96
パリンっと音を立てて割れたのは彼が王妃からその存在を辿られないようにするため常に胸元につけていた赤いブローチだった。
「・・・・これは・・」
「・・・・一か八かだったが、何とかなったな」
そう言って安堵の息をついたのはエゼキエルだった。エゼキエルは茫然としたまま座り込む私の傍に膝をつくと砕けたブローチの欠片を拾い上げた。
「・・・エゼキエル」
「万が一、彼の呪いが発動して命が脅かされたときのための保険を作っておいたんだ」
「・・・保険、ですって?」
問いかけたのは先ほどまで嬉しそうな笑い声をあげていた王妃だった。上機嫌に微笑んでいたその表情が初めて崩れ気分を害したように苛立った表情をしている。
「ああ。呪いの媒介は血。呪いは彼の心臓に直接作用して死をもたらす。だから彼の血を空の魔石にこめて呪いの効力を抑えるもう一つの器、仮初の心臓を作っておいた。いつか必ず彼を殺すであろうあなたの悪意に一矢報いるために」
それは魔塔主であるエゼキエルだからこそできる反撃。そして、自らと同じように王妃の悪意によって自分と大切な人の運命を狂わされたヒースクリフにできる救済。エゼキエルの言葉に倒れているヒースクリフを見るとぐったりとして目を閉じる彼の胸は呼吸のためにわずかに上下していた。
「・・・さすが、魔塔主といったところかしら。けれどいいの?せっかく救ったところでその傷では確実に命を落とすでしょうね」
王妃の言葉通りだ。ヒースクリフの背中からは変わらず血が流れ続けている。呪いを一時的に食い止めることが出来たとしても致命傷は変わりない。エゼキエルは真剣な眼差しで私を見つめた。
「・・・アリス。君の力が必要だ」
「っ!!何を言っているんですか!!」
エゼキエルの言葉に真っ先に反論したのはマティアスだった。けれど、エゼキエルは食らいつくような気迫のマティアスに構うことなく言葉を続けた。
「この世界に生きる全ての時間を動かしてしまえば君は相応の代償を払うことになる。だが、彼の傷と進行してしまった呪いだけの時間を戻す・・それなら、君の代償は最小限で済ませることができる」
「傷と、呪いだけの時間を・・」
できるかどうかなんてわからない。けれど、できなければヒースクリフは死んでしまう。それなら私のすべきことは1つだ。
(できるかどうかじゃない。絶対にやるんだ)
血に濡れた手でヒースクリフの胸に手を当てる。上下しているその胸が彼の命があることを知らせてくれる。目を閉じて呪いの印に意識を集中させたとき
「私も力を貸そう」
すぐ傍で声が聞こえてハッとして顔を上げる。そこにいたのは紛れもなく、私に聖女として力を授けたアストラだった。けれど彼の姿はどこかぼんやりと半透明に透けている。アストラは力なく横たわるヒースクリフを見つめていた。
「・・・やはり、今がそのときなのだな」
「・・・その姿・・・それに、どうしてここに・・・」
人間の争いに関わらないと言っていたのは紛れもないアストラ自身だ。だからこそ、ヒースクリフの提案にも首を振り、その手を取ることは無かった。だからこそ、何が起きてもきっと姿を現すことはないだろうと思っていたのに。
「今は思念体を飛ばしている。・・・・ここへ来たのは――」
アストラは音もなくしゃがむと私の右手に自身の左手を重ねた。
「もう、後悔しないためだ」
透けた彼の手はわずかにしか触れている感覚がなく、手のひらの暖かさを感じない。けれど、ドラゴンの存在に反応するみたいに聖女の紋章が光を放ち始める。
「代償は全て私が引き受ける。だから迷うな。呪いの芽を摘み取ることをイメージするんだ」
「・・・でも、またあなたのに代償を・・」
前回の回帰でアストラは私と代償を分け合った。その代償は決して軽いものではなかったはずだ。その証拠に長い間眠りについていたのだから。ためらった私の言葉にアストラは静かに首を横に振る。
