第60話:正室と側室が仲良くお茶を飲んで俺だけ仲間はずれなんだが!?
世の中には、できることなら立ち会いたくない場面というものがある。
例えば、大学時代に提出期限を忘れた課題について教授から呼び出されたとき。あるいは、友人同士の喧嘩に巻き込まれ、どちらの味方なのかと問い詰められたとき。
どちらも経験があるが、後者のほうが厄介だった。
教授に叱られるのは、せいぜい自分の成績が悪くなるだけで済む。しかし、人間関係の揉め事というものは、何を言っても誰かが不機嫌になることがある。
そして今、俺は人生で最も難しい人間関係の問題に直面していた。
正室の濃姫と、側室になった吉乃。
その二人が、初めて顔を合わせるのである。
俺は、できることなら二人に仲良くしてほしかった。
だが、それを俺からお願いするのは、さすがに虫がよすぎるという自覚もある。
そもそも、濃姫からすれば、自分の夫が別の女性を好きになり、その女性を側室として迎えたのだ。吉乃からすれば、正室である濃姫は、どうしても気を遣わなければならない相手だろう。
俺がどちらにも気兼ねなく接してほしいと言ったところで、そう簡単にできるはずがない。
それでも、二人は会って話をしたいと言ってくれた。
だから俺は、できる限り穏やかな席になるよう準備を進めていたのだが、どうやら俺の心配は、二人には少々迷惑だったらしい。
*
吉乃の新しい屋敷は、ようやく人が住める状態になっていた。
井戸の土砂は取り除かれ、雨戸も直され、炊事場には新しい薪が積まれている。庭の落ち葉も掃き清められ、池の水面には冬の薄い日差しが映っていた。
吉乃が実家から移ってきたのは、三日前のことである。
母親も一緒に荷物を運び、しばらくは新しい暮らしに慣れるまで様子を見てくれることになっていた。屋敷には、濃姫の紹介で年配の女中が一人入り、ほかにも炊事や掃除を手伝う者が置かれた。
その年配の女中は、お園という名だった。
四十を少し過ぎたくらいの女性で、背筋がまっすぐ伸び、言葉遣いも丁寧だったが、笑うと目尻に柔らかな皺ができる。
吉乃は、最初こそ緊張していたものの、今ではすっかり打ち解けているらしい。
ただし、困ったことが一つあった。
吉乃が、何でも自分でやろうとするのである。
「吉乃さま。お水は私どもがお運びいたします」
「でも、お園さん。わたくし、今までずっと自分で汲んでおりましたから」
「それは承知しております。ですが、こちらでは私どもにお任せくださいませ」
「では、せめてお野菜を洗うくらいは……」
「それも、こちらでいたします」
俺が訪ねたとき、吉乃とお園は、炊事場でそんなやり取りをしていた。
吉乃は、少しだけ困った顔をしている。
一方のお園は、穏やかに笑いながらも、まったく譲る気配がなかった。
俺は、思わず笑ってしまった。
「……吉乃。何をしているんだ?」
吉乃は、こちらを振り返った。
「信長さま! お園さんが、何もさせてくださらないのでございます」
お園は、深く頭を下げた。
「若殿さま。吉乃さまには、まずこちらでの暮らしに慣れていただきたいと存じまして」
俺は、頷いた。
たしかに、お園の言うことも分かる。
だが、吉乃が一日中座っているだけでは退屈だというのも、もっともだった。
「……じゃあ、吉乃がやりたいことは、少しやらせてあげてもいいんじゃないか?」
俺がそう言うと、お園は少し考えた。
「承知いたしました。ただし、お怪我をなさるようなことや、重いものを運ぶことは、お控えいただきとうございます」
吉乃は、嬉しそうに頷いた。
「はい!」
俺は、その姿を見ながら、少しだけ安心した。
吉乃は、まだ新しい暮らしに慣れていない。
だが、お園ならば、彼女の気持ちを尊重しながら支えてくれるだろう。
問題は、今日これから訪れる客人のことだった。
*
「……吉乃。濃姫が、もうすぐ来る」
俺がそう告げると、吉乃の表情が少しだけ引き締まった。
「はい。承知しております」
「緊張しているか?」
「……少しだけ」
吉乃は、正直に答えた。
今日は、いつもよりきちんとした衣装を身につけている。淡い色の小袖に、落ち着いた色合いの帯を合わせ、髪もお園に整えてもらったらしい。
