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脂肪転移の魔術師 完全なハズレスキルが最強の錬金術スキルでした  作者: レモンティー


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第三十二話 冒険者ギルド長が金貨千枚で俺を雇おうとしてきました

「金貨千枚です」

エルナが告げた金額に、リオの手から羽根ペンが落ちた。

「……せんまい?」

「はい。王都冒険者ギルドからの提示額です」

「工房が何軒建つんだろう……」

マリクは差し出された書状を読み直した。

特別顧問への就任。

契約期間は三年。

年間報酬は金貨千枚。

ただし、ギルドが要請した際には優先して出向き、施術および研究に協力すること。

「金額は立派だな」

「立派すぎるよ!」

「問題は、この『優先して』という部分だ」

マリクは指で契約文を叩いた。

工房の予約を後回しにし、ギルドから呼ばれるたびに出向く。

三年間、それが続く。

「会うだけなら会ってみますか?」

エルナが尋ねた。

「そうだな。条件の意味を本人に聞こう」


午後、ギルド長のグランが訪れた。

大柄な初老の男だった。

肩幅が広く、左頬には古い傷がある。

挨拶の仕方だけで、長年冒険者を率いてきた人間だと分かった。

「お前がマリクか。噂より若いな」

「最近、よく言われます」

「わしも昔は若かった」

「それはそうでしょうね」

リオが後ろで吹き出した。

グランは豪快に笑い、応接室の椅子へ腰を下ろした。

「早速だが、金貨千枚では足りんか?」

「足りるかどうかより、何をする契約なのか知りたいんです」

「冒険者の体調管理だ。

負傷から復帰する者、長距離移動に苦しむ者、装備の負担を減らしたい者。

相談に乗ってほしい」

「脂肪を移すだけで、怪我を治したり筋肉を増やしたりはできませんよ」

「承知しておる」

グランは一枚の報告書を置いた。

そこには、冬季の遠征で体調を崩した冒険者の数が記されていた。

「ギルドは強い者を前へ出す。だが、戻ってきた者の暮らしまで面倒を見きれておらん」

「……」

「お前の工房には、仕事を続けたい者も来るそうだな」

グランは契約書の空白を指した。

「では、相談を断った場合の罰則もなしでいいな」

「はい。患者の予約が入っている日に呼ばれても、必ず行けるとは限りません」

「金貨千枚より、そちらが大事か」

マリクは受付の方を見た。

「待っている人の約束を、俺だけの判断で売るわけにはいきません」

グランは少し笑い、罰則欄に斜線を引いた。

マリクは少し驚いた。

高い報酬で自分を囲い込もうとしているだけだと思っていた。

だが、この男は現場の問題を知っているらしい。

「それなら医師の協力も必要です」

「医師とも契約するつもりだ」

「施術が役に立たない場合もあります」

「そう判断してくれればよい」

話は意外なほどまともだった。

それでも、契約書の一文が引っかかった。

「ギルドの要請を優先する、という条件は?」

「緊急時に来てもらいたい」

「どんな緊急時ですか」

「遠征隊が戻らぬとき。

大量の負傷者が出たとき。

場合によっては軍からの依頼もある」

マリクは首を振った。

「俺の術が役に立つかどうか分からない場面まで、優先して呼び出されるのは困ります」

「金貨千枚だぞ」

「分かっています」

「冒険者なら誰もが欲しがる待遇だ」

「俺は、もう冒険者ではありません」

グランの笑みが薄れた。

「昔、ギルドで追放されたそうだな」

「ええ」

「その恨みか?」

「違います」

マリクは窓の外を見た。

予約客を案内するカインの声。

受付で説明するエルナの声。

奥ではミアが休憩室を整えている。

「俺には今、ここでやる仕事があります」

「金貨千枚より大事か」

「はい」

グランはしばらく黙った。

そして、ゆっくり頷いた。

「……わしの負けだな」

「勝負をした覚えはありませんが」

「金額を見せれば、すぐ飛びつくと思っていた」

