第59話:側室に迎えたのに一緒に暮らせないんだが!?
吉乃を側室に迎えることが決まった。
前の人生で彼女を失い、もう二度と会えないと思っていた俺にとって、これほど嬉しいことはなかった。吉乃は病から回復し、自分の意思で俺のそばにいたいと言ってくれた。父上からも許しを得たし、濃姫も複雑な思いを抱えながら、吉乃の立場を尊重すると言ってくれた。
これでようやく、吉乃と一緒に暮らせる。
俺は、そう思っていた。
ところが、世の中というものは、どうしてこうも思いどおりにいかないのだろう。
「若殿。吉乃どののお住まいについてでございますが」
ある日の朝、源太が持ってきた書付を見て、俺は首を傾げた。
そこには、屋敷の修繕に必要な木材の数や、職人の手配、井戸の状態、炊事場の改修について、細かい文字でびっしりと書き込まれていた。
「……これは?」
「吉乃どのにお住まいいただく屋敷の、見積もりにございます」
「……屋敷?」
「はい」
俺は、しばらく源太を見つめた。
そして、当然の疑問を口にした。
「……吉乃は、城に来るんじゃないのか?」
源太は、少しだけ目を丸くした。
「城へ、でございますか」
「ああ。俺は城に住んでいるんだから、吉乃もこちらへ来ればいいだろう」
源太は、何とも言えない顔をした。
隣に控えていた十衛門が、静かに咳払いをする。
「若殿。まずは、濃姫さまのお住まいについてお考えくださいませ」
「……濃姫?」
「はい。濃姫さまは、織田家の正室として、城内にお部屋を与えられております」
「それは分かっている」
「では、吉乃どのを同じように城内へお迎えになれば、どのようなことが起きるか、お分かりになりますかな」
俺は、少し考えた。
濃姫と吉乃が、同じ城で暮らす。
食事の時間に顔を合わせることもあるだろうし、庭で偶然出会うこともあるだろう。
俺がどちらかの部屋を訪ねれば、もう一方にも分かってしまうかもしれない。
……なるほど。
これは、かなり気まずい。
「……別の屋敷のほうがいいかもしれないな」
俺がそう呟くと、十衛門は深く頷いた。
「ようやく、お分かりいただけましたか」
源太は、少しだけ笑いを堪えていた。
俺は、思わず顔をしかめた。
いや、そんなに呆れなくてもいいだろう。
現代の感覚で考えれば、家族は一緒に暮らすものだ。
だが、ここは戦国時代である。
しかも俺には正室がいて、これから側室を迎えようとしている。
どうやら、普通の家庭を築くというだけでも、なかなか難しい立場らしい。
*
源太が用意した屋敷は、城から少し離れた場所にあった。
かつて織田家に仕えていた家臣が住んでいた屋敷で、今は空き家になっているという。門はそれほど大きくないが、周囲には塀が巡らされ、庭には小さな池と梅の木があった。
建物は平屋で、座敷がいくつかあり、炊事場と井戸も備わっている。
ただし、長く人が住んでいなかったため、屋根や雨戸には修繕が必要だった。
俺は、源太と十衛門を連れて、その屋敷を見に行った。
門をくぐると、庭には落ち葉が積もり、池の水面には枯れた枝が浮かんでいた。縁側の板はところどころ色が褪せ、障子にも小さな破れがある。
だが、建物そのものはしっかりしていた。
「……悪くないな」
俺がそう言うと、源太は頷いた。
「はい。手を入れれば、十分にお住まいいただけるかと」
俺は、座敷へ上がった。
畳には少し湿気が残っていたが、窓を開けると、庭から冷たい風が入ってきた。
ここに吉乃が住む。
そう考えると、急に屋敷が違って見えた。
庭の梅の木の下で、吉乃が笑っている姿。
縁側で針仕事をしている姿。
俺が訪ねると、嬉しそうに出迎えてくれる姿。
そんな光景が、自然と頭に浮かんできた。
俺は、少しだけ頬を緩めた。
「……ここなら、吉乃も気に入るかもしれないな」
源太は、静かに頷いた。
「吉乃どののご実家からも、そう遠くはございませぬ」
俺は、顔を上げた。
「……そうなのか?」
「はい。馬ならば、さほど時間もかからぬ距離にございます」
俺は、ほっとした。
吉乃は、母親との付き合いを大切にしたいと言っていた。
側室になったからといって、急に実家へ帰れなくなるようなことは避けたかった。
その点、この屋敷なら問題は少なそうだ。
俺は、源太へ向き直った。
「……修繕を進めてくれ。ただし、吉乃にも一度見てもらいたい」
源太は、少し驚いたようだった。
「吉乃どのに、でございますか」