普段の素朴な装いとは違うが、不思議とよく似合っていた。
俺は、思わず見とれてしまった。
「……綺麗だな」
吉乃は、目を丸くした。
そして、少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
俺は、照れくさくなって視線を逸らした。
すると、吉乃が小さく笑った。
「信長さまも、緊張しておられるのでございますね」
「……まあな」
「わたくしより、難しいお顔をなさっておられます」
俺は、思わず苦笑した。
それは、仕方ないだろう。
何しろ、今日は正室と側室の初対面なのだ。
俺が何か余計なことを言えば、取り返しのつかない空気になるかもしれない。
吉乃は、そんな俺を見つめながら、静かに言った。
「信長さま。どうか、あまりご心配なさらないでくださいませ」
俺は、顔を上げた。
「濃姫さまとは、わたくしがきちんとお話しいたします」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
吉乃は、穏やかに微笑んでいた。
どうやら、覚悟を決めているらしい。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
*
濃姫が到着したのは、それから半刻ほど経った頃だった。
供の者を数人連れ、落ち着いた色合いの小袖を身につけている。髪は丁寧に結い上げられ、派手な飾りはないが、立ち居振る舞いには自然と人の目を引く品があった。
俺は、門のところまで迎えに出た。
「……濃姫。よく来てくれた」
濃姫は、静かに頭を下げた。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
「……寒くなかったか?」
「はい。お気遣いなく」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
だが、その目には、いつもより緊張した色があった。
当然だろう。
俺がどれほど吉乃の人柄を説明しても、実際に会うのは今日が初めてなのだ。
俺は、濃姫を座敷へ案内した。
吉乃は、部屋の入口で待っていた。
濃姫の姿を見ると、すぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。
「初めてお目にかかります。吉乃と申します」
濃姫は、静かに頷いた。
「濃姫にございます。お会いできて嬉しゅうございます」
吉乃は、少しだけ顔を上げた。
「本日は、わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。お体は、もうよろしいのでございますか」
吉乃は、少し驚いたようだった。
だが、すぐに微笑んだ。
「はい。おかげさまで、すっかり元気になりました」
「それは、何よりにございます」
濃姫は、柔らかく微笑んだ。
俺は、ほっと息を吐いた。
どうやら、最初の挨拶は無事に済んだらしい。
だが、問題はここからだ。
俺は、二人を座敷へ案内し、自分も席についた。
お園が茶を運んできた。
湯気の立つ茶碗が三つ、静かに並べられる。
俺は、何か話題を出そうと考えた。
天気の話。
屋敷の話。
吉乃の病の話。
どれも、少し難しい気がする。
俺が迷っていると、濃姫が先に口を開いた。
「吉乃どの。こちらのお屋敷には、もう慣れられましたか」
吉乃は、少しだけ笑った。
「はい。まだ分からないことも多うございますが、お園さんが親切に教えてくださいますので」
濃姫は、静かに頷いた。
「それは、ようございました。お園は少々世話を焼きすぎるところがございますが、悪い者ではございませぬ」
吉乃は、思わず笑った。
「はい。とても親切でございます。ただ、わたくしが何かしようとすると、すぐに止められてしまいまして」
濃姫は、少しだけ目を丸くした。
「まあ」
そして、小さく笑った。
「それは、お園らしゅうございますね」
吉乃も、嬉しそうに笑った。
俺は、二人の顔を見比べた。
……あれ?
