第十九話 領主様の婚約者が工房にやってきました
朝の工房には、いつもと違う緊張が漂っていた。
「……マリク」
リオが受付帳を抱えたまま、こちらを見た。
「今日は、ちょっと大変な人が来るよ」
「毎日大変な人ばかり来てるだろ」
「そういう意味じゃなくて!」
リオは声を潜めた。
「領主様の婚約者!」
マリクは手を止めた。
「……昨日、婚約が決まったばかりだよな?」
「そうだよ。なのに、もう予約が入ってるの」
「仕事が早いな」
「領主様に似てるのかも」
リオは苦笑した。
前夜、領主の館で婚約の報告を聞いたばかりだった。
脂肪転移によって体型が変わり、見合いが増え、そのまま婚約まで決まったという。
あまりにも展開が早かった。
だが、領主が喜んでいたことだけは確かだった。
「それで、希望内容は?」
マリクが尋ねると、エルナが一枚の紙を差し出した。
「それが……」
「何だ?」
「何も書かれていません」
「……は?」
希望欄は空白だった。
名前と来訪予定時刻だけが記されている。
「本人が直接説明したいそうです」
「なるほど」
マリクは紙を机に置いた。
「なら、来てから聞こう」
「緊張しないの?」
リオが不思議そうに尋ねる。
「何で?」
「領主様の婚約者だよ?」
「だから?」
「……本当に変わらないね」
「貴族だろうが平民だろうが、脂肪は脂肪だ」
「それ、本人の前では言わない方がいいと思う」
「……気をつける」
そのやり取りを聞いていたカインが、小さく笑った。
午前十時。
工房の前に、一台の馬車が止まった。
黒く磨かれた車体。
銀の装飾。
扉には領主家の紋章が刻まれている。
周囲の客たちがざわめいた。
「領主様の馬車だ」
「誰が来たんだ?」
「まさか、ご本人か?」
馬車の扉が開いた。
最初に降りてきたのは、年配の侍女だった。
続いて、一人の女性が姿を現した。
年齢は二十代半ばほど。
淡い青色のドレスをまとい、髪を丁寧にまとめている。
美しい女性だった。
少なくとも、マリクにはそう見えた。
だが、その表情は硬かった。
「こちらが脂肪転移の工房でしょうか」
侍女が尋ねる。
「はい。ご予約の方ですね」
エルナが丁寧に応対した。
女性は小さく頷いた。
「セシリアと申します」
その名を聞いた瞬間、周囲が静かになった。
領主の婚約者。
それだけで、この場にいる誰もが姿勢を正した。
ただ一人、マリクを除いて。
「マリクです。どうぞ、中へ」
セシリアは少し驚いたように彼を見た。
「……あなたが?」
「はい」
「もっと年配の方だと思っていました」
「よく言われます」
「そうなのですか?」
「いえ。今、初めて言われました」
リオが後ろで吹き出した。
セシリアも、ほんの少しだけ笑った。
応接室に通されると、セシリアは椅子に腰を下ろした。
侍女は扉の近くに控えている。
マリクは向かいに座った。
「それで、ご希望は?」
セシリアはすぐには答えなかった。
視線を落とし、膝の上で指を組む。
「……婚約者のことは、ご存じですね」
「昨日、本人から聞きました」
「あなたのおかげで、あの方は大きく変わられたそうです」
「体型は変えました」
マリクは答えた。
「それ以外は、ご本人の努力でしょう」
セシリアは静かに頷いた。
「以前のあの方は、人前に出ることをあまり好まれませんでした」
「そうなんですか」
「ええ。宴席でも壁際に座り、舞踏会にもほとんど参加されなかったそうです」
マリクは領主の顔を思い浮かべた。
昨日のあの上機嫌な姿からは、想像しにくい。
「ですが、最近は違います」
セシリアは微笑んだ。
「よく笑われます。よく歩かれます。そして、私にも積極的に話しかけてくださるようになりました」
「いいことですね」
「はい」
そこで、セシリアの笑顔が消えた。
「……だからこそ、怖いのです」
マリクは黙った。
セシリアはゆっくり顔を上げた。
