第55話:運命を変えたはずなのに素直に喜べないんだが!?
運命を変えることができた。
少なくとも、俺はそう信じたかった。
前の人生で吉乃が亡くなった夜は、もう過ぎた。屋根を叩いていた雨は止み、庭の柿の木には朝日が差し込み、村ではいつもと変わらない一日が始まっている。
そして吉乃は、生きている。
布団の中で眠り、ときおり目を覚ましては水を飲み、俺が話しかければ小さく返事をしてくれる。熱に浮かされた頬は赤く、額には汗が滲んでいたが、少なくとも、もう二度と目を開けないのではないかという恐怖からは解放された。
……はずだった。
ところが、実際にはそう簡単にいかなかった。
吉乃が目を閉じるたびに、俺は呼吸を確かめたくなる。少し咳をすれば胸が締めつけられ、水を飲むのを嫌がれば、何か重大な異変が起きたのではないかと考えてしまう。
前の人生で死んだ日を越えたからといって、これから先も生きられる保証など、どこにもない。
その事実に気づいた瞬間、俺は自分がとんでもない勘違いをしていたことを思い知らされた。
俺が変えたかったのは、吉乃の命日ではない。
吉乃が死んでしまう未来そのものだったのだ。
*
朝餉の支度が始まった頃、宗伯が吉乃の脈を確かめていた。
昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、医師の手つきは落ち着いている。吉乃の手首に指を添え、顔色を見て、呼吸の様子を確かめると、今度は本人にいくつか質問をした。
「喉の痛みはございますか」
「……少し、ございます」
「息をするのが苦しいことは?」
「それほどでは……」
「水を飲むと、むせますかな」
吉乃は首を振った。
宗伯は頷き、母親へ向き直った。
「今のところ、昨夜より著しく悪くなった様子はございませぬ。ただし、熱はまだ高うございます。無理に食べさせず、水を少しずつ飲ませ、よく休ませてくださいませ」
俺は、その言葉にすぐ反応した。
「昨夜より悪くなっていないということは、よくなっているのか?」
宗伯は、俺を見た。
「必ずしも、そうとは申せませぬ」
「……そうか」
「病には、よくなったように見えて再び熱が上がるものもございます。今は一刻ごとの変化に一喜一憂せず、半日、一日と様子を見ていくことが肝要にございます」
俺は、唇を噛んだ。
半日。
一日。
そんなに待たなければならないのか。
俺にとっては、たった一刻でも長すぎるというのに。
「……もっと早く、何とかできないのか」
宗伯は、困った顔をしなかった。
怒りもしなかった。
ただ、俺をまっすぐ見て言った。
「若殿さま。病人の体には、病人自身が持つ力もございます。医師の務めは、その力を損なわぬよう助け、危うい兆しを見逃さぬことにございます。私が何かをしたからといって、すぐに熱が下がるとは限りませぬ」
俺は、何も言えなくなった。
現代の医者なら、もっと何かできるのではないか。
そんな考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
そもそも、俺は医者ではない。大学で医学を学んだこともないし、病気の名前をいくつか知っているからといって、診断ができるわけでもない。
抗生物質というものが存在することは知っている。
だが、どうやって作るのかは知らない。
熱を出した人間に水分が必要だという程度の知識で、戦国時代の医療を何百年も進歩させられるはずがなかった。
俺は、宗伯へ頭を下げた。
「……引き続き、頼む」
「承知いたしました」
宗伯は静かに頷き、再び吉乃の様子を確かめ始めた。
その背中を見ながら、俺は自分の無力さを噛みしめていた。
*
昼前になると、吉乃が少し粥を食べたいと言い出した。
母親は嬉しそうに台所へ向かい、俺も思わず立ち上がった。
「俺が作ろうか?」
すると、吉乃が布団の中から目を丸くした。
「……信長さまが、でございますか?」
「ああ。粥くらいなら作れると思う」
現代では、一人暮らしの大学生だったのだ。
米を炊くくらいはできる。
もっとも、こちらへ来てからは薪の火加減を扱う機会がほとんどなく、土鍋も現代の炊飯器ほど親切ではない。火が強すぎれば焦げるし、弱すぎればいつまでも煮えない。
