第二十一話 金貨百枚で脂肪転移の秘密を売れと言われました
「……金貨百枚?」
リオの声が裏返った。
「ひゃ、百枚!?」
マリクは書状をもう一度確認した。
間違いない。
金貨百枚。
冒険者時代の自分なら、何年働いても手にできなかった大金だ。
「……すごい金額だね」
リオが呟く。
「ああ」
「これだけあれば、工房をもっと大きくできるよ」
「そうだな」
「新しい施術室も作れるし、従業員も増やせるし……」
リオは指を折り始めた。
「おいしいものもいっぱい食べられる!」
「最後だけ目的が違うぞ」
「大事だよ!」
マリクは苦笑した。
だが、すぐに書状へ視線を戻した。
問題は金額ではない。
条件だった。
『脂肪転移魔術の術式、発動条件、制限事項、施術技法について、知り得る情報をすべて当商会に提供すること』
『当商会の許可なく、第三者へ同様の情報を開示しないこと』
『今後、当商会の指定する顧客を優先して施術すること』
マリクは最後の一文で手を止めた。
「……これは駄目だな」
「どうして?」
「商会が指定した客を優先するって書いてある」
「それって……」
「金持ちばかり来ることになるかもしれない」
リオの表情が曇った。
「……そっか」
マリクは書状を机に置いた。
「それに、秘密を全部渡せと言われても、俺自身、分かっていないことが多い」
「そうなの?」
「そうだ」
マリクは右手を見つめた。
脂肪転移。
触れた相手の脂肪を、別の場所へ移す。
別の人間の体へ移すことはできない。
だが、なぜそれが可能なのか。
魔力がどう働いているのか。
脂肪以外の物質には作用しないのか。
分からないことばかりだった。
「……よく考えたら、変なスキルだよな」
「今さら?」
リオが笑った。
「普通、脂肪を移す魔法なんて聞いたことないよ」
「俺もない」
「だからハズレ扱いされたんでしょ」
「そうだったな」
マリクは小さく笑った。
だが、笑って済ませられないこともある。
この能力が他人に利用されたらどうなるのか。
本人の同意なく体型を変える。
危険な量の脂肪を移す。
誰かの体を、本人の意思に反して変える。
そんな使い方も考えられた。
「……やっぱり、売れないな」
マリクは呟いた。
翌日。
ベルドが再び工房を訪れた。
今度は一人ではない。
二人の護衛を連れていた。
「ご検討いただけましたかな?」
応接室に入るなり、ベルドは尋ねた。
「はい」
マリクは答えた。
「お断りします」
ベルドの笑顔が引きつった。
「……理由を伺いましょう」
「条件が合いません」
「金貨百枚ですよ?」
「分かっています」
「あなたのような若者が、一生かけても稼げるか分からない金額です」
「今は工房の売上がありますから」
「……そういう問題ではないでしょう!」
ベルドは思わず声を荒らげた。
マリクは静かに相手を見た。
「では、どういう問題です?」
ベルドは咳払いした。
「当商会は、あなたの技術を広く普及させたいのです」
「それなら、独占する必要はありませんよね」
「……」
「安全な施術方法を広めるなら、協力する余地はあります」
マリクは続けた。
「でも、俺が誰に施術するかまで商会が決めるのは困ります」
ベルドは目を細めた。
「……あなたは、自分の立場を理解していない」
「どういう意味です?」
「あなた一人が、その能力を使えるのでしょう?」
「今のところは」
「ならば、あなたが倒れたら終わりです」
マリクは黙った。
ベルドは続けた。
「病気、事故、魔力の枯渇。何が起こるか分からない」
「……確かに」
「だからこそ、技術を商会に預けるべきなのです」
その言葉には、一理あった。
マリク自身も、以前から考えていた。
自分一人に依存する事業は危うい。
予約が増え続けても、施術できる人数には限界がある。
だが、それは独占契約を結ぶ理由にはならない。
「その問題は、俺たちで考えます」
「……頑固な方だ」