「私は、あの方にふさわしい女性なのでしょうか」
「……どういう意味です?」
「婚約が決まってから、何度も言われました」
セシリアの声が小さくなる。
「領主様は見違えるほど立派になられた。あなたも、それにふさわしい姿にならなければならない、と」
リオの表情が変わった。
「そんなこと……」
セシリアは苦笑した。
「貴族の婚姻とは、そういうものなのです」
「それで、体型を変えたいと?」
マリクが尋ねる。
「……はい」
「どこを?」
セシリアは答えられなかった。
しばらくして、小さく呟いた。
「……分からないのです」
「分からない?」
「私は、自分のどこを変えればよいのでしょう」
マリクはセシリアを見つめた。
不健康なほど痩せているわけではない。
極端に脂肪が多いわけでもない。
少なくとも、外見だけで施術の必要性を判断できる状態ではなかった。
「セシリア様」
「はい」
「ご自身では、どこを変えたいと思っていますか?」
「ですから、それが……」
「周囲の人間の意見ではなく、あなた自身の希望です」
セシリアは口を閉じた。
長い沈黙が流れた。
やがて、彼女は小さく首を振った。
「……ありません」
リオが目を丸くした。
「え?」
「私は……今の自分の体に、不満があるわけではないのです」
セシリアは恥ずかしそうに目を伏せた。
「ただ、あの方に嫌われるのが怖くて」
マリクは椅子に背を預けた。
「なるほど」
「……施術していただけますか?」
「今日は施術しません」
即答だった。
セシリアの肩がわずかに震えた。
「……私では、施術を受ける資格もないのでしょうか」
「違います。変える場所を決められないからではなく、今の体を変えたいというお気持ちが、まだ見つかっていないからです」
「ですが、お金なら……」
「金額の問題ではありません」
マリクは彼女の目を見た。
「俺のスキルは脂肪の位置を変えられます。でも、どんな姿なら幸せになれるかまでは分かりません。そこを俺が決めたら、あなたの体なのに、あなたの選択ではなくなってしまう」
セシリアは膝の上で固く組んでいた指を見つめた。
「……選ばなくても、よいのですね」
「今日、答えを出す必要はありません。施術を受けない自由もあります」
その言葉を聞いて、セシリアの指がようやくほどけた。
セシリアは目を伏せた。
「……では、私はどうすれば」
「領主様に聞いてみてはどうです?」
「何を、でしょう」
「今のあなたをどう思っているのか」
セシリアは驚いた。
「そ、そのようなことを直接?」
「婚約者ですよね?」
「そ、それは……」
「だったら、聞いてもいいと思います」
リオが横から口を挟んだ。
「私もそう思います!」
セシリアは困ったように二人を見た。
「……簡単におっしゃいますね」
「簡単ではないでしょうね」
マリクは頷いた。
「でも、聞かずに体を変えてしまう方が、もっと難しいことになるかもしれません」
セシリアは長い間、黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かりました」
「はい」
「一度、あの方とお話ししてみます」
マリクは頷いた。
「それがいいと思います」
セシリアは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「何もしていませんよ」
「いいえ」
彼女は微笑んだ。
「何もしないという選択を、してくださったのです」
その言葉に、マリクは少しだけ驚いた。
馬車が去った後、リオは予約票の希望欄を見つめた。
「空白のままでも、来てよかったんだね」
「ああ。今日は何を変えるかじゃなく、変えなくてもいいと本人が決めた日だ」
エルナは受付票に『本人の希望を確認。
施術なし』と記した。
売上はゼロだったが、誰の意思で決まったかだけは、はっきり残った。