「構わない。お前たちが失われていくのを見て、ようやく思い出した。私はただ形だけ国を守るためにいるのではない。・・・・この国に生きる大切なものたちを守るという彼女との約束のためにここにいるのだと。それが、今は亡き彼女・・ティアにできることなのだとお前が気づかせてくれた。礼を言う、アリス」
無表情しか見せることのなかったアストラがわずかに微笑んだ。鼻の奥がツンとしてジワリと目に涙が浮かんだ。けれど泣いている場合じゃない。ぐっと涙を拭ってアストラを見つめた。
「お願いします。私とともに、彼を助けてください」
「あぁ。大丈夫だ、これの力も使えば必ず上手くいく」
「それは・・・」
アストラは右手をヒースクリフの首飾りにかざした。それは、ヒースクリフがかつて母から譲り受けたという唯一の物。アストラの声に応えるみたいに首飾りが聖女の紋章と同色の光を放ち、力で満たされていくのがわかる。かざした手のひらに時計の文字盤のような光が浮かび上がり文字盤の光の針がくるくると左に回っていく。まるで巻き戻すみたいにヒースクリフの身体を侵食していた茨の模様が収束し、黒薔薇が蕾へと戻っていく。絶え間なく血が流れていた背中の傷も同様に覆われていく。茨と黒薔薇の印は心臓の真上に収束すると真っ黒な芽になり、やがて枯れるようにボロボロと崩れて消えていった。
「ぐっ・・」
「ヒースクリフ?」
わずかなうめき声に目を向けると共に固く閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。よく晴れた日の青空のような瞳が私の姿を映す。
「夢じゃない・・・俺はまた、君に会えたんだな」
死を目前にしていたとは思えないほど穏やかな表情で彼が笑い、感触を確かめるように彼の手が頬に触れた。いつからだろうか、憎しみしか宿っていなかった彼の瞳には回帰前と同じような光が宿っていた。それは真っ直ぐに私に向けられている。
「何度だって・・・私があなたに会いに行くわ」
頬に伸ばされた手をしっかりと握りしめる。そこには、確かに取り戻した彼の温度が宿っていた。
そのとき、バキンッと何かが割れるような大きな音がした。
「まさかっ!・・やめて!!」
バキッパキンと絶え間なく音を立てていたのは先代の聖女、アマリリスが納められている氷の棺と胸に刺されていた短剣だった。王妃の悲鳴のような叫びも虚しく、棺と短剣は呪いという要を失ったことを証明するようにひび割れ、大きな音を立てて砕け散った。支えを失って倒れるアマリリスの身体を支えたのはアストラだった。
「・・・助けるのが遅くなってすまない」
アストラはまるで眠っているように力なく腕に寄りかかる先代の聖女に、慈しむように謝罪すると壊れものを扱うみたいにそっと彼女の身体を横抱きにした。
「・・・お前・・」
「ヒースクリフ」
振り返ったアストラが初めて、ヒースクリフの名を呼んだ。人の死を恐れその名を呼ぶこともためらっていた彼が先代の聖女の子としてではなく、初めてヒースクリフという個人に言葉をかける。
「これが、今の私にできる君への答えだ。後は頼む」
ただ一言それだけを言うとアストラはアマリリスの身体を抱えたまますっと空気に溶けるみたいに消えていった。
「ありがとう」
私の声が届いたのかはわからない。けれど、消えていく最後の瞬間、アストラは薄く笑っていたように見えた。
「・・・・・・そう・・・それがあなたたちの愛なのね」
王妃の冷めきったような声でハッとして視線を向ける。自らの執着先であったヒースクリフの呪いを打ち消されアマリリスの棺を失った彼女は無表情から一転して嘲笑うようなぞっとする笑みを見せる。
「でも残念。あなたたちの愛はとても素敵だけれどここで終わりなの」
