十一話:価値の反転
数日後。
工房の前にできた列は、もはや「列」と呼べるものではなかった。
人、人、人。
朝から並んでも、その日のうちに順番が来る保証はない。
「昨日は三十人断られたらしいぞ」
「選ばれないと無理なんだろ……」
ざわめきには、期待と不安が入り混じっていた。
「……増えすぎじゃない?」
リオが苦笑する。
「もう噂どころじゃないよ、これ」
マリクは帳簿を閉じた。
「予想以上だ」
「嬉しくなさそうだね」
「嬉しいさ。ただ、このままじゃ施術より受付に時間を取られる」
「……私だけじゃ、もう限界かも」
「ああ。話を聞いて、受けるか断るかを判断する人間が必要だな」
マリクは窓の外を見た。
「それに、何が何でも変わりたいって奴も増えた」
その日も、依頼人との面談が続いていた。
「腹の脂肪を全部なくしてくれ!」
「全部はできない」
「どうしてだ!」
「必要な脂肪までなくせば、体を壊す」
「金は払うぞ!」
「金の問題じゃない」
男は不満そうに顔を歪めた。
「だったら、できる範囲でいい!」
「それなら相談に乗る。ただし、体への負担を確かめてからだ」
男はしばらく黙っていたが、やがて渋々頷いた。
マリクは受付帳に印をつけた。
無理な要求は断る。
だが、依頼人そのものを切り捨てるわけではない。
それが、工房を続けるうえで必要な線引きだった。
「厳しいなぁ」
リオが小さく息を吐く。
「当然だ」
マリクは淡々と答える。
「人の体を変えるってことは、責任がある」
「……そうだね」
リオは受付帳に目を落とした。
そのとき、列の後方で小さな騒ぎが起きた。
「通してくれ!」
荒い声が人混みを割る。
前に出てきた男を見て、マリクの目が細くなった。
「……お前か」
そこにいたのは、かつてのパーティーのメンバーの一人だった。
リーダーではない。
だが、あの日、笑っていた側の男。
「マリク……!」
息を荒くしながら叫ぶ。
「頼む、俺も……!」
視線が集まり、周囲がざわつく。
「なんだ、知り合いか?」
「昔の仲間か?」
マリクはしばらく黙っていた。
あの日の光景が、脳裏をよぎる。
『お前のスキルじゃ前線は無理だ』
『街で頑張れよ』
あのとき、自分は何も言い返せなかった。
ただ、背を向けるしかなかった。
そして数日前。
酒場で再会した元リーダーの姿。
あの男の体に何が起きたのか、マリクだけは知っていた。
あのとき自分がしたことを、正当化するつもりはなかった。
だからこそ、目の前の男にも感情だけで判断するわけにはいかない。
「理由は?」
短く問う。
男は一瞬迷い、叫んだ。
「強くなりたい!」
だが、その声には焦りが滲んでいた。
「……具体的には?」
「戦える体にしてくれ! あの騎士みたいに!」
「脂肪の位置を変えるだけで、剣の腕は上がらないぞ」
「分かってる! でも、何か変えないと……!」
「……何があった?」
静かな問いだった。
男の表情が歪む。
「俺だって必死なんだよ!」
「リーダーが変な病気をもらったって噂になって……! 俺たちまで『性病団』なんて呼ばれるようになったんだ!」
周囲から失笑が漏れた。
男は顔を赤くした。
「笑うな!」
だが、笑い声はすぐには収まらなかった。
マリクは表情を変えなかった。
男は続ける。
「パーティーの評価がガタ落ちになって……!」
「落ちぶれて、仕事もなくて……!」
拳を握りしめる。
「あのときマリクを追放したのはリーダーの判断だ! 俺は反対したんだ……!」
マリクは男を見つめた。
「……そうだったか?」
男が言葉を詰まらせる。
「あの日、お前も笑っていたよな」
「そ、それは……」
「止めようとはしなかった」
沈黙。
周囲のざわめきが遠のく。
「……変わらなきゃ終わるんだよ!」
男は絞り出すように言った。
その言葉に、マリクはわずかに目を細めた。
「……遅いな」
ぽつりと呟く。
「は?」
「追い詰められてから来た」
一歩、近づく。
「それ自体は悪くない。誰だって、追い詰められて初めて気づくことはある」
男が顔を上げる。
「だが、お前はまだ自分が失ったものの話しかしていない」
「……何?」
「評判が落ちた。仕事がなくなった。強くなりたい」
マリクは淡々と続けた。
「それで、俺にどうしてほしいんだ?」
「だから、体を……!」
「体が変われば、仲間との関係も、失った信用も全部戻ると思うか?」
男は答えられなかった。
マリクは視線を外さない。
「俺ができるのは、脂肪を移すことだけだ」
「……」
「お前の過去まで変えられるわけじゃない」
周囲が静まり返る。
男は唇を噛んだ。
