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脂肪転移の魔術師 完全なハズレスキルが最強の錬金術スキルでした  作者: レモンティー


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第三十話 ハズレスキルの本当の名前

王立錬金術研究院は、王宮の北側に建っていた。

灰色の石壁。

高い塔。

大きな窓の向こうには、棚いっぱいの本が見える。

「……学校みたいだね」

リオが呟いた。

「学校より静かだな」

マリクが答える。

その瞬間、建物の奥から爆発音が響いた。

ドンッ!

窓の一つから白い煙が上がる。

「……静か?」

リオがマリクを見た。

「今のは聞かなかったことにしよう」

二人が入口へ向かうと、エルナがため息をついた。

「本当に大丈夫でしょうか、この研究院」

迎えに来たオルフェンは、なぜか髭の先が少し焦げていた。

「よく来た!」

「……何があったんです?」

「小さな失敗じゃ」

「爆発してましたよね」

「小さな爆発じゃ!」

リオが笑った。

「やっぱり危ない人だ!」

オルフェンは聞こえないふりをして、三人を奥へ案内した。

研究院の資料室には、古い本が山のように積まれていた。

紙の匂いと、乾いた木の匂いがする。

「ここじゃ」

老人は大きな机の上に、一冊の古い書物を置いた。

表紙はひび割れ、文字もかすれている。

「百年以上前に写された、古代錬金術の研究記録じゃ」

「原本ではないんですか?」

マリクが尋ねる。

「原本は失われておる。これは、現存する最も古い写本の一つじゃ」

オルフェンは慎重にページをめくった。

「ここを見ろ」

そこには、複雑な円と記号が描かれていた。

中央には、一つの言葉がある。

『選択転位』

マリクは読み上げた。

「……せんたくてんい?」

「そうじゃ」

オルフェンは頷いた。

「対象を識別し、性質を保ったまま、別の場所へ移す術式と記されている」

リオが首を傾げた。

「脂肪転移と何が違うの?」

「記録上は、対象を脂肪に限定しておらん。ただし、お前の術が同じ仕組みかは未確認じゃ」

マリクの表情が変わった。

「……ほかのものも移せる?」

「写本にはそう読める箇所がある。だが、お前がほかのものを移せる証拠にはならん」

オルフェンは別のページを開いた。

「術式には三つの条件があるとされる」

老人は指を折った。

「対象を正確に認識すること」

「移動先を定めること」

「移動に必要な魔力を満たすこと」

マリクは黙って聞いた。

確かに、自分が脂肪転移を使うときも同じだった。

脂肪を意識する。

移動先を決める。

魔力を流す。

「……似ていますね」

「ああ」

オルフェンの目が輝いた。

「ただし、似ているだけでは証拠にならん」

「それなら、証拠が見つかるまでは別のものとして扱います」

マリクは答えた。

「名前が立派になっただけで、できることが増えた気になるのが一番怖い」

オルフェンは書物の余白に小さく印をつけた。

「その言葉も残しておこう。後世の研究者に必要な注意書きじゃ」

マリクは頷いた。

「実験が必要ですね」

「そのとおり!」

オルフェンは嬉しそうに手を叩いた。

「今日は、人体を使わずにできることを調べよう」

研究室には、さまざまな試料が用意されていた。

水、油、砂、金属片。

そして、食用として用意された動物の脂肪。

「まず、これじゃ」

オルフェンが小皿を差し出した。

「脂肪を、隣の皿へ移せるか?」

マリクは皿を見つめた。

「……やったことがありません」

「だから調べるのじゃ」

マリクは慎重に手をかざした。

脂肪を意識する。

移動先を思い描く。

魔力を流す。

……何も起こらなかった。

「……駄目ですね」

オルフェンは記録を取った。

「なるほど。生体組織の状態でなければ対象として認識できんのかもしれん」

「ただ、魔力の使い方が違う可能性もあります」

マリクが答える。

「うむ。結論は急がん」

次に、油を試した。

結果は同じだった。

砂も、水も、金属片も動かない。

リオが腕を組んだ。

「……やっぱり脂肪しか無理なのかな」

「そうかもしれない」

マリクは答えた。

「でも、今まで生きた人間の体でしか使ってこなかったからな」

オルフェンは頷いた。

「重要なのは、何ができなかったかを記録することじゃ」

午前の実験は、それだけで終わった。

目立った成果はない。

それでも、オルフェンは満足そうだった。

「よし。今日は十分じゃ」

「……何も成功してませんよ?」

「失敗した条件が分かった。立派な成果じゃ」

マリクは苦笑した。

「研究者って、変わってますね」

「お前も、十分変わっておるぞ」

リオが大きく頷いた。

「それは本当にそう!」

昼食のあと。