グランは契約書を引き寄せた。

「ならば、条件を変えよう。常勤ではなく、案件ごとの協力だ」

「内容を見て判断できるなら」

「工房の予約を勝手に動かさない。

医師の判断を尊重する。

施術を断る権利も認める」

「報酬は?」

「仕事ごとに協議だ」

エルナが横から口を開いた。

「研究記録の所有権と、患者様の情報の扱いも明記してください」

「……なかなか厳しい職員だな」

「工房を守るのが仕事ですので」

グランは愉快そうに笑った。

「よかろう。書き直して持ってくる」

話がまとまったところで、グランは別の封筒を取り出した。

「もう一つ頼みがある。こちらは契約とは別だ」

中には、冒険者の相談票が数枚入っていた。

そのうち一枚に、見覚えのある名前があった。

ガレス。

昨日、工房へ戻ってほしいと頼みに来た、元パーティーのリーダーだった。

「こいつらが、お前に似た能力の術師を探している」

「……そうですか」

「ギルドに何件も問い合わせが来てな。最近は、怪しい施術師にまで接触しているらしい」

マリクは紙を置いた。

「止めた方がいいですね」

グランは返事を急かさなかった。

代わりに、予約帳の端に挟まれた一枚の紙を見た。

そこには、施術を断った人への紹介先が書いてある。

「金貨千枚でも、この紙は買えんというわけか」「ええ。ここで待つ人の順番まで売るつもりはありません」グランはしばらく黙り、やがて苦笑した。

「昔、お前を役立たずと呼んだ連中に聞かせたいな」マリクは首を振った。

「今ここで必要としてくれる人に、聞こえれば十分です」

「お前が直接言ってやるか?」

「いいえ。俺が言っても聞かないでしょう」

グランは意外そうに眉を上げた。

「昔の仲間だろう」

「昔の仲間です」

マリクは静かに答えた。

「今は、別の道を歩いています」

夕方、グランが帰ると、リオが金貨千枚と書かれた書状を名残惜しそうに見つめた。

「本当に断っちゃったね」

「拘束される契約はな」

「千枚あったら、毎日お肉が……」

「まだ言ってるのか」

「大事なんだってば!」

マリクは笑い、研究帳を開いた。

昨日の実験で、動物の脂肪は皿から皿へ移らなかった。

理由はまだ分からない。

金貨千枚より気になることが、机の上にある。

そんな日が来るとは、追放された頃の自分には想像もできなかった。

グランが帰ったあと、エルナは新しい契約書の雛形を作り始めた。

「ギルド長が悪い方だとは思いません。でも、担当者が変わっても守られる約束にしなければ」

「三年後には、別のギルド長かもしれないからな」

「はい。口約束では、後から確認できません」

リオが首を傾げた。

「そんなに細かく書く必要があるの?」

「必要だよ。

俺がいない間に、誰かが『ギルド長が言ったから』って予約を動かすことになるかもしれない」

「……それは困るね」

「だから、決めておく」

マリクは紙の余白に書き足した。

『工房の従業員に対し、ギルドが直接命令する権限を持たないこと』

エルナはその文を見て、小さく笑った。

「ありがとうございます」

「何が?」

「私たちの仕事も、ちゃんと守ってくださるんですね」

マリクは少し照れくさくなった。

「……一緒に働いてるんだから、当たり前だろ」

その夜、ギルドから短い連絡が届いた。

『銀狼の牙が、脂肪転移を名乗る術師を雇った模様』

リオが顔をしかめた。

「……また嫌な予感がする」

マリクも同じだった。

だが、元仲間を追いかけるために工房を空けるつもりはない。

「何か起きたら、まず医師とギルドに任せよう」

それは、昔ならできなかった判断だった。

何でも自分で抱え込まず、役割を持つ人間に任せる。

工房を持つというのは、そういうことでもあった。


数日後。

ギルドからの正式な返事には、専属契約を見送る代わりに、案件ごとの相談を認めるとあった。

報酬よりも、断る自由が残ったことが嬉しかった。

マリクはその文書を、工房の契約箱へしまった。

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