第二十五話 痩せすぎた少女を救うために必要なもの
「……わたし、元気になれる?」
少女の問いに、マリクはすぐ答えられなかった。
目の前の少女は、母親の手を握りしめていた。
細い腕。
青白い頬。
立っているだけでもつらそうな足取り。
「名前を聞いてもいいか?」
「……ニナ」
「ニナか。俺はマリク。こっちはリオだ」
「よろしくね、ニナ」
リオがしゃがんで笑いかけると、ニナはほんの少しだけ頷いた。
母親の名はマーサといった。
父親を病で亡くしてから、洗濯の仕事をしながら娘を育てているという。
「最初は、食べる量が減っただけだったんです」
マーサは膝の上で手を組んだ。
「それが、だんだん食べるとお腹が痛いと言うようになって……。最近は、少し歩くだけで疲れてしまうんです」
「診察は?」
「近所のお医者様には診ていただきました。でも、原因がはっきりしなくて」
マリクは頷いた。
「今日は医師にも来てもらっている。先に診てもらおう」
奥の部屋からエレナが現れた。
白髪の女性医師は、ニナを見て穏やかに微笑んだ。
「ニナちゃん。お腹を診せてもらってもいい?」
「……痛くしない?」
「痛かったら、すぐに教えてね」
診察には時間がかかった。
エレナは母親から食事の内容、症状が始まった時期、発熱の有無を聞き取った。
体温を確かめ、脈を取り、腹部にそっと触れる。
マリクは離れたところで待った。
脂肪転移を使えば、体に残る脂肪を腕や頬へ移すことはできる。
だが、それが少女の体を良くする保証はない。
「マリクさん」
診察を終えたエレナが声をかけた。
「現時点で、脂肪転移は勧めません」
「……やっぱりか」
「栄養状態が悪いのは確かです。ただ、それだけで説明できない腹痛があります。原因を調べる必要があります」
マーサの顔から血の気が引いた。
「それでは、娘は……」
「今すぐ結論を出す段階ではありません。王都の診療所で、もう少し詳しく診ましょう」
ミアは少女のために用意した食事の記録を見て、首を傾げた。
「食べられなかった日も書くんですか?」
「書こう。責めるためじゃない。何が負担になったか知るためだ」
マリクが答えると、少女の母親はほっとしたように息をついた。
良い日だけを並べた帳面では、助けが必要な日を見失ってしまう。
エレナは母親の目を見て続けた。
「食べられない原因を確かめずに体型だけ変えても、ニナちゃんは楽にならないかもしれません」
ニナが小さく尋ねた。
「……魔法、しないの?」
マリクは膝を折った。
「今日はしない。ニナの体に何が起きているのか、まだ分からないからだ」
「……じゃあ、治らない?」
「そう決まったわけじゃない」
マリクは言葉を選んだ。
「俺の魔法だけじゃ足りないかもしれない。でも、エレナ先生は体を診られる。俺たちも手伝える。だから、一緒に方法を探そう」
ニナはしばらく考え、頷いた。
診療所へ向かう馬車を手配したのはカインだった。
エルナは診察の費用と今後の連絡先を整理し、ミアはニナが横になれるよう毛布を用意した。
「費用は……」
マーサが震える声で尋ねた。
「まず診察を受けてください」
マリクは答えた。
「費用のことは、あとで相談しましょう」
エルナがすぐに横から口を挟んだ。
「工房の支援金から一時的に立て替えられます。ただし、今後も続けるなら仕組みが必要です」
「……頼む」
マーサは何度も頭を下げた。
その日の夜。
リオは工房の厨房で、冷めたスープを見つめていた。
「……ニナ、ちゃんと食べられるようになるかな」
「エレナ先生が調べてくれる」
「うん。でも……」
リオは言葉を切った。
「私も、昔はお腹が空いて眠れない日があった」
マリクは黙って聞いた。
「誰かが『大丈夫』って言ってくれても、次の日に食べるものがあるかは分からなかった」
リオはスープをひと口飲んだ。
「ニナには、そういう思いをしてほしくない」
「……そうだな」
マリクは帳簿を開いた。
そこには工房の収入と支出が記されていた。
金貨百枚の契約を断ったばかりだというのに、以前の自分には想像できないほどの金額が動いている。
「リオ。工房の売上の一部を、医療相談の支援に回したい」
「本当に?」
「ああ。ただ、俺の気分で金を配るだけじゃ続かない」
エルナを呼び、相談した。
「対象と上限を決めましょう」
エルナはすぐに紙を取り出した。
「医師が診察を必要と認めた人に、交通費や初回診察費の一部を支援する。記録は残す。ただし、病名などは本人の許可なく工房の帳簿に書かない」
「いいな」
「資金が尽きれば制度も終わります。毎月の上限も必要です」
マリクは頷いた。
「任せる。無理なく続く形にしてくれ」
三日後。
エレナから連絡が届いた。
ニナは診療所で経過を見ながら治療を受け、少しずつ食事を取れるようになっているという。
腹痛の原因はまだ詳しく調べている途中だったが、少なくとも無理に脂肪を増やすべき状態ではなかった。
リオは手紙を胸に抱いた。
「よかった……!」
「ああ」
マリクも息を吐いた。
ただし、これで解決したわけではない。
病気は魔法一つで片づかない。
治療を続けるには、医師も、家族も、時間も必要だった。
一週間後、マーサが工房を訪れた。
「ニナが、これを」
差し出されたのは、小さな紙だった。
不器用な文字で『ありがとう』と書かれ、その下に五人の人間が描かれている。
「工房のみなさんだそうです」
リオが笑った。
「私、どれ?」
「たぶん、これかな」
マリクが指したのは、やけに大きな口で笑っている人物だった。
「ひどい!」
工房に笑い声が響いた。
マーサも、久しぶりに笑った。
その夜、マリクは絵を受付の内側に飾った。
脂肪を移さなかった日。
それでも、一人の少女が治療へ進む手助けはできた。
その絵を見たエルナが、支援金の帳簿をそっと閉じた。
「来月も続けられるよう、収支を確認しておきます」
「頼む」
「助けを求める人は、ニナちゃんだけではありませんから」
マリクは頷いた。
一人を助けたことで満足してしまえば、次に来る誰かを助けられない。
だからこそ、工房として続けられる形が必要だった。
「……ハズレスキルでも、やれることは増えるんだな」
マリクが呟くと、リオが首を振った。
「今日は、スキルを使わなかったでしょ」
「……確かに」
「だったら、マリク自身がやったことだよ」
その言葉は、不思議なほど胸に残った。
翌朝。
工房の扉を叩いたのは、領主家の紋章をつけた騎士だった。
「マリク殿。領主様から至急のお呼び出しです」
騎士は周囲を確かめ、声を落とした。
「昨夜、工房の倉庫に侵入しようとした者が捕まりました」
マリクの表情が変わった。
「……誰が?」
「それを、これから調べます」
少女のために始めた、医師の診察と食事の支援をつなぐ新しい仕組み。
その一方で、工房を取り巻く争いは、静かに激しさを増していた。




