第二十二話 工房の前に百人の客が並びました
「……百人?」
マリクは受付帳を見つめた。
「正確には、百三人です」
エルナが淡々と答えた。
「……何でそんなに増えた?」
「領主様の後援が正式に発表されたからです」
リオが窓の外を指さした。
「見てよ、あれ!」
工房の前には、長い列ができていた。
通りの角を曲がり、隣の店の前まで続いている。
「……祭りか?」
「違うよ!」
リオが叫んだ。
「全部うちのお客さん!」
マリクは頭を抱えた。
「……困ったな」
「普通は喜ぶところじゃない?」
「施術できなければ意味がない。並ばせたままでは、待っている人の体にも負担がかかる」
マリクは帳簿を閉じた。
「一日に何人までなら、安全に対応できる?」
エルナが答える。
「施術内容によりますが、現在の体制では十人前後が限界かと」
「百人の十分の一か」
「はい」
リオがため息をついた。
「これじゃ、毎日断る人が増えちゃうね」
マリクは考え込んだ。
客が増えるのはありがたい。
だが、無理をすれば施術の質が落ちる。
体調の確認を省くわけにはいかない。
その日の昼前、列の最後尾で一人の老人が膝をついた。
「具合が悪いのか!」
マリクが駆け寄ると、老人は青い顔で首を振った。
「昨夜から何も食べておらん。順番を失いたくなくて……」
「順番より体が先だ」
マリクはカインに椅子を運ばせ、エルナに近くの医師への連絡を頼んだ。
「施術で何とかならないんですか?」
列の客が尋ねた。
「今ここで必要なのは脂肪を動かすことじゃない。体調を診てもらうことだ」
医師が到着するまで、ミアが老人のそばについた。
やがて老人が馬車で運ばれると、列にいた客の一人が小さく頭を下げた。
「……俺も朝から並んでた。明日から予約にするっていうなら、そうしてくれ」
マリクは全員に聞こえるように答えた。
「今日ここに並んだ方には、受付順を記録します。ただし、施術の可否は別です。医師の診察が必要なら、そちらを優先します」
不満の声は残った。
それでも、誰かが倒れるまで待たせる仕組みを続けるわけにはいかなかった。
「……仕組みを変えよう」
マリクは立ち上がった。
「全員、集まってくれ」
工房の奥に、リオ、エルナ、カイン、ミアが集まった。
「今日から、仕事の分担を見直す」
マリクは紙を広げた。
「まず、受付」
列が短くなった夕方、ミアが空になった水桶を持ってきた。
「今日、何回も水を汲みました。待つ人がいなくなれば、いらない仕事ですか?」
「いや。今日必要だった仕事だよ」
マリクは答え、翌日の案内板に『長時間並ばないでください』と書き足した。
予約制度は、客のためだけではない。
支える側が無理をしないための仕組みでもあった。
エルナが手を挙げる。
「私ですね」
「ああ。予約、施術希望の聞き取り、料金の説明を頼む」
「承知しました」
「次に、施術室の準備」
カインが頷く。
「俺がやります」
「寝台の整備、道具の管理、客の案内も頼む」
「任せてください」
「ミアは清掃と、施術後の休憩室を担当してくれ」
「はい!」
ミアは元気よく返事をした。
「リオは、俺の補助だ」
「うん!」
「施術前後の確認と、記録の整理を頼む」
「任せて!」
マリクは全員を見渡した。
「それから、一つ決めたいことがある」
「何ですか?」
エルナが尋ねる。
「予約の優先順位だ」
全員が黙った。
「今までは、基本的に早く来た人から受けていた」
「そうだね」
リオが頷く。
「でも、朝から並べない人もいる」
マリクは続けた。
「仕事がある人、遠くから来る人、体調が悪くて長時間待てない人」
エルナが頷いた。
「確かに、公平とは言い切れません」
「だから、予約制を基本にする」
マリクは紙に書いた。
『通常予約』
『相談優先枠』
『緊急性が疑われる場合は医師へ紹介』
