第58話:吉乃を側室に迎えたら守るものが増えたんだが!?
俺は、戦国時代というものを、ずいぶん単純に考えていたらしい。
歴史の教科書に載っている武将たちは、何人もの妻や側室を持ち、大勢の子どもをもうけている。織田信長もその一人で、現代の感覚からすれば驚くほど複雑な家族関係を築いていた。
だから俺は、吉乃を側室に迎えることも、そう難しい話ではないと思っていた。
本人が望んでくれて、父上が許してくれれば、それで済むのではないか。
正室である濃姫には申し訳ないが、当時の武家社会では珍しいことでもない。少なくとも、現代のように婚姻関係そのものが問題になるわけではないのだから、あとは俺が誠実に振る舞えば何とかなるだろう。
……などと考えていた数日前の自分を、今すぐ呼び出して正座させたい。
人間を一人、家へ迎えるというのは、そんなに簡単なことではなかった。
まして、その相手が一国の有力武家の若殿に仕える側室となれば、本人たちの気持ちだけで決められることなど、驚くほど少ないのである。
*
吉乃が病から回復して、さらに数日が過ぎた。
村の柿の木はすっかり葉を落とし、朝晩には吐く息が白くなることも増えてきた。吉乃は以前と変わらず母親の手伝いをしていたが、病み上がりだからと周囲に気遣われ、重い荷物を運ぶ仕事だけは取り上げられているらしい。
本人は、それが少々不満のようだった。
「信長さま。わたくし、もうすっかり元気でございますのに、母は薪を運ぶことさえ許してくれませぬ」
縁側に座った吉乃が、膝の上で布を畳みながら訴えてきた。
俺は、その顔を見つめた。
頬には血色が戻り、目にも以前の明るさがある。たしかに、病に倒れていた頃の面影はほとんどなくなっていた。
だが、だからといって、すぐに重い薪を運ばせてよいものだろうか。
「……もう少し休んでいたほうがいいんじゃないか?」
吉乃は、じっと俺を見つめた。
「信長さままで、そのようなことを仰せになるのでございますか」
「いや、だって、ついこの間まで寝込んでいただろう」
「もう何日も前のお話でございます」
「何日も前って、そんなに昔じゃないぞ」
吉乃は、少しだけ頬を膨らませた。
その顔があまりにも可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。
すると、吉乃はますます不満そうな顔になった。
「信長さまは、わたくしを子どものように扱っておられます」
「そんなつもりはないんだが……」
「では、どうか普通に接してくださいませ」
俺は、しばらく考えた。
普通に接する。
それは、俺にとって思いのほか難しいことだった。
前の人生で吉乃を失って以来、俺は彼女が少し疲れた顔をするだけで不安になってしまう。もう元気だと分かっていても、つい体調を確かめたくなるし、寒そうにしていれば何か掛けるものを探してしまう。
だが、吉乃は病人ではない。
俺が大切にしたいと願っている、一人の女性なのだ。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。気をつける」
吉乃は、ようやく笑った。
「はい。お願いいたします」
その笑顔を見ながら、俺は今日こそ、もう一つの話をしなければならないと思った。
*
「……吉乃」
俺が改まって呼びかけると、彼女は布を膝へ置いた。
「はい」
「前に、側室のことを話しただろう」
吉乃は、静かに頷いた。
「はい。覚えております」
「……その後、考えてくれたか?」
吉乃は、すぐには答えなかった。
庭を渡る風が、軒先に吊るされた干し柿を小さく揺らしている。遠くでは、村の子どもたちが何かを追いかけて走っているらしく、楽しそうな声が聞こえていた。
吉乃は、しばらくその声に耳を傾けていたが、やがて静かに口を開いた。
「信長さま。わたくしは、信長さまのおそばにいたいと思っております」
俺は、息を呑んだ。
「ですが、側室となれば、今までのようには暮らせなくなるのでございましょうね」
「……ああ」
俺は、正直に頷いた。
濃姫から指摘されて以来、俺も少しずつ調べていた。
側室として迎える以上、吉乃を今までどおり村の家に住まわせ、俺が気の向いたときだけ通うというわけにはいかない。
もちろん、側室が必ず正室と同じ屋敷で暮らすわけではない。別の住まいを用意することもあるし、身の回りの世話をする者を置くこともある。
だが、いずれにせよ、吉乃の立場は変わる。
彼女は、もうただの村娘ではなくなるのだ。
「……住まいは、こちらで用意するつもりだ。お前の母上にも、今までどおり会えるようにしたい」
吉乃は、静かに聞いていた。
「それから、身の回りの世話をする者も必要になると思う。だが、お前が望まないことを無理にさせるつもりはない」