「ああ。実際に住むのは吉乃なんだから、本人の意見も聞きたい」
源太は、少し考えてから頷いた。
「承知いたしました」
十衛門は、何も言わなかった。
だが、その口元がわずかに緩んでいたので、どうやら今回は合格らしい。
*
数日後、俺は吉乃を連れて屋敷を訪ねた。
彼女は、門の前に立つなり目を丸くした。
「……信長さま。こちらでございますか?」
「ああ。まだ修繕中だが、お前に住んでもらおうと思っている」
吉乃は、しばらく屋敷を見つめていた。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「……ずいぶん、立派なお屋敷でございますね」
「そうか?」
「はい。わたくしの家より、ずっと大きゅうございます」
俺は、少しだけ首を傾げた。
たしかに、村の家と比べれば広い。
だが、城の屋敷と比べれば、決して大きいほうではない。
吉乃は、門をくぐりながら、周囲を興味深そうに見回していた。
庭の梅の木を見つけると、嬉しそうに声を上げた。
「まあ、梅の木がございます!」
「ああ。春になれば花が咲くらしい」
「それは楽しみでございますね」
吉乃は、木のそばへ歩いていった。
そして、枝を見上げながら、少しだけ微笑んだ。
「実家には柿の木がございますが、こちらには梅の木があるのでございますね」
俺は、頷いた。
「気に入ったか?」
「はい。とても」
その言葉を聞いて、俺はほっとした。
だが、吉乃はすぐに別のことを尋ねた。
「ところで、信長さま」
「……何だ?」
「こちらのお屋敷には、何人くらいの方がお住まいになるのでございますか」
俺は、少し考えた。
「……お前と、身の回りの世話をする者が何人か。それから、必要なら警護の者も置くことになると思う」
吉乃は、目を丸くした。
「……わたくし一人のために、でございますか?」
「ああ」
吉乃は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ眉を寄せた。
「……それでは、ずいぶん贅沢でございますね」
俺は、思わず笑った。
吉乃は、相変わらずだった。
側室になると決まっても、豪華な暮らしに憧れる様子はない。
むしろ、自分一人のために大勢の人間が働くことを、申し訳なく思っているらしい。
「……お前が側室になる以上、必要なことなんだ」
俺がそう言うと、吉乃は静かに頷いた。
「承知しております。ただ、わたくしも何かお役に立てることがあればと思いまして」
俺は、少し考えた。
「……例えば?」
「お料理や、お掃除などでございます」
俺は、言葉に詰まった。
側室が自分で掃除をする。
それは、どうなのだろう。
もちろん、吉乃は今までずっと家の仕事をしてきたのだから、本人にとっては自然なことなのだろう。
だが、側室になれば、そうした仕事をする者が付く。
俺は、少し困った。
「……全部自分でやる必要はないと思うぞ」
吉乃は、少しだけ首を傾げた。
「ですが、何もせずに一日を過ごすのは、退屈ではございませぬか?」
俺は、何も言えなかった。
確かに、そうかもしれない。
現代の感覚で考えれば、家事をしなくてよい生活は楽に思える。
だが、今まで働いてきた人間に、突然何もしなくてよいと言っても、困るだけなのかもしれない。
俺は、少し考えてから答えた。
「……じゃあ、できることはやってもいい。ただし、無理はするなよ」
吉乃は、嬉しそうに笑った。
「はい!」
俺は、その笑顔を見ながら、また一つ学んだ気がした。
人を大切にするということは、何もさせないことではない。
その人が、その人らしく暮らせるようにすることなのだ。
*
ところが、屋敷の話は、そう簡単には進まなかった。
吉乃が住むことになると決まった途端、今度は身の回りの世話をする者を誰にするかという問題が持ち上がったのである。
俺は、てっきり源太が適当な者を見つけてくれるものだと思っていた。
だが、源太は困った顔をしていた。
「若殿。吉乃どののおそばに置く者は、慎重に選ばねばなりませぬ」
「……どうしてだ?」
「吉乃どのは、これから織田家の若殿の側室となられるお方にございます。身の回りの世話をする者が、軽々しく外へ話を漏らすようでは困ります」
俺は、頷いた。
確かに、そのとおりだった。
吉乃が何を食べたとか、俺がいつ訪ねたとか、そんなことまで外へ広まってしまっては、落ち着いて暮らせない。
