第61話:未来の徳川家康が小さすぎるんだが!?
戦国時代に転生してから、俺は何度も歴史上の人物と顔を合わせてきた。
織田信秀は俺の父親だし、柴田勝家はまだ若いながらも、すでに恐ろしいほど武骨な男だった。
木下藤吉郎に至っては、後の天下人だというのに、今は厩の掃除を巡って古参の小者と口論している。
歴史の教科書というものは、実に都合がよくできている。
そこに載っている人物は、誰もが立派な顔をしている。
戦に勝ち、国を治め、天下を動かした人間として紹介されるため、最初から偉人だったような錯覚を覚えるのだ。
だが、実際には彼らにも子ども時代があり、失敗ばかりしていた時期があり、腹を空かせて食べ物をねだった日もあったはずである。
そんな当たり前のことを、俺はすっかり忘れていた。
そして、もう一つ。
歴史上の人物を知っているつもりでも、俺が知っているのは、その人物の人生のほんの一部分でしかない。
徳川家康。
その名前を聞くと、俺はどうしても、ある出来事を思い出してしまう。
……傷んだ魚である。
あれは、俺の二度目の人生で起きたことだった。
あのときの俺は、徳川家康を死なせてしまった。
そして、その責任を問われ、俺自身も首を落とされた。
思い出すだけで、今でも首筋が寒くなる。
そんな俺が、まさか七歳の徳川家康と顔を合わせることになるとは。
……人生、何が起こるか分からない。
いや、俺の場合は人生を何度もやり直しているのだから、なおさらなのだが。
*
その日、俺は父上に呼び出され、城の奥にある座敷へ向かっていた。
冬の気配が濃くなり、廊下を吹き抜ける風は冷たかった。
庭の木々はほとんど葉を落とし、池の水面には薄い氷が張り始めている。
家臣たちは冬支度に追われ、城内では薪や炭を運ぶ者たちが忙しそうに行き交っていた。
吉乃が新しい屋敷へ移ってから、十日ほどが過ぎていた。
彼女は少しずつ暮らしに慣れ、お園とも良好な関係を築いているらしい。
濃姫とは先日初めて顔を合わせ、その後も手紙のやり取りを始めたという。
俺としては、二人が穏やかに付き合ってくれるのはありがたい。
ただ、先日の茶会以来、濃姫と吉乃が俺の知らないところで相談事を進めているらしく、時折、妙な疎外感を覚えることがあった。
もっとも、それを口にすれば、二人から揃って仕事をしろと言われそうなので、黙っている。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、十衛門が隣から声をかけてきた。
「若殿。本日は、三河より客人が参っておられます」
「三河?」
「はい。今川家との使者の往来に伴い、しばらく当地に留まる者がございまして」
俺は、少しだけ眉を寄せた。
三河。
今川家。
その二つの言葉を聞いた瞬間、頭の中に一人の人物が浮かんだ。
「……まさか、松平の関係者か?」
十衛門は、少し驚いたように俺を見た。
「ご存じでございましたか」
俺は息を呑んだ。
松平。
後の徳川家康の生家である。
史実では、家康は幼い頃から人質として各地を転々とした。
最初は織田方に捕らえられ、その後、今川家へ引き渡される。
俺が知っている歴史では、この頃にはすでに今川方へ移っているはずだった。
だが、今の人生は、少しずつ史実とは違う方向へ進んでいる。
何が起きても、不思議ではない。
「……誰が来ているんだ?」
俺が尋ねると、十衛門は静かに答えた。
「松平家の竹千代どのにございます」
俺は、思わず足を止めた。
竹千代。
間違いない。
未来の徳川家康だ。
……いや、待て。
徳川家康?