オルフェンは古い書物の別のページを見せた。

そこには、選択転位についての注意書きがあった。

『対象の認識を誤れば、望まぬものを動かす』

『移動量を誤れば、受け手と送り手の双方を損なう』

マリクは息を呑んだ。

「……危険性まで、似ていますね」

「そうじゃ」

オルフェンは真剣な顔になった。

「お前の術が選択転位の一種なら、強力であると同時に、扱いを誤れば危険な術じゃ」

マリクは頷いた。

「今までも、そこは気をつけてきました」

「これからは、もっと気をつける必要がある」

老人はページをめくった。

「ここに、もう一つ重要な記述がある」

そこには、古い文字でこう書かれていた。

『選択転位は、物質を生み出す術にあらず』

『あるものを、ある場所から別の場所へ移す術なり』

リオが顔を上げた。

「じゃあ、金貨を増やしたりはできないんだ」

「少なくとも、この術式だけではな」

オルフェンは答えた。

「何もないところから物質を作るわけではない。移したものは、元の場所から失われる」

マリクは小さく笑った。

「それなら、俺の脂肪転移と同じです」

「うむ」

老人は満足そうに頷いた。

「ただし、完全に同じ術だと証明されたわけではない。今は有力な仮説じゃ」

マリクは書物を見つめた。

冒険者ギルドで、ハズレスキルと笑われた日。

あのとき、誰もこの能力に価値を見いださなかった。

自分自身も、そうだった。

だが今、王国の研究院で、百年前の錬金術と比較されている。

オルフェンは机の端に置かれた記録帳を指さした。

「今日、動かなかった試料も捨てずに記録しておけ。いつか条件の違いが分かるかもしれん」

「はい。失敗した条件も、次の人の手がかりになりますから」

オルフェンは少し意外そうに笑った。

「その考えがあるなら、研究を続ける資格は十分じゃ」

「ただし、成功を急ぐな。急いで得た答えが間違っておれば、人を傷つける」

マリクは、その言葉を胸に刻んだ。

「……変な気分です」

マリクが呟く。

「何がじゃ?」

「昔は、脂肪を移すだけの役立たずだと言われてました」

オルフェンは鼻を鳴らした。

「役立たずかどうかは、使い道を知ってから決めるものじゃ」

マリクは顔を上げた。

「……そうですね」

老人は続けた。

「そもそも、優れた術式だから価値があるのではない。何に使い、誰の役に立つかで価値は変わる」

マリクは黙った。

その言葉は、今までの自分の歩みそのものだった。

夕方。

研究院を出る前、マリクは写本の余白にある『再現できず』という記述を写させてもらった。

成功の記録だけを追えば、危険な失敗を繰り返すかもしれない。

彼が持ち帰ったのは、新しい能力ではなく、調べ続けるための問いだった。

研究院を出ると、空が赤く染まっていた。

リオが尋ねた。

「……マリク、これからどうする?」

「工房に戻る」

「そうじゃなくて!」

マリクは笑った。

「分かってる」

しばらく考えてから、答えた。

「まず、今までの施術をもっと安全にする」

「うん」

「それから、研究を続ける。脂肪以外に使えるかどうかは、そのあとだ」

リオは嬉しそうに笑った。

「じゃあ、まだまだ忙しくなるね」

「ああ」

「工房、もっと大きくなるかな?」

「必要ならな」

二人が笑っていると、エルナが静かに言った。

「……実は、もう一つご報告があります」

「何だ?」

「研究院へ来る前に、王都美容商会から連絡がありました」

マリクの表情が変わった。

「またか」

「今回は、抗議ではありません」

エルナは一枚の紙を差し出した。

「商会が、新しい事業を始めるそうです」

そこには、大きな文字が書かれていた。

『脂肪転移に代わる、新時代の錬金美容術』

リオが眉をひそめた。

「……また真似するの?」

「分からない」

マリクは答えた。

「でも、今度はちゃんと調べよう」

その夜。

マリクは工房の机に、研究院で写した言葉を置いた。

『選択転位』

それが自分の能力の本当の名前なのかは、まだ分からない。

ただ、確かなことが一つあった。

脂肪転移は、役立たずではなかった。

そして、価値があると分かった今こそ、その力をどう使うかが問われている。

「……誰かを困らせるためじゃない」

マリクは小さく呟いた。

「誰かが、自分の人生を選べるようにするためだ」

受付の内側には、ニナの描いた絵が飾られていた。

その隣には、王宮から届いた礼状がしまわれている。

少女を助けるために、施術をしなかった日。

王女の願いを聞くために、施術をしなかった日。

どちらも、今のマリクには大切な仕事だった。

工房の灯りが、静かな通りを照らしていた。

かつて誰も見向きもしなかった魔術師の物語は、ここから新しい段階へ進もうとしていた。

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