源太は、続けた。
「それに、吉乃どのは武家のご出身ではございませぬ。慣れぬことも多うございましょうから、礼儀作法を教えられる者も必要にございます」
俺は、少し考えた。
「……じゃあ、年配の女中がいいのか?」
「それがよろしいかと」
俺は、頷いた。
だが、源太はそこで少しだけ声を落とした。
「ただし、あまり気位の高い者を置きますと、吉乃どのが窮屈な思いをなさるかもしれませぬ」
俺は、顔を上げた。
それは、確かに困る。
吉乃は、村で育った娘だ。
突然、厳しい作法ばかり教えられ、何をするにも叱られるような生活になれば、きっと疲れてしまうだろう。
「……じゃあ、優しい人がいいな」
俺がそう言うと、源太は少しだけ苦笑した。
「優しいだけでは、務まりませぬ」
俺は、肩を落とした。
どうやら、使用人を一人選ぶだけでも、俺の考えは甘いらしい。
*
結局、女中の人選については、濃姫に相談することになった。
彼女は俺の話を聞くと、少しだけ考えた。
「吉乃どののお世話をする者でございますね」
「ああ。できれば、吉乃が気兼ねなく話せるような人がいい」
濃姫は、静かに頷いた。
「でしたら、年配の女中を一人、お付けするのがよろしいかと存じます」
俺は、顔を上げた。
「心当たりがあるのか?」
「はい。以前、わたくしの身の回りを手伝っていた者で、今は別のお役目についている女中がおります」
俺は、少し驚いた。
「……濃姫のところにいた人なのか?」
「はい。仕事は丁寧で、口も堅く、若い娘の面倒を見るのも上手な者にございます」
俺は、ほっとした。
「……それなら、頼めるか?」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「本人の都合もございますので、まずは話をしてみましょう」
俺は、頷いた。
そして、少しだけ考えた。
「……濃姫」
「はい」
「吉乃のために、いろいろ考えてくれてありがとう」
濃姫は、静かに首を振った。
「吉乃どのが側室となられるのであれば、織田家の者として、きちんとお迎えする必要がございます」
俺は、頷いた。
濃姫は、少しだけ目を伏せた。
「それに、慣れぬ暮らしの中で、あの方が困られることのないようにしたいと思っております」
俺は、胸が温かくなった。
だが、濃姫はそこで少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、信長さま」
「……何だ?」
「吉乃どののお住まいを整えることと、わたくしのお部屋へお越しになることは、別のお話にございます」
俺は、息を呑んだ。
濃姫は、静かに続けた。
「このところ、信長さまは吉乃どののことでお忙しく、こちらへお越しになることが少のうございました」
俺は、言葉に詰まった。
確かに、そのとおりだった。
吉乃の病が治ってからも、俺は何度も村へ通い、屋敷の修繕について相談し、側室を迎える準備に追われていた。
その間、濃姫とゆっくり話す時間は、あまり取れていなかった。
「……すまない」
俺がそう言うと、濃姫は静かに首を振った。
「謝っていただきたいわけではございませぬ」
そして、まっすぐ俺を見つめた。
「ただ、わたくしも信長さまの妻であることを、お忘れにならないでいただきとうございます」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「でしたら、今宵はご一緒に夕餉をいただけますか」
俺は、すぐに頷いた。
「……もちろんだ」
濃姫は、安心したように微笑んだ。
俺は、その笑顔を見ながら、また一つ反省した。
吉乃を大切にしたいと思うあまり、濃姫を寂しくさせてしまっては意味がない。
俺は、二人を大切にしたいと言った。
ならば、その言葉に責任を持たなければならない。
*
屋敷の修繕が進み、女中の人選も決まり始めた頃、俺は吉乃の家を訪ねた。
彼女は、母親と一緒に荷物を整理していた。
とはいえ、持っていくものはそれほど多くないらしい。
衣類を入れた小さな箱と、針仕事の道具、それから、母親が作ってくれた布袋がいくつか並んでいるだけだった。
俺は、少し驚いた。
「……荷物は、これだけなのか?」
吉乃は、頷いた。
「はい。あまり多く持っていっても、置く場所に困るかと思いまして」
俺は、思わず笑った。
あの屋敷なら、置く場所はいくらでもある。