だが、病人のために粥を作るくらいなら、何とかなるのではないだろうか。
俺がそう考えていると、吉乃は小さく笑った。
「……お気持ちだけで、十分にございます」
「そんなに信用がないのか?」
「いいえ。ただ……信長さまがお作りになったお粥では、心配で眠れなくなってしまいそうでございます」
母親が、思わず吹き出した。
俺は、少しだけ肩を落とした。
病人にまで料理の腕を疑われるとは、織田家の若殿としていかがなものだろう。
いや、そもそも若殿が粥を作ろうとすること自体、この時代では珍しいのかもしれない。
結局、粥は母親が作ることになった。
俺は、その間に水を汲み、宗伯が使った器を片づけることにした。
母親は最初こそ恐縮していたが、俺が何度も手伝いたいと言うものだから、最後には苦笑しながら小さな桶を渡してくれた。
庭の井戸へ向かうと、雨上がりの空気がひんやりと頬に触れた。
昨夜までの雨が嘘のように、空には薄い青色が戻っている。
俺は、井戸の縄を引きながら、ふと考えた。
前の人生では、こんなことをする余裕もなかった。
吉乃のそばから一歩も離れたくなくて、母親や近所の人たちが何をしているのかさえ、ほとんど見ていなかった。
今は、こうして水を汲んでいる。
吉乃が生きているからこそ、できることだった。
そのことに気づき、俺は少しだけ胸が温かくなった。
*
吉乃は、粥を三口ほど食べた。
それだけで疲れたらしく、器を母親へ返すと、再び布団へ横になった。
俺は、その様子を見て不安になった。
「……もう食べないのか?」
吉乃は、小さく頷いた。
「……今は、これで十分にございます」
「だが、三口しか食べていないぞ」
「……お腹が、いっぱいでございます」
俺は、思わず宗伯を見た。
宗伯は落ち着いた様子で頷いた。
「今は無理に食べさせずともよろしゅうございます。水が飲めておりますので、様子を見ましょう」
俺は、ようやく口を閉じた。
だが、納得したわけではなかった。
現代で風邪をひいたとき、母親から何か食べなさいと言われたことを思い出す。食欲がないと言っても、果物や粥を勧められ、少しでも口にすれば安心したような顔をしていた。
今の俺は、まさにそれだった。
吉乃が食べてくれれば安心できる。
だが、食べたくないと言われると、不安になる。
結局、俺は吉乃の体調を見ているつもりで、自分の安心できる材料を探しているだけなのかもしれなかった。
そのことに気づいて、少し恥ずかしくなった。
*
午後になると、十衛門が城から戻ってきた。
昨日から村と城を行き来しているため、さすがの鬼教官も少し疲れた顔をしていた。だが、背筋は相変わらずまっすぐで、俺を見るなりいつもの調子で頭を下げた。
「若殿。お城からのお知らせにございます」
「……何かあったのか?」
「いえ。信秀さまには事情をお伝えしてございます。吉乃どののご容体が落ち着くまで、こちらにおられても構わぬとのことでございます」
俺は、思わず息を吐いた。
「……父上が?」
「はい。ただし、戻られましたら、溜まった仕事はすべて片づけていただくとのことで」
俺は、苦笑した。
実に父上らしい。
だが、ありがたかった。
俺は、十衛門へ礼を言った。
「……助かった」
「いえ。それから、濃姫さまより、お預かりしたものがございます」
十衛門は、後ろに控えていた小者へ合図した。
小者が差し出した包みには、清潔な布と、干した薬草を入れる小袋がいくつか収められていた。さらに、吉乃の母親へ渡すようにと、米や味噌も用意されている。
俺は、少し驚いた。
「……濃姫が?」
「はい。ご病人のお世話には何かと物入りであろうと仰せになりまして」
俺は、包みを見つめた。
濃姫は、吉乃を側室に迎えることについて、まだ納得していない。
それは当然だ。
自分の夫が別の女性を好きになり、その女性を側室にしたいと言い出したのだから、簡単に受け入れられるはずがない。
それでも、吉乃が病になったことと、側室の問題は別だと、濃姫は言ってくれた。
俺は、包みを受け取った。
「……帰ったら、礼を言わないとな」
十衛門は、静かに頷いた。
そして、少しだけ声を落とした。
「若殿。濃姫さまも、昨夜はあまりお休みになられなかったご様子にございます」
俺は、顔を上げた。
