並んでいた。
透明な板、細かな目盛りのついた容器、魔力の流れを記録する結晶。
そして、豚の脂身を薄く切った試料が置かれている。
「今日は、何を調べるんです?」
「お前が何を『脂肪』と認識しているかじゃ」
オルフェンは一枚の紙を広げた。
「前回は、皿に置いた脂肪が動かなかった。だが、それだけでは理由が分からん」
「生きた体にあるかどうか、という話でしたね」
「そうじゃ。ほかにも、触れている必要があるのか、対象の形が関係するのか、いくつも可能性がある」
ダリオも同席していた。
「魔力の記録だけなら、人体に施術しなくても取れます」
「ただし、試すのは既に扱った条件だけにする」
マリクが念を押す。
「うむ。新しい施術を人間に試すのは、医師と手順を決めてからじゃ」
最初の実験は、前回と同じだった。
小皿の脂身へ手をかざす。
移動先は隣の皿。
何も起こらない。
「……やっぱり駄目ですね」
「記録は?」
ダリオが結晶を覗き込んだ。
「魔力は流れています。でも、術式が途中で止まっています」
「途中で?」
「対象を確定できていないように見えます」
オルフェンは頷いた。
「次は、触れてみろ」
マリクは脂身へ指先を当てた。
意識を集中する。
脂肪。
移動先。
魔力。
……動かない。
「触れても同じか」
オルフェンは書き込んだ。
記録結晶には、短い魔力反応だけが残っていた。
「何か起きたの?」
リオが尋ねる。
「魔力が流れた記録じゃ。脂肪が動いた証拠ではない」
オルフェンは測定結果に『移動なし』と書き添えた。
マリクは、期待と事実を分けてくれる研究仲間の存在を心強く感じた。
次は、脂身を薄い布で包んだ。
結果は変わらない。
「……全部失敗ですね」
リオが呟いた。
「失敗条件が三つ増えた」
オルフェンは満足そうだった。
「研究者って、本当に変わってる」
マリクは笑いながらも、結晶の記録を見つめた。
魔力は出ている。
だが、術は完成しない。
「……俺は、脂肪だと分かっているんですけどね」
「頭で分かることと、術が認識することは別なのかもしれん」
オルフェンは古い写本を開いた。
『選択転位において、対象の名を知るのみでは足りず。
境界を知り、周囲より分かつことを要す』
マリクはその文章を読み返した。
「境界……」
「例えば、袋に小麦と砂が混ざっておるとしよう。小麦だけを移すには、どれが小麦かを術式が見分けねばならん」
「脂肪も同じだと?」
「仮説じゃ」
オルフェンは指を立てた。
「しかも、お前の術は生体内の脂肪を認識できる。もし本当にそうなら、驚くほど精密な識別を行っておる」
リオが目を輝かせた。
「じゃあ、すごい術なんだ!」
「可能性はある。ただし、精密だから安全とは限らん」
オルフェンは真顔になった。
「間違ったものを選べば、危険も大きい」
休憩時間、リオは古い写本の余白に描かれた図を見つけた。
「ねえ、これ。輪っかが三つあるよ」
「それは術式の層を表しているのかもしれん」
オルフェンが答えた。
「外側の輪が対象を探し、内側の輪が移動先を定める、とも読める」
「真ん中は?」
「分からん。写本の注釈が欠けておる」
マリクは図を見つめた。
何度も使ってきた能力なのに、術式を輪として意識したことはない。
脂肪がどこにあるか、どこへ移すか。
それだけを考えてきた。
「……もし真ん中が重要なら、今まで無意識にやっていたことかもしれませんね」
「その可能性はある」
「でも、だからといって、急に意識して変えるのは危険ですよね」
「そのとおりじゃ」
オルフェンは満足そうに頷いた。
「今日は普段どおりの施術を観察する。術を変える実験はせん」
リオは写本を閉じた。
「研究って、我慢することも多いんだね」
「むしろ、我慢できん研究者が一番危ない」
オルフェンが答えた。
マリクとリオは、思わず老人を見た。
「……何じゃ、その目は!」
昼過ぎ。
ハロルドの立ち会いのもと、以前から施術を受けている成人の協力者が研究院を訪れた。
本人は研究の目的と内容について説明を受け、同意していた。
「今日は通常の範囲で、少量の脂肪を体内で移動させます」
マリクが説明する。
「分かりました」
施術が始まる。
マリクは腹部に手を当て、いつものように脂肪を意識した。
その瞬間、記録結晶が淡く光った。
「……おお!」
オルフェンが声を上げた。
「今だ。術式が完成しておる!」
マリクは慎重に施術を終えた。
協力者の体調を確かめ、休憩室へ案内する。
そのあと、全員で結晶の記録を見た。
「試料を使ったときとは、明らかに違います」
ダリオが言った。
「どこが?」
ダリオは測定板の記録を指さした。
「成功した試行だけを残すと、能力を誤解します。失敗も全部記録します」
オルフェンは羽根ペンを取った。
「王国最高の錬金術師に、都合のよい数字はいらん」
「じゃあ、爆発の回数も?」
リオが尋ねる。
「それは別の帳面じゃ!」
マリクは笑いながら記録紙を見つめた。
空欄を急いで埋めるより、その意味を確かめる方が先だった。
記録結晶の波形を確かめていたダリオが、顔を上げた。
「魔力の流れに、対象を選ぶような変化があります」
オルフェンは腕を組んだ。
「生体内では対象を認識できる。
体外の試料ではできない。
少なくとも、この条件の違いは確認できた」
「……つまり?」
「まだ、理由は分からん!」
リオが机に突っ伏した。
「そこまで調べても、まだ分からないの!?」
「分からんものは分からん!」
マリクは笑った。
「でも、前より少し進みましたね」
「そうじゃ」
オルフェンは写本の端に挟まれていた紙片を取り出した。
「実は、もう一つ見せたいものがある」
紙片には、小さな図が描かれていた。
円の中央に対象を示す記号。
その周囲には、三つの輪がある。
『識別』『隔離』『転位』
「古代の研究者は、選択転位を三段階に分けて考えていたらしい」
「……隔離?」
「対象を識別したあと、移す前に周囲から切り分ける段階じゃ」
マリクは目を細めた。
「俺の術にも、そんな段階があるんでしょうか」
「あるかもしれん。だが、術を途中で止める方法は分からん」
オルフェンは紙片を裏返した。
そこには、かすれた文字が残っていた。
『隔離された対象は、器なきまま保持するべからず』
リオが首を傾げた。
「器って、お皿?」
「そうとは限らん。魔力で形を保つ器かもしれん」
マリクは思わず尋ねた。
「もし、その器を作れたら?」
オルフェンの目が輝いた。
「移す前の対象を、一時的に保持できる可能性がある」
「……脂肪を、体の外に?」
「理論上の話じゃ。実現できるとは限らん」
オルフェンは強く念を押した。
「それに、人体から取り出す実験はまだせん。保存に失敗すれば、戻せなくなるおそれがある」
マリクは頷いた。
「まずは、魔道具だけを試すんですね」
「そうじゃ!」
老人は立ち上がった。
「器を作るぞ。中身を入れる前に、器が安全か確かめる!」
リオは研究室の天井を見上げた。
「……今度こそ、爆発しないよね?」
オルフェンは答えなかった。
片づけが終わるころ、リオは念を押した。
「試作一号には、何を入れるんですか?」
「まずは魔力の目印だけじゃ。物質を移す実験は、その先」
オルフェンの答えに、マリクは安堵した。
期待が大きいほど、順番を守らなければならない。