ベルドはため息をついた。
「では、金貨二百枚なら?」
リオが息を呑んだ。
マリクは首を振った。
「同じです」
「三百枚」
「お断りします」
「五百枚!」
「……値段を上げても変わりませんよ」
ベルドは黙り込んだ。
護衛の一人が、わずかに身じろぎした。
だが、マリクは視線を逸らさなかった。
「……分かりました」
ベルドはゆっくり立ち上がった。
「これ以上の交渉は無意味なようですな」
「そうですね」
「ですが、覚えておいてください」
ベルドの声が低くなる。
「商売は、能力だけでは続けられません」
マリクは頷いた。
「それは知っています」
「……ほう?」
「だから、仲間を雇いました。記録を残し、必要なら医師にも相談する。俺が一人で全部を決めない仕組みを作るつもりです」
ベルドは一瞬、言葉を失った。
「……失礼する」
男は護衛を連れて出ていった。
扉が閉まる。
リオが大きく息を吐いた。
「……怖かったぁ!」
「そうか?」
「金貨五百枚だよ!?」
「そっちか」
「だって、五百枚もあれば……!」
リオは想像を膨らませた。
「大きな家を買って、毎日お肉を食べて……!」
「また食べ物か」
「大事なんだってば!」
マリクは笑った。
そのとき、エルナが入ってきた。
「マリクさん。少しよろしいでしょうか」
「どうした?」
「商会の件です」
エルナは真剣な表情だった。
「向こうが諦めるとは思えません」
「俺もそう思う」
「今後、仕入れや建物の賃貸、従業員の雇用にまで圧力をかけてくる可能性があります」
マリクは頷いた。
「対策は?」
「まず、取引先を一つに絞らないことです」
「なるほど」
「それから、領主様の後援契約を早めに確認した方がよいかと」
「確かに」
マリクは書類を取り出した。
前日に領主から受け取った後援契約。
エルナはすでに内容を確認していた。
「大きな問題はありません。ただし、こちらからも条件を追加したいです」
「どんな?」
「工房の施術方針には、領主様も介入しないこと」
マリクは少し驚いた。
「領主様にも?」
「はい。今は良好な関係でも、将来どうなるか分かりません」
マリクは笑った。
「……頼もしいな」
エルナは少し照れた。
「仕事ですから」
その日の夕方。
工房の奥では、カインが施術用の寝台を修理していた。
ミアは清掃道具を片づけている。
リオは受付帳を整理していた。
マリクはその光景を見つめた。
少し前まで、この工房には自分とリオしかいなかった。
今は五人いる。
そして、五人それぞれに役割がある。
「……一人じゃないんだな」
思わず呟く。
リオが顔を上げた。
「何か言った?」
「いや」
マリクは笑った。
「何でもない」
翌朝。
工房の前に、見慣れない男が立っていた。
痩せた顔。
安物の上着。
疲れ切った目。
男は受付へ来ると、小さな声で尋ねた。
「……ここで、脂肪を移してもらえるんですか?」
「はい」
エルナが答えた。
「ご希望は?」
男は少し迷った。
そして、上着の袖をまくった。
腕は細かった。
「……もっと丈夫な体になりたいんです」
マリクは男を見つめた。
「腕を太く見せたいのか。それとも、力が出るようになりたいのか?」
「……力が欲しいんです」
「脂肪を移しても筋力は増えない。仕事で困っていることがあるのか?」
男はうつむいた。
「仕事を続けたいんです」
その声には、切実な響きがあった。
「……最近、体がもたなくて。荷を運ぶたび、息が切れるんです」
「それなら、腕の見た目を変える前に、体調を診てもらった方がいい。俺の術で筋力や体力は増やせないから」
男の顔が曇った。
「……ここでも、駄目ですか」
「話を聞かないとは言ってない。医師に伝える症状を、一緒に整理しよう」
マリクは椅子を勧めた。
「詳しく聞かせてくれ」
脂肪転移。
それは、体型を整えるだけでは済まない相談を呼び込む力でもあった。
マリクは初めて、そんな予感を抱いた。