「……そうなのか」
「はい。若殿からのお知らせが届くたびに、吉乃どののご容体をお尋ねになっておられました」
俺は、何も言えなくなった。
濃姫は、俺のことも心配している。
吉乃のことも、気にかけてくれている。
それなのに俺は、昨夜から一度も濃姫のことを考える余裕がなかった。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……十衛門。悪いが、濃姫に伝えてくれ」
「何とでございますか」
「吉乃は、まだ熱がある。だが、今朝も目を覚まして、少しだけ粥を食べた。俺も無事だ、と」
十衛門は、頷いた。
「承知いたしました」
俺は、少し考えてから付け加えた。
「……それから、ありがとう、と」
十衛門は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「そのまま、お伝えいたします」
*
夕方近くになって、吉乃の熱が少し下がった。
宗伯が額へ手を当て、脈を確かめたあと、昨夜よりは熱が落ち着いていると告げたのだ。
俺は、思わず立ち上がった。
「本当か!」
「はい。ただし、まだ平熱というわけではございませぬ」
「それでも、よくなっているんだな?」
宗伯は、少しだけ考えた。
「回復へ向かっている可能性はございます。ですが、今夜も熱が上がることは考えられますので、引き続き注意が必要にございます」
俺は、頷いた。
分かっている。
まだ安心してはいけない。
だが、それでも嬉しかった。
俺は、吉乃のそばへ座った。
「……吉乃。少し熱が下がったらしいぞ」
吉乃は、薄く目を開けた。
「……そうでございますか」
「ああ。宗伯が言っていた」
吉乃は、少しだけ微笑んだ。
「……それは、ようございました」
俺は、思わず笑った。
だが、次の瞬間、吉乃が小さく咳をした。
俺は、反射的に身を乗り出した。
「……大丈夫か?」
吉乃は、咳が収まると、少しだけ困ったように笑った。
「……信長さま」
「何だ?」
「……わたくしが咳をするたびに、そのようなお顔をなさらないでくださいませ」
俺は、言葉に詰まった。
吉乃は、静かに続けた。
「……信長さまが、ずっと苦しそうでございます」
俺は、何も言えなかった。
確かに、そうなのかもしれない。
俺は吉乃のそばにいる。
だが、彼女が少し動くたびに不安になり、咳をするたびに顔色を変え、食事を残せば心配している。
吉乃は、自分の病だけでなく、俺の不安まで気にかけなければならなくなっていた。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ごめん」
吉乃は、少しだけ微笑んだ。
「……謝らないでくださいませ。ただ、信長さまも少しお休みになっていただきとうございます」
俺は、首を振りかけた。
だが、吉乃がまっすぐ俺を見つめていたので、言葉を飲み込んだ。
「……分かった。少しだけ休む」
吉乃は、安心したように微笑んだ。
*
俺が隣の部屋で横になったのは、それからしばらくしてのことだった。
畳の上に敷かれた布団へ体を沈めると、急に全身が重くなった。二晩ほとんど眠っていなかったのだから、当然といえば当然だった。
だが、目を閉じると、すぐに前の人生の光景が浮かんできた。
雨。
熱。
吉乃の手。
そして、動かなくなった胸。
俺は、思わず目を開けた。
隣の部屋から、母親の声が聞こえる。
吉乃に水を勧めているらしい。
そのあと、吉乃のかすかな返事が聞こえた。
俺は、ほっと息を吐いた。
生きている。
まだ、生きている。
だが、俺はふと考えた。
この先、吉乃が熱を出すたびに、俺はこうなるのだろうか。
冬に風邪をひいたら。
夏に腹を壊したら。
畑仕事で怪我をしたら。
そのたびに、前の人生の記憶が蘇り、吉乃が死んでしまうのではないかと恐れるのだろうか。
もし、そうだとしたら。
俺は、吉乃と幸せに暮らせるのだろうか。
吉乃が元気に笑っていても、いつか病になることを恐れ、外へ出かければ怪我を心配し、少し疲れた顔をすれば無理やり休ませようとする。
そんな生活を、吉乃は望むだろうか。
俺は、天井を見つめた。
前の人生では、吉乃を失った。
今度は、失いたくない。