「お前の狙いは俺のはずだ・・・彼女に手を出すな」
ヒースクリフはふらつきながらも身体を起こすとかばうようにその背で私の姿を隠す。今までヒースクリフに異常な執着を見せていたはずの王妃は興味を失ったように冷めた目でこちらを見据えた。
「結末を見届けた以上、あなたにもう用はないわ。それに、こうなってしまった以上あなたたち・・いえ、彼女は真っ先に殺しておかないといけないのよ」
「母上!もうやめてください!!」
王妃の視線と殺意は真っ直ぐに私に向けられていた。自らの母の行動を止めようとルーカスが剣を構えて対峙する。まるで必要に迫られているような王妃の言葉の意図を考える間もなく王妃の手が魔法を放とうと私へとかざされたとき――
「ローザ」
王妃の名を呼ぶ声が静かに響いた。場を制するその声とともにコツ、コツと靴音が背後から聞こえ、その場にいた全員の視線がその人物へと向く。異様なこの状況でも取り乱すことがない悠然とした姿、他者を寄せ付けないような鋭い眼差しが見るものを自然と平伏させるような気迫がある。
「あなた・・・」
呆気にとられたように自らの最愛の人を呼んだのは王妃であるローザだ。現れたのはこの国の王、アドニス・ランドルフ・ティアレインその人だ。転移させられた場から向かってきたのだろう。アドニスは兵を従えてゆっくりと舞踏会場へと足を踏み入れる。状況を把握するように周囲を一瞥すると、ふと私に視線が向けられた。何を考えているのかわからない金の瞳と目が合い、時間が止まったような緊張感が漂う。
「アドニス!愛しい人、こちらへ来て頂戴」
こんな状況でもローザは臆することはなくアドニスを呼ぶ。彼女の声にアドニスは王妃の声に応えるように私たちのそばをすり抜けて歩いていく。この2人以外声を発することができなかった。皆が王妃の愚行を前にした王の行動の行方を見守っていたから。
「ローザ。何をしている。これはどういうことだ」
「聞いてちょうだい!彼らは王家に反旗を翻しているの。私はただ邪魔者を排除しようとしているだけなのよ」
厳しい視線と声でアドニスはローザを咎める。けれどローザは自らの行いを悔いる様子はなくまるで自分に罪などないというようにアドニスに言い寄る。自らの行動をかえりみることのない妃の言動にアドニスは顔をしかめる。
「こんなことはやめろ」
けれどローザには通じなかったらしい。不思議そうに小首をかしげた。
「どうして?王家にあだなす者を捨て置くわけにいかないでしょう?見てて頂戴。聖女も、魔塔主もルーカス以外、私たちの邪魔をする者は皆私が始末するわ」
王妃は甘えるように王の身体を抱きしめた。対して国王は彼女の背を抱きしめるわけでもなく抑揚もなく一言呟いた。
「・・・そうか」
その瞬間、その場にいる誰もが目の前の光景を信じられず状況を理解することができなかった。
「・・・・・え?」
戸惑ったようにローザが自らの腹部を見る。その腹は剣によって貫かれ、鮮血に染まっていた。何が起きたのかわからない。ただ1人、王妃に剣を突き立てた国王、アドニス以外は。
「母上っ!!」
ルーカスの叫び声が響き渡る。ローザはアドニスから身体を離すと血に染まる自分の腹に手をあてて自分の手を見た。それからゆっくりとアドニスを見た。
「・・・・ア、アドニス?」
戸惑ったように自らの名前を呼ぶローザをアドニスはただ冷酷に見下ろしていた。そこには愛、憎しみ、悲しみなんて感情はない。まるで興味をなくしたおもちゃをゴミ箱に捨てるように表情を変えなかった。
「私の命令を聞かない者はいらない。それに、お前にもう価値はない」
そう言ってためらいもなくアドニスはローザの腹を貫いた剣を引き抜いた。力任せに剣を抜かれたローザは血をまき散らしながらなすすべもなく倒れ伏した。
読んでいただきありがとうございます。