俺の脳裏に、安土城での出来事が蘇った。
あのとき、俺は本能寺の変を回避するため、明智光秀の機嫌を取ろうと必死だった。
家康をもてなす宴の料理について、光秀は魚が傷んでいると報告してくれた。
しかも、傷んだ魚を出せば家康に何かあるかもしれないと、ちゃんと警告してくれていた。
それなのに俺は、光秀を叱ってはいけないということばかり考え、そのまま出すよう命じてしまった。
結果、家康は食中毒で死んだ。
そして俺も、家康を死なせた責任を問われ、重臣たちの命令で首を落とされた。
……思い出しただけで、首筋が寒くなる。
あのときの俺は、本当に馬鹿だった。
傷んだ魚を出してはいけないなんて、小学生でも分かることなのに。
歴史を変えようとするあまり、目の前の当たり前のことが見えなくなっていたのである。
「……若殿?」
十衛門が、不思議そうに俺を見た。
「お顔の色が優れませぬが」
「……いや、大丈夫」
「まことに?」
「ああ。ちょっと昔のことを思い出しただけだ」
十衛門は、少しだけ首を傾げた。
当然だ。
俺が思い出しているのは、まだ起きていない未来の出来事なのだから。
しかも、すでに一度失敗した未来である。
……今度こそ、同じ失敗はしないぞ。
俺は心の中で固く誓った。
*
父上の座敷へ入ると、すでに数人の家臣が控えていた。
父上は上座に座り、向かいには今川方の使者らしい男がいる。
その隣に、小さな少年が座っていた。
俺は、思わず目を見開いた。
小さい。
想像していた以上に、小さい。
まだ七、八歳ほどだろうか。
髪はきちんと整えられ、身につけている衣服も上等なものだったが、体つきは明らかに子どもだった。
頬には幼さが残り、手も小さい。
だが、その目だけは、妙に落ち着いていた。
俺が入ると、少年は静かに頭を下げた。
「竹千代にございます」
俺は、しばらく返事ができなかった。
この子が、徳川家康。
後に江戸幕府を開き、二百年以上続く武家政権の礎を築く男。
織田信長や豊臣秀吉と並び、戦国三英傑の一人として歴史に名を残す人物。
そして。
……俺のせいで、一度死んだ男でもある。
俺の記憶にある家康は、立派な大人だった。
落ち着いた声で話し、宴の席でも堂々としていた。
あのとき、家康は傷んだ魚を口にして、少しだけ顔をしかめた。
『少々、風味が変わっておりますな』
あの言葉を、今でも覚えている。
あのとき、俺が料理を下げさせていれば。
いや、そもそも最初から出さなければ。
家康は死なずに済んだのだ。
……それなのに。
今、俺の目の前にいるのは、小さな少年だった。
まだ七歳。
未来の天下人どころか、現代なら小学校に通っている年齢である。
俺は、思わず心の中で叫んだ。
……小さすぎるだろ!
父上が、少しだけ眉を寄せた。
「信長。何をしておる。座れ」
俺は、慌てて頭を下げた。
「……失礼しました」
そして、父上の隣へ座った。
竹千代は、そんな俺を静かに見つめていた。
どうやら、俺の反応が少し気になったらしい。
……そりゃそうだよな。
初対面の相手が、いきなり固まっていたら不思議に思うだろう。
もっとも、向こうにとっては初対面ではないのかもしれないが。
*
話を聞くと、竹千代はすでに織田方の人質という立場を離れ、今川家の庇護下へ移っていた。
今回、尾張へ来たのは、今川方の使者に伴われた短い滞在であり、松平家に関する取り決めの確認と、今後の往来について話し合うためだという。
もちろん、竹千代自身が交渉するわけではない。
だが、松平家の後継者として、顔を見せる意味があるらしい。
俺は、少しだけ納得した。
史実では、この頃の家康は今川家のもとにいたはずだ。
だから、織田方の城にいること自体は不思議だったが、使者に伴われて来たというのであれば、一応筋は通る。
もっとも、幼い子どもを政治的な交渉の場へ連れてくるというのは、現代の感覚ではかなり異様である。
だが、ここは戦国時代だ。
子どもであっても、家の後継者というだけで政治的な価値を持つ。
竹千代も、そのことを理解しているのだろう。
大人たちの話を聞きながら、静かに座っていた。
父上と使者の話が一段落すると、竹千代がこちらへ向き直った。
「信長さま」
俺は、少し驚いた。