吉乃は、少しだけ首を傾げた。
「信長さま」
「……何だ?」
「わたくしは、何もかも今までどおりでなくては嫌だと申し上げているわけではございませぬ」
俺は、顔を上げた。
吉乃は、柔らかく微笑んだ。
「信長さまのおそばに参るのであれば、それにふさわしい振る舞いを覚えることも、必要でございましょう」
俺は、少し驚いた。
「……大丈夫なのか?」
「分からないことは、教えていただけばよろしいのではございませぬか」
俺は、思わず笑った。
吉乃は、相変わらず前向きだった。
だが、彼女はそこで少しだけ表情を引き締めた。
「ただ、ひとつお願いがございます」
「……何だ?」
「母のことを、これからも大切にさせていただきとうございます」
俺は、頷いた。
「もちろんだ」
「それから、村の者たちと、今までのように親しくすることも、お許しいただきとうございます」
俺は、少し考えた。
身分が変われば、周囲の人間が遠慮するようになるかもしれない。
だが、それは俺が命じてどうにかなることではないだろう。
「……できる限り、そうなるようにしたい」
吉乃は、静かに頷いた。
俺は、続けた。
「ただ、今までとまったく同じにはならないかもしれない。それは、分かっていてほしい」
吉乃は、少しだけ目を伏せた。
「はい。承知しております」
そして、俺をまっすぐ見つめた。
「それでも、わたくしは、信長さまのおそばにいたいと思っております」
俺は、息を呑んだ。
吉乃は、柔らかく微笑んだ。
「ですから、もし濃姫さまもお許しくださるのであれば、わたくしを側室としてお迎えいただきとうございます」
俺は、しばらく何も言えなかった。
嬉しかった。
ただ、それだけだった。
前の人生では、吉乃とこれからどう生きていくのか、考える時間さえ与えられなかった。
だが、今は違う。
吉乃は生きていて、自分の意思で、俺のそばにいたいと言ってくれている。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、吉乃」
吉乃は、少しだけ頬を赤くした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
*
問題は、ここからだった。
俺は吉乃の返事を聞くと、すぐに城へ戻り、父上へ話を通した。
父上は、最初こそ少し驚いたようだったが、俺の話を聞くと、すぐに腕を組んだ。
「村の娘を、側室に迎えたいと申すか」
「……はい」
「その娘は、以前からお前が通っていた家の娘であったな」
「はい」
父上は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに尋ねた。
「濃姫には、話したのか」
「……話しました」
「何と申しておる」
俺は、少しだけ息を吸った。
「まだ、すべてに納得しているわけではありません。ただ、吉乃を不幸にしたくないと言ってくれています」
父上は、ゆっくりと頷いた。
「そうか」
そして、少しだけ目を細めた。
「信長。お前は、側室を迎えるということを、どのように考えておる」
俺は、言葉に詰まった。
また、この質問だ。
濃姫にも、吉乃にも、同じようなことを尋ねられた。
どうやら俺は、誰から見ても覚悟が足りないように見えるらしい。
「……吉乃を、大切にしたいと思っています」
父上は、静かに頷いた。
「それは、当然であろう」
俺は、顔を上げた。
父上は、続けた。
「側室として迎える以上、その娘の暮らしはお前が支えることになる。住まいも、食い扶持も、身の回りの世話も、すべて織田家の負担となる」
俺は、頷いた。
「……はい」
「それだけではない。その娘が子を産めば、その子も織田家の者となる。お前の気持ちひとつで、簡単に済ませられる話ではない」
俺は、黙って聞いていた。
父上は、少しだけ声を落とした。
「それでも、迎えたいのか」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
父上は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに息を吐いた。
「ならば、まず濃姫とよく話せ」
俺は、顔を上げた。
「……父上」
「側室を迎えること自体は、珍しいことではない。だが、正室をないがしろにしてよいという話ではない」
俺は、頷いた。
「……分かっています」
「分かっておるなら、行動で示せ」
父上は、そう言って俺を見た。
「濃姫は、美濃の斎藤家から迎えた大切な嫁だ。お前の妻であると同時に、織田家と斎藤家を結ぶ存在でもある」
俺は、息を呑んだ。
そのとおりだった。
俺は、濃姫を一人の女性として大切にしたいと思っている。