思ったより、普通に話している。
*
茶を飲みながら、二人は少しずつ話を始めた。
最初は屋敷のことだった。
庭の梅の木が春になると綺麗に咲くことや、井戸の水が思ったより冷たいこと、炊事場が広くて使いやすいことなど、吉乃は楽しそうに話していた。
濃姫は、興味深そうに聞いていた。
そして、ふと尋ねた。
「吉乃どのは、以前はどのようなお仕事をなさっていたのでございますか」
吉乃は、少しだけ考えた。
「家のことを手伝いながら、畑仕事や針仕事をしておりました」
「畑仕事も、でございますか」
「はい。母と一緒に、野菜を育てておりました」
濃姫は、少し感心したように頷いた。
「それは、立派なことでございますね」
吉乃は、慌てて首を振った。
「いいえ。村の者なら、誰でもしていることでございます」
濃姫は、静かに微笑んだ。
「ですが、わたくしにはできませぬ」
吉乃は、目を丸くした。
「……濃姫さまは、畑仕事をなさったことがないのでございますか」
「はい。恥ずかしながら、土に触れる機会もあまりございませぬ」
吉乃は、少しだけ考えた。
そして、嬉しそうに言った。
「でしたら、いつかご一緒にいかがでございましょう」
俺は、思わず茶を吹きそうになった。
濃姫が、畑仕事?
美濃の斎藤家から嫁いできた正室が、吉乃と一緒に畑で鍬を振るう姿を想像してしまった。
だが、濃姫は驚いた様子を見せなかった。
むしろ、少しだけ興味深そうに微笑んだ。
「それは、面白そうでございますね」
俺は、目を丸くした。
「……濃姫。本当にやるのか?」
濃姫は、俺を見た。
「何か、おかしゅうございますか」
「いや、別に……」
「信長さまは、わたくしが畑仕事をするのは、おかしいとお思いなのでございますか」
俺は、慌てて首を振った。
「……そんなことはない」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「でしたら、問題ございませぬね」
吉乃が、くすくすと笑った。
俺は、黙って茶を飲んだ。
どうやら、俺が口を挟む必要はなさそうだった。
*
しばらくして、話題は自然と俺のことになった。
吉乃が、何気なく口を開いた。
「濃姫さま。信長さまは、お城でもあのように心配性でいらっしゃるのでございますか」
俺は、顔を上げた。
……何だ、その質問は。
濃姫は、少しだけ首を傾げた。
「あのように、とは?」
吉乃は、少し困ったように笑った。
「わたくしが病に倒れてからというもの、少し咳をするだけで、すぐに大丈夫かとお尋ねになるのでございます」
濃姫は、俺を見た。
そして、静かに頷いた。
「……なるほど」
俺は、嫌な予感がした。
濃姫は、吉乃へ向き直った。
「信長さまは、何か気になることがございますと、そればかりお考えになるところがございます」
吉乃は、嬉しそうに頷いた。
「やはり、そうでございますか」
俺は、思わず口を挟んだ。
「……いや、俺だって、いつもそういうわけじゃないぞ」
すると、濃姫が静かに俺を見た。
「信長さま。先日、吉乃どののお屋敷の井戸が使えぬと聞いたとき、夜遅くまで職人の手配をお考えになっておられましたね」
「……それは、必要なことだったからだ」
「翌朝には、まだ井戸の修繕が終わっていないのかと、源太どのへ何度もお尋ねになったとか」
俺は、言葉に詰まった。
吉乃が、くすくすと笑っている。
「信長さまらしゅうございますね」
俺は、思わず顔をしかめた。
おい。
なぜ、初対面の二人が、俺の欠点について意気投合しているんだ。
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「吉乃どの。信長さまは、何かを大切に思われますと、少々周りが見えなくなることがございます」
吉乃は、静かに頷いた。
「はい。わたくしも、そう思います」
俺は、黙って茶を飲んだ。
どうやら、俺の立場はかなり悪くなってきたらしい。
*
だが、二人の会話は、いつまでも和やかなものばかりではなかった。
茶が二杯目になった頃、濃姫が静かに口を開いた。
「吉乃どの」
「はい」
「ひとつ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
吉乃は、姿勢を正した。
「はい。何でございましょう」
濃姫は、しばらく吉乃を見つめていた。
そして、静かに尋ねた。
「こちらへお移りになることについて、ご不安はございませんでしたか」
吉乃は、少しだけ目を伏せた。
俺は、思わず二人を見比べた。
濃姫の声は穏やかだった。
だが、その質問には、これまでの世間話とは違う重みがあった。
吉乃は、しばらく考えたあと、静かに答えた。
「……ございました」