「……何だ?」
「お久しゅうございます」
俺は、息を呑んだ。
久しぶり。
そうか。
本来の織田信長は、竹千代が人質として尾張にいた頃、顔を合わせていた可能性がある。
だが、俺にはその記憶がない。
俺がこの時代へ戻ってきたのは、濃姫との祝言の日からだからだ。
俺は、慌てて頷いた。
「……ああ。久しぶりだな」
竹千代は、少しだけ微笑んだ。
「お元気そうで、何よりにございます」
俺は、思わず頬を緩めた。
なんて礼儀正しい子どもなんだ。
藤吉郎とは、まるで違う。
いや、藤吉郎と比べるのは失礼かもしれない。
あいつはあいつで、将来とんでもないことを成し遂げる男なのだが、今のところ礼儀作法については、かなり不安がある。
俺は、竹千代を見つめた。
「……お前も、元気そうだな」
竹千代は、静かに頷いた。
「はい。おかげさまで」
その返事を聞いて、俺は少しだけ胸が痛んだ。
この子は、まだ幼い。
それなのに、すでに人質として暮らし、家のために大人たちの都合へ従っている。
俺が同じ年頃だったときなど、学校へ行き、友人と遊び、家に帰れば夕食を食べることしか考えていなかった。
時代が違うとはいえ、あまりにも大きな差だった。
*
父上たちの話が続く間、俺は竹千代と少し話すことになった。
座敷を移り、庭の見える部屋へ案内される。
竹千代は、きちんと姿勢を正して座っていた。
俺は、その様子を見ながら、少しだけ困った。
何を話せばいいのだろう。
未来の徳川家康。
歴史上の偉人。
そして、二度目の人生で俺が死なせてしまった相手。
だが、今はまだ子どもである。
俺は、少し考えてから尋ねた。
「……竹千代。普段は、何をして過ごしているんだ?」
竹千代は、静かに答えた。
「学問と、武芸の稽古にございます」
「……遊んだりはしないのか?」
竹千代は、少しだけ首を傾げた。
「遊び、でございますか」
「ああ。友達と走り回ったり、木に登ったり、川で魚を捕ったり」
竹千代は、少しだけ考えた。
「時折、同じ年頃の者たちと遊ぶこともございます」
俺は、ほっとした。
どうやら、まったく遊べないわけではないらしい。
だが、竹千代は続けた。
「ただ、あまり遠くへ出ることは許されませぬ」
俺は、黙って聞いていた。
「お供の者が、心配いたしますので」
俺は、少しだけ胸が痛んだ。
人質として暮らす子ども。
その立場を考えれば、自由に外へ出られないのも当然なのだろう。
だが、本人はそれを不満として口にすることもなく、淡々と受け入れている。
俺は、しばらく竹千代を見つめていた。
「……寂しくないのか?」
竹千代は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに答えた。
「寂しいこともございます」
俺は、息を呑んだ。
「ですが、松平の家のために、辛抱せねばなりませぬ」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。
まだ七歳の子どもが、家のために辛抱する。
それを当然のように口にしている。
……この子が、将来あの徳川家康になるのか。
二度目の人生で家康が死んだとき、俺は自分が処刑される恐怖で頭がいっぱいだった。
もちろん、家康を死なせてしまったことは申し訳なく思っていた。
だが、こうして幼い頃の姿を目の当たりにすると、また違った気持ちになる。
この子にも、これまでの人生がある。
親元を離れ、自由に遊ぶこともできず、家のために我慢を重ねてきた日々がある。
そして、これから先の人生もあるはずなのだ。
それを、俺は別の人生で奪ってしまった。
……本当に、申し訳ないことをしたな。
俺は小さく息を吐いた。
目の前の竹千代に謝ったところで、何のことだか分からないだろう。
だから、せめて。
今度の人生では、この子にできるだけ幸せに生きてほしいと思った。
未来の徳川家康は、忍耐強い人物として知られている。
だが、その忍耐は、生まれつきの性格だけで身についたものではないのかもしれない。
幼い頃から、そうせざるを得なかったのだ。
*
しばらくして、竹千代が俺に尋ねた。
「信長さまは、普段どのようにお過ごしなのでございますか」
俺は、少しだけ考えた。