だが、吉乃にとっては、これまで使ってきたものが大切なのだろう。
俺は、荷物の中に、小さな木箱があることに気づいた。
「……これは?」
吉乃は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「幼い頃から、大切にしているものでございます」
俺が尋ねると、吉乃は箱の蓋を開けて見せてくれた。
中には、小さな櫛と、色褪せた紐、それから、木で作られた小さな人形が入っていた。
「母が、幼い頃に作ってくれたのでございます」
吉乃は、人形をそっと手に取った。
「わたくし、これが大好きで、どこへ行くにも持って歩いていたそうでございます」
俺は、少しだけ微笑んだ。
「……可愛いな」
吉乃は、嬉しそうに頷いた。
「はい。今でも、大切にしております」
俺は、その姿を見つめた。
吉乃は、これから側室になる。
立派な屋敷に住み、女中に世話をしてもらい、今までとは違う暮らしを始める。
だが、彼女が大切にしているものは、何も変わらない。
母親との思い出。
村で過ごした日々。
そして、幼い頃から持っている小さな人形。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……全部、持っていこう」
吉乃は、少し驚いたように顔を上げた。
「よろしいのでございますか?」
「ああ。お前の大切なものなんだろう」
吉乃は、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
*
その日の帰り道、俺は十衛門と並んで馬を進めていた。
夕暮れの空は赤く染まり、遠くの山々が黒い影になっている。
俺は、ふと口を開いた。
「……十衛門」
「はい」
「側室を迎えるって、こんなに大変なことだったんだな」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「今さらでございますか」
俺は、思わず顔をしかめた。
「……いや、もっと簡単なものだと思っていた」
十衛門は、静かに頷いた。
「若殿は、吉乃どのを大切になさりたいのでございましょう」
「ああ」
「でしたら、そのために必要なことが増えるのは、当然にございます」
俺は、黙って聞いていた。
十衛門は、少しだけ笑った。
「家族が増えるということは、喜ばしいことでございます。ですが、同時に、守るべきものが増えるということでもございますから」
俺は、ゆっくりと頷いた。
以前、十衛門の家を訪ねたときにも、似たことを言われた。
家族が増えれば、失うことへの恐れも増える。
だが、だからといって、家族を持たなければよかったと思うわけではない。
俺は、少しだけ笑った。
「……お前は、いつも正しいことを言うな」
十衛門は、静かに首を振った。
「正しいことを申し上げているのではございませぬ。妻と子を持つ男として、当たり前のことを申し上げているだけにございます」
俺は、思わず笑った。
十衛門は、相変わらずだった。
*
城へ戻ると、源太が待っていた。
俺の姿を見るなり、書付を差し出してくる。
「若殿。吉乃どののお屋敷の件でございますが、職人たちから新たな報告がございまして」
俺は、嫌な予感がした。
「……何だ?」
「井戸の底に土砂が溜まっておりまして、掘り直しが必要かと」
俺は、思わず天を仰いだ。
またか。
屋根を直し、雨戸を直し、炊事場を整え、女中を選び、ようやく準備が進んだと思ったら、今度は井戸である。
どうやら、側室を迎えるというのは、恋愛だけでは済まないらしい。
俺は、書付を受け取った。
「……分かった。必要なことなら、やってくれ」
源太は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
吉乃と一緒に暮らせると思っていた。
だが、実際には別の屋敷を用意し、女中を雇い、修繕を進め、濃姫との時間も大切にしなければならない。
しかも、まだ吉乃は引っ越してすらいない。
俺は、思わず苦笑した。
前の人生では、吉乃を失った。
今度は、彼女が生きていて、俺の側室になる。
それだけで十分に幸せなはずなのに、現実というものは、どうしてこうも細かな問題を次から次へと持ってくるのだろう。
俺は、書付の束を見つめた。
そして、心の中で小さく呟いた。
……側室を迎えたのに、一緒に暮らせないんだが!?