リオがぽつりと呟いた。
「……今日、金貨を何枚か逃したね」
「ああ」
「後悔してる?」
「全然」
マリクは受付帳を開いた。
「希望していない施術をしたら、後で困るのは本人だ」
「……そうだね」
「それに」
「それに?」
「領主様の婚約者に勝手なことをしたら、面倒だろ」
「結局そこ!?」
リオが笑った。
マリクも小さく笑った。
だが、その日の夕方。
工房に一通の手紙が届いた。
差出人は、領主本人だった。
『セシリアから話を聞いた。
礼を言う。
明日、二人で訪ねたい』
リオは手紙を読み、目を輝かせた。
「二人で来るって!」
「ああ」
「どうするの?」
「普通に迎える」
「またそれ?」
マリクは肩をすくめた。
その翌日。
約束どおり、領主とセシリアが工房を訪れた。
領主はいつものように堂々としていたが、セシリアは少し照れくさそうだった。
「マリク」
領主が口を開いた。
「昨日、セシリアから妙なことを聞かれた」
「何でしょう」
「私にふさわしい体型とは何か、とな」
セシリアが顔を赤らめた。
「そのお話は……!」
領主は豪快に笑った。
「だから答えたのだ」
「何と?」
「私が婚約したのは、セシリア本人だ。体型と婚約した覚えはない、と」
リオが口元を押さえた。
セシリアは恥ずかしそうに俯いた。
だが、その表情は昨日よりずっと明るかった。
「……それで」
領主がマリクを見た。
「今日は別の相談がある」
「施術ですか?」
「いや」
領主は懐から一枚の書類を取り出した。
「お前の工房を、正式に後援したい」
マリクの表情が変わった。
「……後援?」
「資金だけではない。営業上の保護、取引先の紹介、必要な手続きの支援だ」
「条件は?」
マリクはすぐに尋ねた。
領主は満足そうに笑った。
「いい質問だ」
書類を机に置く。
「私が求めるのは、領内で安全に事業を続けること。そして、必要な者が正当な条件で施術を受けられるようにすることだ」
マリクは書類を手に取った。
細かな条件が並んでいる。
独占契約ではない。
領主家の専属術師になるわけでもない。
ただし、安全管理と記録の整備は求められていた。
「……悪くないですね」
「そうだろう」
「でも、即答はしません」
領主が眉を上げた。
「ほう?」
「エルナに内容を確認してもらいます。工房の運営に関わることですから」
領主は一瞬驚いた。
そして、大きく笑った。
「ははは! ますます気に入った!」
リオが小さく呟いた。
「……また領主様の機嫌がよくなった」
マリクは書類を机に置いた。
小さな工房。
かつては仕事を探すことさえできなかった自分。
その自分が今、領主から正式な後援を申し出られている。
だが、浮かれるわけにはいかなかった。
後援を受ければ、工房の信用は増す。
同時に、目立つことにもなる。
「……忙しくなりそうだな」
マリクが呟く。
リオは笑った。
「もう十分忙しいけどね」
そのとき、エルナが受付から顔を出した。
「マリクさん」
「何だ?」
「王都の美容商会から、書状が届いています」
「……美容商会?」
エルナの表情は硬かった。
「内容は、あまり穏やかではありません」
マリクは書状を受け取った。
封蝋には、王都最大手の美容商会の紋章。
そして、そこにはこう記されていた。
『貴工房の営業活動について、重大な懸念を表明する』
マリクは静かに笑った。
「……なるほど」
「どうしたの?」
リオが尋ねる。
「どうやら」
マリクは書状を机に置いた。
「俺たちの仕事を、面白く思わない連中が出てきたらしい」
工房の窓から、午後の光が差し込んでいた。
誰も価値を認めなかった能力。
その価値を認めたからこそ、奪おうとする者が現れる。
マリクは書状をもう一度見つめた。
今度の相手は、魔物でも冒険者でもない。
王都の商売そのものを動かしてきた人間たちだった。