濃姫は、頷いた。
「どのようなことでございましょう」
吉乃は、膝の上で手を揃えた。
「わたくしは、武家の暮らしをよく存じません。礼儀作法も、まだ十分ではございませぬし、知らぬことばかりでございます」
濃姫は、黙って聞いていた。
「それに、わたくしが側室になることで、濃姫さまにご迷惑をおかけするのではないかと、ずっと気になっておりました」
俺は、息を呑んだ。
吉乃は、静かに続けた。
「わたくしは、信長さまのおそばにいたいと思っております。ですが、そのために濃姫さまのお気持ちを踏みにじるようなことは、したくございませぬ」
濃姫は、しばらく何も言わなかった。
庭から、風に揺れる竹の音が聞こえた。
やがて、濃姫が静かに口を開いた。
「……吉乃どの」
「はい」
「わたくしは、正直に申し上げますと、信長さまがあなたを側室に迎えたいと仰せになったとき、嬉しいとは思いませなんだ」
俺は、胸が締めつけられた。
吉乃も、静かに目を伏せた。
濃姫は、続けた。
「わたくしも、一人の妻にございます。夫が別の女性をお慕いしていると知れば、心穏やかではいられませぬ」
俺は、何も言えなかった。
濃姫は、吉乃をまっすぐ見つめた。
「ですが、だからといって、あなたを憎んでいるわけではございませぬ」
吉乃は、顔を上げた。
「わたくしは、信長さまの正室として、織田家のことを考えねばなりませぬ。そして、あなたもまた、これから織田家の者となるのでございます」
濃姫は、静かに続けた。
「でしたら、互いに知らぬまま、疑い合って暮らすよりも、こうして顔を合わせて話すほうがよいと思いました」
吉乃は、しばらく濃姫を見つめていた。
そして、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
濃姫は、静かに首を振った。
「お礼を申し上げていただくことではございませぬ」
そして、少しだけ微笑んだ。
「ただし、ひとつだけお願いがございます」
吉乃は、顔を上げた。
「はい」
「わたくしは、あなたに無理をしてほしくはございませぬ。ですが、何か困ったことがございましたら、信長さまだけでなく、わたくしにもお話しくださいませ」
吉乃は、目を丸くした。
「……濃姫さまに、でございますか」
「はい」
濃姫は、静かに頷いた。
「信長さまは、お優しいお方でございます。ですが、時として、お優しさが先に立ちすぎることもございますから」
俺は、思わず顔を上げた。
また俺の話か。
吉乃は、少しだけ笑った。
「……それは、よく分かります」
濃姫も、小さく笑った。
俺は、深く息を吐いた。
どうやら、二人は俺のことを、少々手のかかる男だと思っているらしい。
否定したいところだが、あまり自信がなかった。
*
その後、二人は屋敷のことや、今後の暮らしについて、さらに詳しく話し合った。
吉乃は、母親に会いに行くときのことや、村の人たちとの付き合い方について尋ねていた。
濃姫は、織田家の者として気をつけるべきことを説明しながらも、吉乃の希望をできる限り尊重しようとしていた。
俺は、その様子を見ながら、少しだけ安心した。
最初は、どうなることかと思っていた。
だが、二人は俺が考えていたよりも、ずっと落ち着いて話をしている。
もちろん、すべての問題が解決したわけではない。
濃姫の気持ちが、完全に晴れたわけでもないだろう。
吉乃だって、これから新しい暮らしの中で、戸惑うことがあるかもしれない。
それでも、こうして話し合えること自体が、大切なのだと思った。
俺は、茶碗を置いた。
「……二人とも、今日はありがとう」
濃姫と吉乃が、同時に俺を見た。
俺は、少しだけ照れくさくなった。
「……こうして話してくれて、嬉しい」
濃姫は、静かに微笑んだ。
「信長さま。わたくしたちは、まだ何も決めておりませぬよ」
俺は、目を丸くした。
「……え?」
吉乃も、少しだけ笑った。
「はい。これから、いろいろお話ししなければなりませぬ」
俺は、二人を見比べた。
「……何を?」
濃姫は、少しだけ首を傾げた。
「吉乃どののお暮らしのことや、織田家の行事のこと、それから、信長さまがお忙しいときのことなどでございます」
吉乃も、頷いた。
「はい。わたくしも、まだ分からないことが多うございますので」
俺は、少しだけ考えた。
「……じゃあ、俺も一緒に考えたほうがいいか?」
すると、濃姫が静かに微笑んだ。
「信長さまには、まずお仕事をきちんとなさっていただきとうございます」
俺は、言葉に詰まった。
吉乃が、くすくすと笑った。
「はい。信長さまは、わたくしたちのことを心配なさるあまり、お仕事がおろそかになっては困りますもの」
俺は、二人を見比べた。
……あれ?