「……まあ、いろいろだな。父上の仕事を手伝ったり、兵の訓練を見たり、十衛門に稽古をつけてもらったり」
竹千代は、興味深そうに頷いた。
「十衛門どの、でございますか」
「ああ。俺の武芸の師匠みたいな人だ」
竹千代は、少しだけ目を輝かせた。
「お強いのでございますか」
俺は、思わず笑った。
「……ものすごく強いぞ」
竹千代は、興味深そうに身を乗り出した。
「信長さまよりも、でございますか」
俺は、言葉に詰まった。
……そこを聞くか。
俺は、少しだけ咳払いをした。
「……まあ、今のところはな」
竹千代は、静かに頷いた。
「そうでございますか」
俺は、少しだけ肩を落とした。
未来の天下人に、武芸の腕前を正直に申告することになるとは思わなかった。
だが、竹千代は真剣な顔で続けた。
「わたくしも、もっと強くなりとうございます」
俺は、顔を上げた。
「……どうしてだ?」
竹千代は、少しだけ考えた。
「強くなれば、松平の家を守れると思いますので」
俺は、息を呑んだ。
やはり、この子は普通の子どもではない。
いや、普通の子どもでいられないのだ。
俺は、少しだけ考えてから言った。
「……竹千代。強くなるっていうのは、刀が上手になることだけじゃないぞ」
竹千代は、目を丸くした。
「そうなのでございますか」
「ああ。人の話を聞くことも、困ったときに考えることも、我慢することも、全部強さだと思う」
竹千代は、静かに聞いていた。
「それから、誰かに助けてもらうこともな」
竹千代は、少しだけ首を傾げた。
「助けてもらうことも、でございますか」
「ああ。一人で何でもできる人間なんて、いないからな」
俺は、思わず笑った。
「俺なんか、十衛門にも源太にも、いつも助けてもらっている」
竹千代は、少しだけ考えた。
そして、静かに頷いた。
「……覚えておきます」
俺は、胸が温かくなった。
未来の徳川家康に、何か偉そうなことを言ってしまった。
だが、今の俺には、これくらいしか伝えられない。
この子が、これからどれほど大変な人生を歩むことになるのか、俺は知っている。
だからこそ、少しでも幸せに生きてほしいと思った。
*
そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
「若殿ー!」
俺は、嫌な予感がした。
この声は、藤吉郎だ。
案の定、障子の向こうから顔を出したのは、見慣れた少年だった。
「若殿! 厩のことで、ちょっとお話が!」
俺は、思わず眉を寄せた。
「……藤吉郎。今は客人と話しているんだ」
藤吉郎は、竹千代の姿を見ると、目を丸くした。
「……あれ? どちらのお坊ちゃんで?」
俺は、慌てて声を落とした。
「……松平家の竹千代どのだ」
藤吉郎は、少しだけ首を傾げた。
「松平?」
そして、すぐに姿勢を正した。
「これは失礼いたしました! 木下藤吉郎と申します!」
竹千代は、静かに頭を下げた。
「竹千代にございます」
藤吉郎は、にこにこと笑った。
「いやあ、ずいぶんお行儀のよろしいお坊ちゃんで!」
俺は、思わず額を押さえた。
お坊ちゃん。
まあ、間違ってはいない。
だが、相手は松平家の後継者である。
藤吉郎は、そんなことを気にする様子もなく続けた。
「おいくつでございます?」
竹千代は、静かに答えた。
「七つにございます」
俺は、息を呑んだ。
七歳。
やはり、まだそんな年齢なのか。
藤吉郎は、目を丸くした。
「七つ! そりゃあ、まだまだ小さいですな!」
俺は、慌てて藤吉郎を睨んだ。
「……お前、失礼だぞ」
だが、竹千代は怒らなかった。
むしろ、少しだけ微笑んだ。
「はい。まだ小そうございます」
藤吉郎は、嬉しそうに笑った。
「でも、きっと大きくなりますよ! わしも、昔は小さかったんですから!」
俺は、思わず顔をしかめた。
お前も、まだ十分小さいだろう。
だが、竹千代は、少しだけ楽しそうに笑っていた。
俺は、その笑顔を見て、少しだけ安心した。
どうやら、藤吉郎の遠慮のなさも、時には役に立つらしい。
*
その後、藤吉郎は厩の話を始めた。
どうやら、馬に与える飼葉の置き場所を変えたところ、古参の小者から勝手なことをするなと叱られたらしい。
俺は、思わずため息をついた。
