第7話:明日から鍛錬と言われたけど、俺槍なんか持ったことないんだが!?
「信長さま」
「ひゃいっ!」
後ろから声をかけられ、俺は飛び上がった。
振り返る。
濃姫だった。
「……そのように驚かなくとも」
「す、すみません」
濃姫が少し寂しそうな顔をする。
やめてくれ。
そんな顔をされると、俺が悪いみたいじゃないか。
いや。
祝言の夜に嫁を放置して納屋へ逃げたのだから、たぶん俺が悪い。
「今日はずいぶんと働いていらっしゃるのですね」
「まあ……」
「先ほど、薪を運んでいるところも拝見いたしました」
「見てたんですか?」
「はい」
恥ずかしい。
濃姫は俺の顔を見て、微笑んだ。
「信長さまは、お優しいのですね」
「え?」
「家の者にまで、あのように親切になさって」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
純粋に褒められると困る。
本当は、本能寺で殺されたくないからやっているだけなのだ。
「……普通ですよ」
「普通?」
「人に優しくしておけば、その人も優しくしてくれるかなって」
濃姫が目を丸くした。
しまった。
ちょっと本音が出た。
「だから俺は、できるだけ誰とも争いたくないんです」
「……争いたくない?」
「はい」
俺は頷いた。
「できれば、一生」
濃姫はしばらく黙っていた。
まずかったか?
戦国武将が「争いたくない」なんて言ったら、情けないと思われるのかもしれない。
だが、濃姫は笑わなかった。
「不思議なお方ですね、信長さまは」
「よく言われます」
主に悪い意味で。
「でも」
濃姫が少しだけ俺に近づいた。
「私は、そのような信長さまもお好きです」
「…………」
え?
「では」
濃姫はそのまま去っていった。
俺は一人、廊下に取り残された。
今。
好きって言った?
いや。
待て。
夫として好きという意味とは限らない。
人間としてとか。
武将としてとか。
珍獣として面白いとか。
いろいろある。
何しろ昨日まで短刀を持っていた女だ。
油断してはいけない。
……でも。
少しくらいは、怖がらなくてもいいのかもしれない。
ほんの少しだけ。
*
「若殿」
「はい?」
その日の夕方。
家臣に呼び止められた。
朝から何度も俺を注意してきた男だ。
「少々、お話がございます」
「また俺、何かしました?」
「……その言い方では、日頃から叱られている童のようでございますぞ」
実際、ここ数日は叱られてばかりだ。
俺は家臣の前に座った。
「それで、何ですか?」
「近頃の若殿についてでございます」
「俺?」
「はい」
家臣の顔が妙に真剣だった。
「若殿はこのところ、以前とはまるで別人のようになられました」
「…………」
心臓が跳ねた。
やめろ。
そこは追及するな。
本当に別人だから。
「使用人を手伝い、下の者にも礼を述べ、家臣を叱ることもない」
「……駄目ですか?」
「駄目とは申しませぬ」
「じゃあいいじゃないですか」
「しかし」
家臣は眉を寄せた。
「若殿は、争いというものまで避けようとなさっておられる」
「はい」
そこは否定しない。
「俺、戦をしたくないので」
「…………」
今度は家臣が黙った。
そんな顔する?
「誰とも争わず、できるだけ仲良くして生きていこうと思ってます」
「若殿」
「はい」
「ここは尾張にございます」
「知ってます」
「乱世にございます」
「それも知ってます」
「織田家の嫡男であられます」
「……知ってます」
嫌な流れになってきた。
家臣は深いため息をついた。
「若殿。お優しいことは、悪いことではございませぬ」
「ですよね」
「ですが」
やっぱり続きがあった。
「優しいだけでは、この乱世を生き残れませぬぞ」
俺は黙った。
分かっている。
本当は分かっているのだ。
俺が戦を嫌ったところで、今川も斎藤もほかの織田家も、
『信長くんが戦が嫌いらしいから、みんなで平和に暮らそう』
なんて言ってくれるわけがない。
そんな戦国時代なら、そもそも俺は困っていない。
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
「強くなられることです」
「戦わずに?」
「戦わぬためにも、でございます」
俺は家臣を見る。
「弱い者が争いを避ければ、それは逃げたと見られます。しかし、戦えば勝てる者が争いを避ければ、相手も容易には手を出しませぬ」
「…………」
なるほど。
ちょっと分かる。
喧嘩をしない人と、喧嘩ができない人は違う。
俺は完全に後者だけど。
「争いを望まぬことと、争えぬことは違います」
家臣はそう言った。
その言葉だけは、妙に胸に残った。
「……分かりました」
「おお」
「強くなります」
家臣の顔が明るくなる。
「さすが若殿!」
「でも戦はしません」
「若殿……」
露骨に落胆された。
「そこは譲りません。俺は平和に長生きするんです」
「……承知いたしました」
家臣は諦めたように息を吐いた。
「では、まずは明日から鍛錬を増やしましょう」
「え?」
「弓、槍、馬術。それぞれ改めて鍛え直します」
「ちょっと待って」
「早朝より始めますゆえ」
「早朝?」
「卯の刻には」
「待って待って」
話がおかしい。
俺は誰にも恨まれない人生を目指していたはずだ。
どうして早朝から槍を振る話になっている。
「では若殿。明日に備え、今宵はお早めにお休みくだされ」
「…………」
家臣は満足そうに去っていった。
俺は一人、その背中を見送った。
大丈夫。
鍛錬くらいなら何とかなる。
戦をするわけじゃない。
人を殺すわけでもない。
強くなって、それでも戦わない。
誰にも恨まれない織田信長になる。
そうすれば、本能寺の変だって起こらない。
完璧だ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
そして、ようやく気づいた。
「……俺、槍なんて使ったことないんだけど」
そうだった。
俺。
戦国武将だった。