だが、彼女はそれだけではない。
織田家の正室として、政治的にも重要な立場にある。
俺が軽率なことをすれば、濃姫だけでなく、織田家全体に影響が及ぶかもしれない。
父上は、静かに続けた。
「その娘を迎えるのであれば、濃姫の立場を守ることも、お前の務めだ」
俺は、深く頭を下げた。
「……承知しました」
*
その日の夕方、俺は濃姫の部屋を訪ねた。
彼女は、俺が入ると静かに頭を下げた。
「信長さま。お帰りなさいませ」
「……ただいま」
俺は、畳へ座った。
濃姫も、向かいへ座った。
俺は、少しだけ息を吸った。
「……吉乃と、話をしてきた」
濃姫は、静かに頷いた。
「はい」
「吉乃は、側室になることを望んでくれた」
濃姫の表情が、わずかに変わった。
だが、彼女は何も言わなかった。
俺は、続けた。
「母親との付き合いを続けたいことや、村の人たちとの関係を大切にしたいことも話してくれた」
濃姫は、静かに聞いていた。
「それから、濃姫にも、きちんと会って話をしたいと言っている」
濃姫は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに頷いた。
「そうでございましたか」
俺は、彼女を見つめた。
「……濃姫」
「はい」
「俺は、吉乃を側室に迎えたい。だが、そのために濃姫をないがしろにするつもりはない」
濃姫は、まっすぐ俺を見つめた。
「……信長さま」
「……何だ」
「わたくしは、信長さまのお気持ちを、すべて理解できたわけではございませぬ」
俺は、頷いた。
「……ああ」
「ですが、吉乃どのがご自身のお気持ちで側室になることを望まれているのであれば、その意思を尊重したいと思います」
俺は、息を呑んだ。
濃姫は、少しだけ目を伏せた。
「ただし、ひとつだけお願いがございます」
「……何だ?」
濃姫は、静かに口を開いた。
「わたくしが、織田家の正室であることを、どうかお忘れにならないでくださいませ」
俺は、すぐに頷いた。
「……もちろんだ」
「吉乃どのを大切になさることと、わたくしの立場を守ることは、両立できるはずでございます」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「でしたら、わたくしから申し上げることは、今はそれだけにございます」
俺は、息を吐いた。
「……ありがとう」
濃姫は、静かに首を振った。
「お礼を申し上げていただくことではございませぬ」
そして、少しだけ表情を和らげた。
「吉乃どのには、どうかお伝えくださいませ。お会いできる日を、楽しみにしておりますと」
俺は、胸が温かくなった。
「……分かった」
*
それから数日後、吉乃を側室として迎えることが正式に決まった。
父上の許しを得て、吉乃の母親にも改めて挨拶をし、住まいや身の回りの世話について相談を始めた。
吉乃は、最初こそ少し緊張していたが、母親が涙を浮かべながら喜ぶ姿を見ると、ようやく実感が湧いたらしい。
俺が訪ねたとき、彼女は縁側に座り、少し照れくさそうに笑っていた。
「信長さま。わたくし、本当に側室になるのでございますね」
「ああ」
俺は、頷いた。
「……不安か?」
吉乃は、少しだけ考えた。
「不安がないと申し上げれば、嘘になります」
俺は、黙って聞いていた。
「ですが、信長さまのおそばにいられることは、嬉しゅうございます」
俺は、胸が熱くなった。
吉乃は、柔らかく微笑んだ。
「これから、よろしくお願いいたします」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……こちらこそ、よろしく」
そして、彼女の手を取った。
前の人生では、叶わなかった未来。
吉乃が生きていて、俺のそばにいる。
それだけで、十分に幸せだった。
だが、その幸せを守るためには、これから多くのことを考えなければならない。
濃姫の立場。
吉乃の暮らし。
母親との関係。
そして、いつか生まれるかもしれない子どもたちのこと。
俺は、吉乃の手を握りながら、ゆっくりと息を吐いた。
守るものが増えた。
それは、恐ろしいことでもある。
だが、同時に、嬉しいことでもあった。
俺は、吉乃を見つめた。
彼女は、少しだけ首を傾げた。
「信長さま。どうかなさいましたか」
俺は、思わず笑った。
「……いや。何でもない」
吉乃は、くすくすと笑った。
「また、難しいお顔をなさっておられますよ」
俺は、苦笑した。
どうやら、俺の心配性は、そう簡単には治らないらしい。
だが、これからは一人で抱え込むのではなく、濃姫にも、吉乃にも、きちんと相談していこう。
そう決めた。
……吉乃を側室に迎えたら、守るものが増えたんだが!?