もしかして、俺は邪魔なのか?
濃姫は、穏やかに続けた。
「わたくしたちで決められることは、まず二人で相談いたします。信長さまにお決めいただく必要があることは、そのときにお伝えいたしますので」
吉乃も、嬉しそうに頷いた。
「はい。それがよろしゅうございますね」
俺は、何も言えなかった。
さっきまで、二人が仲良くできるか心配していたというのに。
今度は、二人が俺抜きで話を進めようとしている。
人間関係というものは、本当に難しい。
*
帰り際、濃姫は吉乃へ向き直った。
「吉乃どの。本日は、ありがとうございました」
吉乃は、深く頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「また、お茶をご一緒いたしましょう」
吉乃は、嬉しそうに顔を上げた。
「はい。ぜひお願いいたします」
俺は、その様子を見ながら、ほっと息を吐いた。
少なくとも、今日の顔合わせは無事に終わったらしい。
濃姫が駕籠へ乗り込む前、俺はそっと声をかけた。
「……濃姫」
「はい」
「今日は、本当にありがとう」
濃姫は、少しだけ俺を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「信長さま。わたくしは、吉乃どのとお話しできて、よかったと思っております」
俺は、頷いた。
「……ああ」
濃姫は、少しだけ目を伏せた。
「ですが、信長さま」
「……何だ?」
「わたくしが吉乃どのと親しくお話ししたからといって、何もかも平気になったわけではございませぬ」
俺は、息を呑んだ。
濃姫は、静かに続けた。
「そのことだけは、どうかお忘れにならないでくださいませ」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「それでは、先に戻っております」
俺は、深く頷いた。
濃姫が去ったあと、俺はしばらく門の前に立っていた。
今日、二人は笑い合った。
だが、それで濃姫の寂しさが消えたわけではない。
吉乃の不安が、すべてなくなったわけでもない。
俺は、そのことを忘れてはいけないのだ。
*
屋敷へ戻ると、吉乃が縁側に座っていた。
俺の姿を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
「信長さま。濃姫さまは、お帰りになられましたか」
「ああ」
俺は、隣へ腰を下ろした。
「……どうだった?」
吉乃は、少しだけ考えた。
「とても、立派なお方でございました」
俺は、頷いた。
「……そうだな」
「お優しくて、お話も分かりやすくて、それに、たいそうお綺麗でございました」
俺は、少しだけ笑った。
「……ああ」
吉乃は、静かに続けた。
「ですが、少しだけ、お寂しそうにも見えました」
俺は、顔を上げた。
吉乃は、庭の梅の木を見つめていた。
「わたくしが側室になったことで、濃姫さまには、いろいろなお気持ちがあるのでございましょうね」
俺は、黙って聞いていた。
「ですから、信長さま」
「……何だ?」
吉乃は、俺をまっすぐ見つめた。
「どうか、濃姫さまを大切になさってくださいませ」
俺は、息を呑んだ。
吉乃は、柔らかく微笑んだ。
「わたくしも、信長さまのおそばにいられて幸せでございます。ですが、濃姫さまもまた、信長さまの大切な奥方さまにございますから」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
吉乃は、安心したように微笑んだ。
俺は、その横顔を見つめた。
前の人生では、吉乃を失った。
今度は、彼女が生きていて、俺の側室になった。
そして、濃姫もまた、俺の妻としてそばにいてくれる。
俺は、二人を大切にしたい。
その気持ちは、これからも変わらない。
だが、どうやら二人は、俺が考えていたよりもずっとしっかりしているらしい。
俺があれこれ心配しなくても、自分たちで話し合い、必要なことを決めていく。
それは、喜ばしいことなのだろう。
……たぶん。
俺は、少しだけ苦笑した。
正室と側室が初めて顔を合わせたというのに、最後には俺だけ話し合いから外されてしまった。
……正室と側室がお茶を飲んだら、俺だけ仲間外れなんだが!?