「……藤吉郎。何度も言っているだろう。勝手に変えるなと」
藤吉郎は、少しだけ肩を落とした。
「ですが若殿、あっちへ置いたほうが、運ぶ手間が減るんです!」
俺は、少し考えた。
「……それは、分かる」
藤吉郎は、嬉しそうに顔を上げた。
「でしょう!」
「だが、だからといって、何も言わずに変えたら困る人間もいるだろう」
藤吉郎は、言葉に詰まった。
俺は、続けた。
「まず、厩の責任者に相談しろ。理由を説明して、それで許しをもらってから変えればいい」
藤吉郎は、少しだけ考えた。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました」
俺は、ほっとした。
すると、隣で話を聞いていた竹千代が、静かに口を開いた。
「藤吉郎どの」
藤吉郎は、顔を上げた。
「はい?」
「その置き場所を変えると、どれほど手間が減るのでございますか」
俺は、少し驚いた。
藤吉郎も、目を丸くした。
だが、すぐに嬉しそうに説明を始めた。
「それがですね! 今までは、飼葉を運ぶのに厩の端から端まで歩いておりまして……」
藤吉郎は、身振り手振りを交えて話し始めた。
竹千代は、真剣な顔で聞いている。
俺は、その様子を見つめた。
未来の豊臣秀吉と、徳川家康。
二人が、厩の飼葉の置き場所について話している。
歴史の教科書には、絶対に載らない光景だ。
俺は、思わず笑ってしまった。
藤吉郎は、竹千代に向かって熱心に説明していた。
竹千代は、ときどき頷きながら質問している。
その姿は、どこにでもいる年の離れた少年同士のようだった。
だが、俺だけは知っている。
この二人が、将来、日本の歴史を大きく動かすことになるのだ。
*
やがて、竹千代が帰る時間になった。
使者の男が迎えに来ると、竹千代は静かに立ち上がった。
「信長さま。本日は、ありがとうございました」
俺は、頷いた。
「……こちらこそ、楽しかった」
竹千代は、少しだけ微笑んだ。
「また、お会いできる日を楽しみにしております」
俺は、胸が温かくなった。
「ああ。また会おう」
竹千代は、深く頭を下げた。
そして、使者に伴われて座敷を出ていった。
俺は、その小さな背中を見送った。
まだ七歳。
これから先、彼には長い人生が待っている。
今川家のもとで過ごす日々。
織田家との同盟。
数々の戦。
そして、天下を治める日。
だが、今の竹千代は、そんな未来を知らない。
ただ、松平家を守りたいと願う、一人の少年なのだ。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
かつて俺は、徳川家康の命を奪ってしまった。
だが、今度は違う。
この子には、できるだけ長く生きてほしい。
そして俺自身も、今度こそ生き延びてみせる。
……少なくとも、傷んだ魚だけは絶対に出さない。
俺は、心の中で固く誓った。
*
城へ戻る廊下で、十衛門が静かに声をかけてきた。
「若殿。竹千代どのとは、ずいぶん楽しそうにお話しなさっておられましたな」
俺は、少しだけ笑った。
「……ああ。いい子だった」
十衛門は、頷いた。
「松平家の後継ぎとして、幼い頃から苦労を重ねておられるお方にございます」
俺は、黙って聞いていた。
「ですが、あのように穏やかなご気性であれば、いずれ立派な武将となられましょう」
俺は、思わず苦笑した。
立派な武将。
それどころではない。
あの子は、将来、天下を取るのだ。
しかも、俺が知っている歴史では、織田信長も豊臣秀吉も亡くなったあと、最後に天下を手にするのは徳川家康なのである。
俺は、ふと立ち止まった。
……待てよ。
今の俺は、織田信長だ。
そして、藤吉郎はすでに俺のもとにいる。
さらに、未来の徳川家康とも顔を合わせた。
つまり、戦国三英傑が、今この時代に揃っているということになる。
しかも、一人はまだ七歳。
もう一人は、厩の飼葉の置き場所で揉めている少年だ。
俺は、思わず天を仰いだ。
歴史というものは、どうしてこうも妙な光景を見せてくれるのだろう。
未来の天下人たちが、今はまだ子ども同士で厩の話をしている。
そして、その隣で話を聞いていた俺もまた、元はただの大学生だった。