「……分かってるよ」
「何?」
「分かってるって言ってるんだ!」
男は拳を握りしめた。
「俺だって……あのとき、お前を笑ったことくらい覚えてる!」
その声は震えていた。
「お前が追放されたとき、俺は何も言わなかった。リーダーに逆らったら、今度は俺が追い出されると思ったからだ」
マリクは黙って聞いていた。
「だから笑った。みんなと一緒に笑っていれば、自分だけは安全だと思った」
男はうつむいた。
「……最低だったよ」
その言葉に、マリクの表情がわずかに変わった。
「でも、今さら謝ったって、あのときのことは消えないだろ?」
「ああ」
マリクは即答した。
「消えない」
男の肩が落ちた。
「……だよな」
「だが、これからどうするかは変えられる」
男が顔を上げた。
マリクは続けた。
「お前は、俺を追放した連中と一緒にいた」
「……ああ」
「だが、これからも同じことをするかどうかは、お前自身が決めることだ」
男は何も言わなかった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ……」
男の声は、さっきよりも小さかった。
マリクは少しだけ考え、そして言った。
「三日後、もう一度来い」
リオが驚く。
「いいの?」
「ああ」
男は顔を上げる。
「その間に考えろ」
マリクは視線を外さない。
「変わった後、どう生きるかをな」
「……それだけでいいのか?」
「それだけじゃない」
マリクは続けた。
「今のお前に、脂肪転移で何ができるのか。それも考えてこい」
「……どういう意味だ?」
「俺の力は万能じゃない。強くなるために必要なことまで、全部代わりにやってやれるわけじゃない」
男は黙り込んだ。
「それでも施術を受けたいなら、三日後に話を聞く」
「……分かった」
男は深く頭を下げた。
「三日後、必ず来る」
そして、少し迷ってから口を開いた。
「……マリク」
「何だ?」
「あのときは……悪かった」
短い言葉だった。
言い訳も、取り繕いもなかった。
マリクはしばらく男を見つめた。
「……聞いた」
それだけ答えた。
男はもう一度頭を下げ、工房を後にした。
あの日、男は自分を見送った。
今度は、自分が男の背中を見送っている。
だが、同じことを繰り返すつもりはなかった。
少なくとも、今は。
人混みが再びざわめき始める。
「チャンスもらえたぞ……」
「昔の仲間でも特別扱いしないんだな」
「でも、門前払いもしなかったぞ」
空気が、わずかに変わる。
リオが小さく笑った。
「完全に『選ぶ側』だね」
「そうだな」
マリクは静かに答えた。
「……でも、昔の仲間だからって、断るわけじゃないんだね」
マリクは少しだけ考えた。
「断る理由があるなら断る」
「うん」
「だが、昔のことだけで決めたら、俺もあいつらと同じになる」
リオは驚いたようにマリクを見た。
そして、小さく笑った。
「……変わったね、マリク」
「そうか?」
「うん」
マリクは肩をすくめた。
「まあ、俺もいろいろあったからな」
リオは受付帳を閉じた。
「ねえ、マリク」
「何だ?」
「三日後、あの人が本当に変わってたら?」
マリクは窓の外を見た。
人混みの向こうに、男の背中が小さく見えていた。
「そのときは、きちんと話を聞くさ」
「許してあげるの?」
「それとこれとは別だ」
マリクは静かに答えた。
「施術を受ける資格と、俺があいつを許すかどうかは関係ない」
リオは少し考え、頷いた。
「……そっか」
「ああ」
マリクは小さく笑った。
「俺は人の体を変えられる。でも、人の心まで好き勝手に変えられるわけじゃない」
「うん」
「変わるかどうかは、本人が決めることだ」
夕日が、工房の看板を照らす。
――脂肪転移魔術師 マリク。
かつて、マリクは選ばれる側だった。
役立たずと決めつけられ、居場所を奪われた。
今は違う。
自分の力を必要とする人々が、工房の前に列を作っている。
選ばれる側と、選ぶ側。
その立場は、完全に逆転していた。
だが、マリクは知っていた。
選ぶ力を持ったからといって、誰かを見下していいわけではない。
かつて自分を笑った者と、同じことをしてはならない。
力を持つということは、責任を持つということだ。
そして、その責任を果たすことこそが、今の自分にできる本当の仕事だった。
三日後。
あの男が何を語るのか。
マリクには、まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
変えられるのは、脂肪の位置だけではない。
人は、自分の生き方を変えることもできるのだ。