その気持ちは、これからも変わらないだろう。
だが、失うことを恐れるあまり、吉乃から自由を奪ってしまったら。
それは、本当に彼女を守っていると言えるのだろうか。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
吉乃が以前、柿の木の下で話してくれた言葉を思い出す。
変えられぬことがあるからといって、何もできぬわけではない。
そして、助けたいと思うことと、必ず助けられると思うことは違う。
あのときの俺は、吉乃の言葉を理解したつもりでいた。
だが、本当は何も分かっていなかったのかもしれない。
俺は、吉乃を助けたい。
だが、必ず助けられるとは限らない。
その事実を受け入れたうえで、それでも彼女と生きていく覚悟が必要なのだ。
*
目を覚ましたとき、外はすっかり暗くなっていた。
俺は、慌てて体を起こした。
どれくらい眠っていたのだろう。
隣の部屋から、話し声が聞こえる。
俺は、すぐに襖を開けた。
吉乃は、布団の上で少し体を起こしていた。
母親が背中を支え、宗伯が何かを尋ねている。
俺は、思わず駆け寄った。
「……吉乃!」
吉乃は、顔を上げた。
そして、少しだけ笑った。
「……信長さま。お目覚めでございますか」
俺は、息を吐いた。
「……ああ」
宗伯が、静かに口を開いた。
「若殿さま。吉乃どのは、先ほど少し粥を召し上がりました」
俺は、顔を上げた。
「……本当か?」
「はい。昼よりも、少し多く召し上がっておられます」
俺は、胸が熱くなった。
吉乃は、少しだけ得意そうに笑った。
「……五口も、いただきました」
俺は、思わず笑った。
「……たった五口で自慢するなよ」
「……昼より、二口も多うございます」
俺は、声を出して笑った。
久しぶりに、自然に笑えた気がした。
吉乃も、嬉しそうに笑っていた。
だが、笑ったあとで少し疲れたらしく、再び布団へ横になった。
俺は、その様子を見ながら、ようやく少しだけ安心した。
まだ、病は治っていない。
それでも、吉乃は少しずつ回復している。
俺は、その小さな変化を喜ぶことにした。
*
夜になって、十衛門が再び顔を出した。
城からの使いを連れてきたらしく、濃姫からの短い文を預かっているという。
俺は、文を受け取った。
そこには、吉乃の容体を気遣う言葉と、俺にも無理をしないようにという忠告が書かれていた。
そして、最後に一文だけ、こうあった。
『吉乃どのがお元気になられましたら、どうか一度、私にもお会いする機会をお与えくださいませ』
俺は、しばらくその文字を見つめていた。
濃姫が、吉乃に会いたいと言っている。
これまで、二人は互いの存在を知っていながら、きちんと向き合って話す機会がなかった。
俺が、避けていたからだ。
濃姫が傷つくのが怖かった。
吉乃が困るのも嫌だった。
だから、二人を会わせることを先延ばしにしていた。
だが、それでは何も変わらない。
俺は、文を丁寧に畳んだ。
そして、吉乃の寝顔を見つめた。
彼女が元気になったら。
俺は、濃姫とも吉乃とも、きちんと話をしよう。
どちらか一人に我慢を押しつけるのではなく、二人の気持ちを聞き、俺自身の覚悟も伝えよう。
側室に迎えるということが、何を意味するのか。
その先に生まれるかもしれない子どもたちを、どう守るのか。
これまで曖昧にしてきたことを、一つずつ決めなければならない。
俺は、吉乃のそばへ座った。
彼女は、静かに眠っている。
その呼吸は、昨夜よりも少し穏やかに見えた。
俺は、そっと彼女の手を握った。
前の人生では、吉乃を失った。
今度は、彼女が生きている。
だが、運命を変えるということは、ただ一つの死を避けることではないのかもしれない。
吉乃が生き延びたことで、俺たちには新しい明日が生まれた。
そして、その明日をどう生きるかは、まだ何も決まっていない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
ようやく、分かった気がした。
俺が本当に変えなければならないのは、吉乃の命日だけではない。
彼女を失うことを恐れて、目の前の幸せさえ見失ってしまう、俺自身なのだ。
……運命を変えたはずなのに、素直に喜べないんだが!?