「……最後は施術じゃないんだね」
リオが尋ねた。
「ああ。俺は医者じゃない」
マリクは答えた。
「危険な状態の人を、脂肪転移だけで何とかしようとするのは間違いだ」
エルナが微笑んだ。
「良い判断だと思います」
翌日。
新しい予約制度が始まった。
工房の前には、大きな案内板が設置された。
『当工房は予約制です』
『施術前に希望内容と体調を確認します』
『安全上の理由により、施術をお断りする場合があります』
『体調不良や病気が疑われる場合は、医師への相談をお勧めします』
案内板を見た客たちは、さまざまな反応を示した。
「予約制になったのか」
「これなら朝から並ばなくて済むな」
「でも、すぐには受けられないのか……」
「仕方ないだろ。術師は一人なんだから」
マリクは窓からその様子を見ていた。
「……少しは落ち着いたか」
「うん」
リオが頷いた。
「でも、予約帳が大変なことになってる」
「何人?」
「来月まで、ほぼ埋まってる」
「……早すぎるだろ」
リオは笑った。
「人気者だからね」
「嬉しくない人気だな」
「贅沢!」
その日の午後。
一人の女性が受付に現れた。
年齢は四十代ほど。
服装は質素だった。
「……すみません」
エルナが顔を上げる。
「はい」
「予約をしたいのですが……」
「ありがとうございます。ご希望の施術は?」
女性は少し迷った。
「……娘のことで」
エルナの表情が変わった。
「お嬢様ですか?」
「はい」
女性は小さく頷いた。
「娘は、昔から体が細くて……」
「体のほかの場所から脂肪を移したいということでしょうか」
「そうです」
女性は手を握りしめた。
「最近は、食事もあまり取れなくなってしまって」
エルナはすぐにマリクを呼んだ。
「……食事が取れない?」
マリクが尋ねる。
女性は頷いた。
「はい。医者にも診てもらっています。でも、なかなか良くならなくて……」
「娘さんは今、どこに?」
「家で休んでいます」
マリクは少し考えた。
「まず、担当の医師と話をさせてもらえませんか」
女性は驚いた。
「……施術していただけないのですか?」
「できるかどうか、まだ分かりません」
マリクは正直に答えた。
「俺の術では脂肪を新しく増やせません。まして病気を治すこととは別ですから」
女性はうつむいた。
「……そうですか」
「でも、話は聞きます」
マリクは続けた。
「医師が必要だと判断し、本人も望むなら、できることを考えたい」
女性の目に涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
女性が帰った後。
リオが静かに尋ねた。
「……助けられるかな」
「分からない」
マリクは答えた。
「でも、何もしないで決めつけるのは違う」
リオは頷いた。
「……うん」
その日の夕方。
エルナが新しい報告を持ってきた。
「マリクさん」
「どうした?」
「王都美容商会が、別の施術師を雇ったそうです」
「……別の施術師?」
「はい。脂肪転移に似た効果を持つ魔術を使える、と宣伝しています」
マリクの表情が変わった。
「そんな術があるのか?」
「詳しくは分かりません」
エルナは続けた。
「ただ、施術料金は、うちの半額だそうです」
リオが驚いた。
「半額!?」
マリクは窓の外を見た。
客を奪うための対抗策。
それだけなら、商売の競争だ。
だが、気になることがあった。
「……安全性は確認されているのか?」
エルナは首を振った。
「不明です」
マリクは静かに呟いた。
「……安全性を確かめないまま、安さだけで選んでほしくないな」
マリクはエルナに頼んだ。
「うちの客にも、どんな術か分からない以上、効果を断言できないと伝えてくれ。相手の悪口は言わなくていい」
「承知しました」
数日後、その慎重な言葉が必要になる事件が起きた。




